四話
春はあけぼの。
ようよう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
枕草子、冒頭の一文を思い出しながら朝靄の中を歩く。
時刻は午前五時、顔を出したばかりの陽光に照らされて御所の緑が冴える。
水滴の滴る青葉の匂いは、ややぼやけた思考まで洗ってくれるようで心地良い。徹夜明けでもこの光景に出会えるのなら悪くない、と自分に言い聞かせながら歩いた。
「今日の予定は……接見と……ああ、捺印があったか」
外出が控えられている現在、日桜殿下は御所から出ることがない。
何かが起こっていることは間違いない。
しかし、俺から動くことが良いとも思えず、悶々とした日々を送っている。
あとは仕事だ。
鷹司の代わりはできるようになってきたのだが、やはり重圧も大きい。
「一週間くらいならできるけど、一ヶ月となるときついもんだ」
最近は肩が凝って仕方ない。
腕のいいマッサージか整体、鍼灸師でも紹介してほしいものだ。
ぼんやりと考え事をしつつ歩き、最奥部にある殿下の寝所へとたどり着いた。
入口に立ったところで奥から声がする。
なんとなく、靴を脱がずそのまま裏へと回れば雨戸が開いている。
生垣の隙間から覗けば日桜殿下とエレオノーレが見えた。
寝間着姿のまま最初はノーラが殿下の髪を梳き、次に殿下がノーラの髪を梳く。
一度奥に引っ込んだのは衣服を整えるためだろう。その間に寝所へ侍従たちが朝食を運ぶ。
小さな座卓に食事が並び、そこへ服装を整えた二人が座る。侍従たちを労いさがらせると殿下は合掌、ノーラは十字を切って食べ始めた。
まだ箸が得意とは言えないノーラをちび殿下がフォローし、笑顔のまま食事が進む。
近頃の殿下は良く食べる。
裂海に教わったという卵かけごはんがお気に入りなのに、不器用だからか啜ることも丸飲みもできない。
今も小さなお櫃からおかわりをとって、自分で殻を割り、献上品の醤油をかける。
生食の習慣がないノーラに毎回勧めるのもお約束。
真っ白な御子服に醤油をこぼしてもさして気にすることもなく、律儀に箸ですくっては美味しそうに召し上がる。
べたべたになった口元をノーラが拭く光景は仲の良い姉妹のようだ。
「やれやれ」
前掛けくらいはしてほしいと思ったが、声をかけることも忘れて見入っていた。
気が付いたのは二人が寝所から出て御所へと向かった後。
「……」
自然と笑みが浮かぶ。
体の疲れなど、どこかへ消え去っていた。
「さぁ、頑張ろうか」
自分の選択が間違っていなかった……いや、今のところは、としか言えないが、良かったと思う。
踵を返し、仕事部屋へと戻る。
◇
鷹司の代わりをやり続けて一ヶ月が過ぎる。
通常、組織運営で難しいとされるのは金のやり繰り。しかし、近衛は潤沢な資金があるため、それほど気にかけなくてもいい。
もっとも重要になるのは各部隊長や関係各所とのやりとり。
部隊長はまだいい。身内であり、こちらの状況も呑み込んでくれるのだが、新米にはハードルが高い。
『また不在か……』
「すみません」
『君が謝ることじゃないさ。むしろ大変なのは君の方だろう。入って一年弱で副長の代わりをするなんて、普通じゃできないことだ』
「そういって頂けると……」
パソコン画面の向こう、北海道奥尻島に駐留する第一大隊を率いる青山総司は近衛、いや武家の出身とは思えないほど気さくに接してくれる。
「補充員の件は私から副長へ伝えます」
『頼む。こっちはもう三か月も缶詰で、隊内の空気も悪くなってきている。今はロマノフが大人しいから何とかなっているが、緊急出撃が続くと、そうもいっていられない』
「承知しました」
『君が俺の代わりもしてくれると有り難いんだがね』
「ご冗談を。私では部隊をまとめることはできません」
『そうかな? 騎士王との一件は聞いているよ。あの怪物を直接殴ることができる者は近衛でも少ない』
「手心を加えて頂いただけです」
『だとしても、だ。一度奥尻に遊びに来るといい。海産物は食べ放題だぞ』
「とても魅力的です」
器用に片目を閉じる第一大隊長。
立花の癖はこの人譲りなのだと知ったのはつい最近だ。
『あっと、悪いな、時間だ』
「こちらこそお時間を頂きました」
『ああ、それじゃあ皆によろしく』
こんな調子で遠くにいる各大隊長たちと話をしていく。
まぁ、京都の鶴来だけはメールのみ。あまり話したくもないし、向こうも同じだろう。
とはいえ腹の虫はまだ収まっていないので経費の増額は却下しておいた。
続いては隠岐に駐留する第六大隊。
パソコン画面で呼び出しを押せば一秒とかからずにつながった。
『お久しぶりです榊殿。御壮健であられたか』
「お陰様で。直虎さんもお元気そうで何よりです」
第六大隊長、立花直虎は隠岐を拠点に日本海側の海防を担っている。
北海道奥尻がロマノフとの最前線なら、京都舞鶴、福井敦賀の海軍とも連携する第六大隊は共和国との最前線。精強且つ統制がとれた近衛屈指の実戦部隊。
「すみません、副長は今日も外出しています。私でよろしければご用件を伺います」
『承知しました。早速ですが半月ほど前から漁船に偽装した工作船と散発的な戦闘が発生しています。今のままでは装備の不足が予想されるため、用意をお願いしたいのです』
「分かりました。送り先は舞鶴でよろしいですか?」
『お話が早くて助かります』
「恐縮です」
直虎さんの褒め言葉に苦笑いが浮かぶ。
第六大隊の拠点は隠岐なのだが、日本海側の離島であるため輸送には時間がかかる。しかし、舞鶴なら東京から一日で届く。
第六大隊は直虎さんの尽力もあり舞鶴の海軍とも懇意にしているので、便宜が図りやすい。
報告書を読んでいれば分かることなのだが、この人は本当に気配りが上手だ。
『榊殿、少しお疲れではありませんか?』
「はい?」
思いがけず心配され、妙な声が出る。
『声に張りがありません。折衝でお困りですか?』
「いえ、そういうわけでは……」
『気疲れなさっていることと思います。ご自愛ください。殿下が心配されます』
「……なるほど」
情報源はちび殿下だ。
鷹司とは方向性こそ違うものの、直虎さんも日桜殿下には甘い。
だだ甘やかしの鷹司と比べると直虎さんは母親というか、肉親的な部分がある。
より親身、といえばよいのだろうか。
「私は大丈夫です。しかし、問題になるとすれば副長の方でしょう。最近は部屋に戻った形跡がありませんから、霞が関に詰めているものと思われます」
『霞が関……副長は霞が関へ行っておられるのですか?』
直虎さんの声がトーンを落とす。
九段では周知の事実なのに遠方へは伝わっていないのか。
「ご存じなかったのですか? 副長のことですから直虎さんへはお伝えしているとものと思っていましたが……」
『ふむ』
考え込む。美人が悩む姿も悪くない。
それにしても直虎さんと鷹司の関係は不思議だ。
全幅の信頼、話してもいないのに互いの意思を共有しているようにも思える。
『榊殿はどこまでご存じですか?』
「私自身はなにも。ですが、裂海優呼や政治家の先生方から遠回しな情報は聞こえてきています」
『わかりました。副長がなにも仰らない、伝えないということは必要性がないか、あるいは独力での解決が最善だと考えておられるのでしょう。だとしたら私が口をはさむべきではないと考えます』
「私もそう思います。何かしらの動きはあるようですが、副長が間違ったことをされるとは考えにくい。静観が最善と考えました」
『良く見ておられる』
「誰でもわかることです」
互いに笑う。
鷹司は非常に思慮深い。考え方こそ情に厚く、優しすぎるが仕事には実直。
城山のように彼女の性格を把握しつつ利用しようとするならまだしも、今回は関わっていない。
現政権で鷹司霧姫をどれだけ把握しているかは疑問が残るものだが、その可能性は低いだろう。
だとしたら利用されているのではなく、厄介ごとに首を突っ込んでいることが予想された。
『副長なら万が一もないと思いますが……』
会話の途中で後ろのドアが小さなノックと開く音が聞こえ、直虎さんが瞬時に気付く。
小さな足音と光彩を反射する美しく長い黒髪といえば、一人しかいない。
「大丈夫です。お任せください」
『承知しました。それにしても……』
話しをしている間に、小さな人影は俺の横までやってくると膝に乗り、顔を机の上に出す。
直虎さんは破顔していた。
「……なおとら?」
『はい殿下。直虎めにございます』
「……さかきとおはなし、ですか?」
座りやすいようにと両膝を閉じ、小さな体の脇を抱えてから座りなおさせる。
まるで人間ソファーになった気分だ。
『はい。少しばかり装備の補充についてお話をしておりました。もう終わりましたよ』
「……にんむ、たいぎです」
『有り難き幸せにございます』
「……あまりむりをしないよう、みなさまにもおつたえください」
『皆も喜ぶことでしょう』
「……はい」
微笑ましいやりとりに、数分前の緊張感は霧散する。
『では榊殿、私はこれで。殿下、来月は帝都に参ります。またお会いできる日を楽しみにしております』
「……はい」
『副長がご不在で大変と存じます。お困りのことがあれば直虎めに申し付けください。できる限りのことは致します』
「……わかりました。なおとらも、げんきで」
『ははっ』
敬礼をして映像が途切れる。
するとちび殿下は背中をこちらに預け、のけぞるようにこちらを見た。
「どうかなさいましたか?」
「……あさ、こなかったので、きになりました」
「すみません」
どう誤魔化そうか悩んでいるとドアがノックされ、
「ヘイゾウさん、いらっしゃいますか?」
声が聞こえる。
ちび殿下のご機嫌をとるように頭を撫でつつ促せば、ノーラがやってくる。
「こんにちはヘイゾウさん」
ノーラは丁寧にお辞儀をしてから、ちび殿下に向き直る。
「殿下、抜け駆けはなしだと申し上げたではないですか」
「……なおとらと、すこしおはなしをしていました」
「抱っこで、ですか?」
「……?」
「もういいです。私も混ぜてください」
ノーラまで膝に乗り俺の両太腿が占領されてしまった。
「まだ仕事があるのですが……」
「……どうぞ」
「見学しています」
促され、服にしがみつかれてしまう。
こうなったら二人はもう動かない。
「では、今しばらくお待ちください」
捗らない中、ちび二人に見られながら仕事を続けることにする。
直虎さんに言われた支給品を用意すべく、ウインドウを開く。
新たに表示されるのは近衛服の進捗状況。
近衛服は特殊な防刃、防弾繊維からできている。発注する立場になって分かったのは管理の難しさだ。
「布はあるのに、仕立てが追い付いていませんね」
「そうだね。近衛服は全部手縫いだから、布はあっても形にはし難いんだ」
「まぁ……」
「……!」
ノーラが驚きの声を上げ、ちび殿下と一緒になって俺の着ているものを触る。
「この特殊装備は近衛を家族に持つ人や、過去に近衛を輩出した家系の女性が作っている。縫いにくい上にセミオーダー、苦労が偲ばれるよ」
救いといえば近衛内で極端な身長の差がないこと。
一番高い立花と副長、直虎さん、裂海、ノーラという女性陣を除けばほとんどが一六五センチから一七五センチの間にいるので着回しができる。
「布は三層構造で一枚目が防弾、二枚目が防刃。生産しているのは帝国大学から技術供与された群馬県桐生の帝国繊維と京都府丹後の日本繊維工業の二社。肌に触れる内側は絹。白いのは出血箇所を判別するため。とても考えられたデザインだといえる」
知らなかった事実に二人が溜息を漏らす。
軍でも防弾繊維やセラミックプレートを用いたボディアーマーは普及しているが、これだけ高性能で機能を積み込み、普段使いできるのは近衛の特殊さと皇族の権威にある。
「……どうか、しましたか?」
「いえ」
ちび殿下が目を瞬かせた。
いま説明しても困るだろうし、殿下ならあるいは知っているかもしれない。
この御方がどれほど稀有であるか、実感するのは俺の方だ。
「新しく作られた分は全て奥尻と舞鶴に送ります。あとは現行分で間に合わせるしかありません。ノーラ、君のはサイズがない。大事に着るように」
「承知しました。それにしても……」
ノーラが自分の近衛服を触る。
普段何気なく着ているものも詳しく知ることで愛着や大事にしようという心が生まれるだろう。
しかし、注意も必要になるときがある。
「近衛服というのはドレスのようですね。手間暇がかかっていますし、手縫いですから温かみも感じます」
「分かってもらえて嬉しいよ。ちなみに、日桜殿下の御召物は全て絹、布から装飾まで全て手作業です。お醤油をこぼしては染み抜きが大変だと侍従が申しておりました」
「……!」
ちび殿下が息を飲む。
知っているとは思わなかったのか、耳まで真っ赤になった。
まぁ、普段は食が細いのだから食べられることはいいことなのだが、高貴な御方にしては行儀が悪い。
「あれだけの材料なのですから美味しいのはわかります。ですが、前掛けはなさってください」
「……ど、どうして、しっていますか?」
「私は殿下専属の護衛です。偶には生垣の隙間からこっそりと観察することもあるでしょう。しかしまぁ、口の周りをべたべたにするのは年相応で可愛らしいですよ」
額を突っつけば、ちび殿下は過去最大級に頬を膨らませる。
ハリセンボンでももう少し大人しいと思えるほどだ。
「……さかき」
「はい殿下。なにか御用ですか?」
ちび殿下が膝から降り、とことこと一人接待用のソファーに座るとぺちぺちと太腿を叩いた。
「……こっち、です」
「殿下、私はまだ仕事が残っています」
「……」
頬を膨らませっ放しの殿下は懐をごそごそと探り、真新しいスマートフォンを取り出すと、ぎこちない手つきで操作し、耳に当てた。
「……なおとら、さかきが、いじめます」
「ぶふっ!?」
「きゃっ、ヘイゾーさん、汚いです!」
「す、すまない。でも……」
二人で殿下をみつめる。
「……はい……そうです。いじわる、です」
数回のやり取りの後、通話を切りスマートフォンを仕舞う。
ほぼ同時にパソコンの画面には直虎さんからの通話を伝えるウインドウが現れた。
嫌な予感しかしない。許可をクリックすれば渋面の女剣士がいた。
『榊殿』
「は、はい」
『あまり、このようなことを申し上げるべきではないのは承知しています。ですが……どうか』
この人に真摯に頭を下げられると弱い。
視線をちび殿下へ向ければ、不満顔のままぺちぺちを繰り返している。
進退窮まったとはこのことだ。
「分かりました。ですから顔を上げてください」
『感謝します。それでは』
通信が途切れ、溜息を漏らす。
最近は回避できていたのだが仕方ない。立ち上がろうとするとすまし顔のノーラと眼があった。
「二つ貸し、です」
俺にも聞こえるか聞こえないかの微かな声。
せいぜい一つだろう、そう口に出そうとすると、
「私と千景さんの分です。不公平は許しません」
眼が笑っていない。
この子の将来が心配だ。
「わかったよ」
「どうぞ」
どいてもらい、膨れる殿下へとたどり着いた。
「……はやく、こっち、です」
「はいはい」
ソファーに寝っ転がり、多少は厚みの出てきた太腿へと頭を乗せる。
間近に殿下の顔があると落ち着かない。
「……ひとを、おとしめてはいけません」
「事実を申し上げたまでですが……」
「……へりくつも、いけません」
覆い被せる様に髪を撫でられる。
それからは殿下に説教をされながら、ノーラからは冷たい眼で見られながら、と苦しい時間になってしまった。
やはり、仕事は一人でやるに限る。




