三話
医務室にはあまり良い思い出がない。
近衛に来てからは生傷の絶えない日々を過ごし、何度通ったか知れない。
その度に部屋の主からは心配ないと突き放されもした。
今では別の用件で訪れることが多い。
「はい、大きく息を吸って……吐いて。もう一度吸って……」
白い仕切の向こうでは日桜殿下が毎週の恒例となっている検診を受けている。昨年夏に倒れて以来、それまで月一回だった検診が週一回になった。
担当は伊舞朝来。
皇族、近衛の医療班を兼務する見た目は二〇代なのに実年齢は六〇歳という妖怪ババアだ。
「じゃあ次、身長と体重ね」
「……はい」
ちび殿下の声とわずかな衣擦れの音が聞こえる。
伊舞はさすが年長だけあって殿下の扱いも上手い。
「はい、じゃあここ乗って。そう、背中をつけるのよ。顎を引いて、そう……」
察するに身長を計っているのだろう。
たしか、先週の時点で身長は一三八センチ、体重は……秘密らしいが持った感じでは軽い、の一言に尽きる。
食事事情は幾分か改善させたのにあまり増えてはくれない。
大きめの段ボールならすっぽりと入ってしまいそうだ。
「身長は……残念ながら変化なし。体重は五〇〇グラム増、と」
「……あさこ、だめ、です」
「別に良いじゃない。それに、増えるのは良いことよ。成長期なんだから」
どうやら縦は伸びなかったらしいが、嵩は増えたようだ。
先週からの食事を思い出しつつ、給仕と調理担当にどう伝えようか考える。
「……しんちょう……のびません」
「ならもう少し食べなさい。それとも公務を減らす? そっちの方が効果的だと思うわ」
「……だめ、です」
頑なに、首を横に振る姿が想像できてしまう。
真面目で融通が利かない。これは美点でもあるが、幼い体には酷だ。
「仕方ないわね」
「……ごめんなさい」
ババアは諦めも早い。
殿下も素直に受け入れないでほしいものだ。
俺の苦労は減らないらしい。
読む本に栄養学のものも追加しようと考えていると、目の前に座るもう一人の幼女が興味深そうにのぞき込んでいた。
「気にならないんですか?」
「ん? ああ、健康だということが分かれば別に、ね」
「ふぅん」
話しかけてきたのはエレオノーレ。
最近では伊舞に師事し、医務室にいることが多い。
彼女は俺とはまた違った意味で殿下の専属として従事している。
同い年、性別も同じ、元々が高貴な身分ということもあって事情を理解してくれるのは有り難い。
「ヘイゾーさんは小さい方がお好きですか?」
「……」
「それとも大きな方が?」
子供の質問に、思わず目頭を押さえた。
どうにも、最近はこの手の話題が多い。
「私、殿下や千景よりもあると思うんです。どちらがお好みですか?」
「ノーラ、ちょっと」
「はい」
手招きをすれば跳ねる様な足取りでやってくる。
抱き着いてきそうな勢いを人差し指で弾く。
「何するんですか、もう!」
「大きい、小さい、の問題じゃない。君たちはまだ成長期、健全に育つことが重要なんだ。大きい小さいは一〇年後にしてくれ」
「でも……朝来が胸の大きさは一五歳までに決まるっていってました。大きい方が好きなら今から努力します!」
ちび殿下のように頬を膨らませて抗議してくる。
一緒にいる時間が長いせいか、二人とも仕草が似てきている気がする。
「いいかい、君たちには十分な睡眠と整った食事、健康でいることが重要だ。大きい小さいは結果でしかない」
「でも……」
「個人的にも健康でいてくれた方が嬉しい。大きい小さいはその時に決めるよ」
「! 殿下!」
「んん?」
ノーラの呼びかけに、いつの間にか真後ろにいたちび殿下に気付く。
大きな瞳はなぜかいつもより煌いてみえた。
「……ほんとう、ですか?」
「えっと……」
「……おおきくなくても、いいですか?」
妙なところばかり聞いていて困る。
御子服の紐も結ばないままというのは行儀が悪い。
「殿下、まずは御召物を整えてください。ノーラ」
「かしこまりました」
殿下の胸元に触れるわけにもいかず、ノーラに任せる。
御子服の紐を結んでもらう間もちび殿下の瞳はこちらをまっすぐ見ていた。
「殿下、無駄に大きくなくてもよいのです」
「……そのことば、しんじます」
「如何様にも」
会話だけで疲れる。
最近ではここに千景が加わると手に負えない。
「殿下、整いました」
「……ありがとうございます」
「いえ、組紐を結ぶのは難しいですからお任せください」
「……そろそろ、じかん、ですね」
殿下が医務室備え付けの時計を気にする。
時刻は一三時、一時間後には接見が控えていた。
普段なら二人を連れて御所に戻るのだが、今日は別の用事があった。
鷹司の不在で忙しいのは伊舞も同じ。殿下の検診でもなければ会うこともない。
「俺は少し用事がある。二人は先に行ってくれ」
「……?」
「珍しいですね。体調でも悪いのですか?」
「たいしたことじゃないさ」
殿下とノーラは不思議そうにしながらも御所へと向かう。
さて、懸案事項を伺うとしよう。
「なによ、私も忙しいんだけど」
「存じています」
「……いいわ」
伊舞が医務室のドアを閉め、奥へと招いてくれる。エタノールの臭いがなぜか懐かしい。
医務室にもかかわらず、愛用の長煙管で煙草を吸い始める。
「で、私に用事ってなに?」
「折り入ってご相談がありまして」
伊舞の眼が細くなり、機嫌が悪くなるのがわかる。
警戒されていること自体が心外だ。
「アンタが持ち込むことはロクなものがないわ。どうせまた厄介なことなんでしょう?」
「厄介事など持ち込んだ記憶がありません」
「良くいうわよ。アンタそのものが厄介事の塊みたいなものなんだから」
長煙管を灰盆に打ち付ける。
「私の固有について、です。昨年は二度も助けて頂きました。直に治療された伊舞さんなら固有についても見識をお持ちなのでは、と」
「今更なによ?」
「これです」
左腕を差し出す。
少し前までは歪さを残していたのに、今では右腕と遜色がない。
内部に埋め込んだ装甲は触ればあることがわかる程度、妙に馴染んだ状態になっている。
「みせなさい」
嫌そうにしながらも伊舞は腕を触る。
押し、引っ張り、関節を揺する。
「同化……ってわけじゃなさそうね。痛みや違和感はある?」
「ありません。最近は重さも感じなくなりました」
「そう」
生返事をしながらも肘から二の腕、肩口まで、続いて右手も同じように触る。
両腕、肩、背中と一通り撫で回してから伊舞は再び煙管をくわえた。
「どうでしょうか」
「左腕に合わせて両腕、それに広背筋が発達したように思えるわ。左腕だけ重いなら右腕と肩、背中の筋量も増やしてバランスを取った感じがするわね」
「特に運動をしていません」
「近衛ならしなさい」
煙を吹きつけられる。
このままではラチが開かない。
「私の固有について見識を伺いたいのです」
「……内分泌型、脳下垂体からの分泌物と副腎皮質ホルモンを中心としたもの」
「私自身は対症療法に近い、体の防御反応なのかと思っています」
「……」
伊舞は一旦灰を落とした後、煙管の先端に煙草の葉を詰め、炭にかざして火をつける。
そのまま大きく吸い込み、紫煙を吐きだした。
「内分泌型ということにしておきなさい。その方が幸せよ」
「自分自身のことくらい知っておきたいものなのですが……」
「知ったら使う。アンタならね」
笑ってしまった。
半分正解だ。
「分かっても分からなくても、仮説のまま使います。当てが外れたら……その時はその時です」
「ずいぶんと刹那的なのね」
「失礼しました。積極的に捨てにかかるわけではありません。必要であれば厭わないというだけです。私も死にたいわけではありませんから」
睨まれたかと思えば舐める様に観察される。
この人を前にすると実験動物にでもなった気分だ。
「まぁ、いいわ。私も仮説でしかないけれど、それでも聞きたい?」
「お願いします。できれば、素人にも分かりやすくお願いします」
「変化……あるいは適応」
伊舞の言葉に眉を顰める。
変化も適応も、似ているようで違う意味がある。
「アンタが虎の毒を受けた時、腹を開いたら内臓が溶けかかっていた。でも、それ以上進行していなかった。時間の経過とともに溶解は進むものだけれど、それがなかったのよ」
伊舞は上を向き、中空に煙の輪を作る。
「輸血をした途端、細胞が動き始めたわ。見ていて気持ち悪くなるくらいの速さで臓器は元の形を取り戻し、脈動を始めた。普通の人間が、近衛でも何ヶ月もかかる治癒を数時間で完了していた。その代り膨大な栄養が必要だったみたいだけど」
京都での事に似ている。
いや、あの時すでに俺の体はそうなっていたらしい。
「出血毒は細胞が破壊されていくものだから、それを上回る速度で新たなものを作る。神経毒は……あまり考えたくはないのだけれど、神経の伝達に別の物質が用いられた可能性があるわ」
「別?」
「神経毒は神経伝達物質の結合を妨げることで麻痺を引き起こす。なのに、アンタは動き回って呼吸をしていた。出血毒の効果はあるから効かなかった、というのは考えにくい。仮説は二つ。一つは解毒、二つ目は従来とは違う方法で伝達がおこなわれた」
伊舞は実に気だるげだ。
遠くを見つめながら、長煙管を弄ぶ。
「神経毒に対して、単一の物質で解毒することはできない。残留毒素の除去、抗毒素血清、ステロイド投与、あとは対症療法をするしかない。まぁ、アンタの場合は脳下垂体や副腎皮質から色々なものを垂れ流しているわけだから、解毒ができないとも限らないわね」
「二つ目の、従来とは違う方法とは?」
「虎の神経毒は複数にまたがるわ。デンドロトキシン、コブラトキシン、バトラコトキシン、ティティウストキシン、カリブドトキシン。どれも作用する伝達物質が違う。複数の症状に一括して対処するには……従来のモノが使えないなら、どうしたらいい?」
「新しく作り直す、でしょうか」
「私の仮説ではこの二つが同時に行われていた。立花弟が助かったのはアンタの血液を拮抗薬として使えたからよ。その間に輸血と各種血清投与、あとはあの子の固有で毒に侵された箇所が少なかったのもあるかしら。まぁ、それでも相当なダメージが残ったけど」
脳内物質だけだと思っていたが、違うらしい。
思い返せば初めて喉を切られた時も、わずかな時間で回復していた。
「……簡単に新しいものを作れるのでしょうか」
「それができたら、人類は次のステージに立っているわね」
「つまり、人間じゃない」
「自虐が好きなの? 強がるのは止めなさい」
伊舞は長煙管の灰を落とす。
新しい葉を詰め、まるで気を紛らわせるように火をつけて煙を吸い込んだ。
「伊舞さんはどのように思われますか?」
「問いかけが多いのは不安な証拠。いいわ、少し相手をしましょう。私の固有は知ってる?」
「……いえ。ついでに申し上げれば刀のことも疫病切ということしか知りません」
「私の固有は不老、疫病切は生物ならなんでも切れる。ただし、使用者の寿命を喰う」
口角を上げ、薄く笑う。
情報量が多すぎて整理ができない。
不老、寿命を喰う刀。
どちらも特異、常識の範疇を超えている。
「そ、それで若々しいままなのですね」
「あら、そんな顔もするのね。長生きはするものだわ」
俺が混乱する間に伊舞はひとしきり笑い、目尻に涙まで浮かべていた。
「伊舞さんに対する信頼が分かったような気がします」
「不老と不死は違う。不老と寿命の因果関係も分からないのよ。軽々しく口にしないことね」
「……怖くないですか?」
「バカな子、私はもう六〇年も生きているのよ。惜しむものなんてないわ」
長煙管で小突かれる。
ふと、遠い過去を思い出す。
「一つ言葉を贈るなら、覚めるというのは人を逸脱すること。今だって一般人から見れば十分ヘンよ」
「それは……そうですね。銃弾も効かなければ傷の治りも早い」
「だからあまり悩まないこと。それと過信もダメ」
そこで初めて気が付く。
伊舞はこう言いたいのだろう、体の変化などささいなこと。
同じような境遇の者はいるのだから不安になるな、と。
「結構優しいんですね」
「私はいつでも優しいわ」
亀の甲より年の功、とは口が裂けても言えない。
「ありがとうございます。また相談に来てもいいですか?」
「出歩けるんだから手土産くらいは持ってきなさい。それなら考えてあげる」
「分かりました」
ひらひらと手を振られ、追い出される。
「変化、あるいは適応……か」
今はそれだけ分かればいい。
軽く伸びをしてから腕時計を見れば接見の時間が迫っている。
不安を払うように、ちび二人を追いかけて走った。