二話
時刻は午後一〇時。
かなり遅くなってしまったのは四人でお茶をして、上野公園で葉桜を眺めてから近衛食堂で夕食を取り、千景を目白にある寮まで送ってから殿下を寝かしつけ、部屋までついて来ようとするノーラを引きはがしていたらこんな時間になってしまったからだ。
「休日なんてないも同然だな」
城山邸の駐車場に車を停め、ばきばきと肩を鳴らす。
子供の相手は疲れるばかりか気を遣う。どうにも加減が分からない。
「まぁ、それもあと数年……」
年頃になれば友人と一緒に出掛けることもあるだろう。
反抗期になればこうした時間も終わりになる。それまでの辛抱、いや楽しみか。
大人になったら笑える小話くらいにはなる。
「楽しみだ」
寂しくもある、とは口にしないのが最後の抵抗だ。
深呼吸をしてネクタイを締め直し、襟を整えて車を出る。
門の前まで来れば妙齢の女性が出迎えてくれた。
「榊様、お待ちしておりました」
「恐縮です。遅くなりまして申し訳ありません」
「ささ、こちらへどうぞ」
先導され、何度目かも分からない立派な邸宅へと上がる。
光沢のある板敷きの廊下を歩き、手入れの行き届いた襖を開ければ、そこには見慣れた老人と、背の高い男性がいる。
「おお、来たね色男。こちらへどうぞ」
城山が茶化す。
夜だというのに座卓の上には湯呑だけ。
本当にこの人は総裁を狙っているのだろう。健康管理が徹底しているように見えた。
「失礼します」
城山の対面、そして長身男性が左横にいる。
視線と圧力が二倍どころではない。
「先生、こちらが?」
「榊平蔵君だ。榊君、彼は外務大臣の……」
「鈴木寿夫です。こうして顔を合わせるのは初めてですね」
長身で痩せ気味な男性、年の頃は六〇に届かないだろうか。
電話や手紙では何度かやり取りをしたことがあるが、直接顔を合わせるのは初めてになる。
「榊です。その節はお世話になりました」
かなり便宜を図ってもらったので丁寧にお辞儀をすれば、鈴木大臣も返してくれる。
弁護士出身だけあって相手を睨むような不躾さはないものの、値踏みする眼光がある。
城山、外務大臣、冬に会った法務大臣と政治家の目つきはみな一緒。
「役者が揃ったね。では始めようか」
進行役は城山がやってくれるらしい。
手元にはコピーと思われる紙が並ぶ。
「ここ一ヶ月、私や鈴木を含め警察庁から通達がきている。それに合わせてなのか、与党議員全体としても勉強会や献金パーティを見送るなどの動きがあった」
「今の警察庁長官は総理と同じ帝大法学部の出身で四期下の後輩、総理が帝都の都知事を務めていたころから親密です。加えて川島法務大臣も帝大法学部の出身で、長官とは同期です」
鈴木大臣が言葉を引き継ぎ、解説をしてくれる。
最初の数枚は総理、川島法務大臣、そして今の警察庁長官の親密さを物語る写真や会合でのやり取りがまとめてある。
これで現政権と警察庁がつながった。
「榊君の証言から近衛府にも裏を取ってみたが、やはり警察庁から強めの要請があったらしい。そして、これは鷹司君名義で了承されている」
「副長が?」
意外な人物の名前に思わず声が出た。
「その分だと榊君は知らないみたいだね」
「初耳です。しかし、なぜ……」
「考えるのは後にしよう。今は事実を並べ、全体を組み立てる方が先だ」
城山の言葉に頷く。
確かに今は鷹司の思考を追及しても仕方ない。
「我々、派閥外の政治家が知り得ることは以上だ。次は君の番だよ」
促され、法務省と鷹司に関わることを思い浮かべる。
「つい数日前、同僚から陸軍情報部と公安調査庁が合同作戦を展開しているという話を聞きました」
陸軍、それに公安調査庁、二つの言葉に政治家は眉をひそめる。
「本部は霞が関、ご存じの通り公安調査庁の上は法務省です。続いて昨年末、陸軍の朝霞駐屯地で川島大臣と菅原参謀長が会う姿を見ています。川島大臣は火急な案件だとも仰っていました」
鷹司は霞が関の用事で留守にしていることが多い。
鹿山翁も然りだ。
「公安調査庁は内外テロ組織の情報収集、分析。陸軍情報部は主に対共和国工作員の監視、摘発。警察庁は国家公安委員会が同じようなことをしている。そこに近衛か」
「昨年末に川島君と菅原参謀長がね……」
ザリッ、と城山が顎を撫でる。
向こうに回して恐ろしい相手ではあるが、文殊とするのならばこれほど頼もしい人もいない。
「合同作戦で何かしらのトラブルがあったことは間違いないだろう。時期は分からないが、議員の行動制限、鷹司君が留守がちになった時期より前と考えるべきだ」
「川島は危機意識の高い人間です。周囲に波及する前に安全策を採ったことは十分に考えられます」
「うん、そうだね。それが警察庁への協力要請だろう。近衛へは……」
城山が意見を求めてくる。
鷹司が協力要請に応じることはあるだろう。
あの人は近衛を取り巻く環境改善のためなら労力を惜しまない節がある。
それに合同作戦でのトラブルが皇族へ影響するといわれたら首を縦に振るはずだ。
「皇族、特に今名代となっているのは日桜殿下ですから、副長が動くことは十分にあり得ます。それに近衛顧問、鹿山小次郎と菅原参謀長は懇意の間柄、噛んでいるのは間違いないでしょう」
これで全てがつながった。
問題はこれからだ。
「さて、どうしようか?」
城山が破顔する。
裏で何を考えているか分かったものではない。
「現状、何かお困りのことでもありますか?」
機先を制するべく打って出る。
同時に鈴木大臣への目配せも忘れない。
「トラブルは分かりました。ですが、法務大臣は現政権を通じて対策を講じています。警察庁と近衛も参加し、事態の鎮静化を図っている。先生方が困っていなければ、私は静観が最善と考えます」
「怖い顔をするんだね」
「心外です」
口だけ笑って見せる。
鈴木大臣から言葉はなく、ただ喉が鳴るだけ。
「榊君は困っているんじゃないのかな? 鷹司君が不在となれば負担が大きくなるのが君だと思うのだが、どうだろう」
「ご心配頂くほどではありません。このような場を設けて頂き恐縮ではありますが、先生方には今件のことを他言無用でお願いしたい」
「……言うじゃないか。情報の独り占めはいけないよ」
「現時点では全てが憶測の域をでません。外国勢力が絡んでいる可能性を考えるならば足の引っ張り合いをするべきではないのです」
「まるで、私が漁夫の利を得ようとしているような言い方だね」
「城山先生が目指すものが、殿下の望む未来に合致するものと願います」
城山が驚き、眼を瞬かせる。
鈴木大臣は完全に動きを止めていた。
「…………分かった。今回は君に従おう。だが、私独自で情報の収集は続ける。これは私利私欲ではない」
「私も引き続き動向を追います。連絡は逐次、独断専行はなしです」
「いいだろう」
ようやく手打ちとなる。
静かに深呼吸をすると一礼し、立ち上がった。
「一杯どうかな?」
「明日は殿下の同行で接見がありますので、今日は失礼させていただきます」
適当な理由をつけて権謀術数の園から去る。
政治家など好きになれそうになかった。
◇
青年が去った座卓で外務大臣は溜息を漏らす。
冷や汗どころではない。殺気と眼光に当てられ、すっかり疲弊してしまっていた。
「先生も人が悪い」
「会いたいといったのは君だよ」
「お話と別人ではありませんか。あのような、人間離れした雰囲気とは思いませんでした」
「君とて大臣だ。近衛が護衛に付いたことくらいあるだろう?」
「ありますが……」
あるにはあるが、あそこまで露骨なものではない。
特に日桜殿下の名前を出したあたりからはいつ首が飛んでもおかしくなかった。
「先生こそ、よく平然としていられるものです。次からは遠慮させて頂きます」
「ふっ、気楽なものだ」
外務大臣は心底疲れた、とでも言いたげに頭を振る。
「……騎士王との一件でまた凄味を増したみたいだね」
城山は小さくつぶやき、じっとりと手に浮かんだ汗を隠す様に着物にこすりつける。
大の大人二人の冷や汗をまだ冷たい夜風が撫でていた。
◇
青年と政治家の会合から遡ること一ヶ月、近衛副長、鷹司霧姫は悩んでいた。
平穏というのは長続きしない、というのが鷹司霧姫の考えだ。
世は事もなく、など夢のまた夢。
故に、どのような問い合わせでも相応の覚悟で臨むのが彼女なりのスタンス。
「折り入ってご相談がございます」
「伺いましょう」
法務大臣直々の申し出に眉を顰めはしたものの、直ぐに受け入れることができた。
要職に就く大臣から直々の指名というのは異例中の異例。
現政府は中道左派、経済重視の方針で保守色が強い近衛とはあまり密接とは言い難い。
呼び出されたのは霞が関、それも法務省管轄の公安調査庁の本部が置かれる建物。
軍部と並ぶ国内諜報機関の要塞のような場所。
「ご足労頂き、感謝いたします」
何重にも張り巡らされたセキュリティの向こうで出迎えたのは法務大臣その人。
浅黒い肌に締まった体つきは年齢の割に若々しく見えた。
「大臣直々のお声掛けに応じないわけにはいきません」
「感謝致します。こちらへどうぞ」
案内された部屋にはすでに資料が並び、パソコンが用意されていた。
「安物で申し訳ありませんが……」
「恐縮です」
大臣手ずからコーヒーのカップを渡してくる。
口を付ければ鷹司にも馴染んだ風味がした。
「早速ではありますが、今回の案件はこちらなのです」
「拝見します」
渡された資料にはS計画と書かれ、機密文書を示す朱色の印がある。
捲れば暗号や隠語が並び、関係者でなければ読めない仕様になっていた。
「この計画は総理、大本営承認のもと、陸軍情報部と合同で行っています」
「政府と大本営が承認……」
壮大な計画であることは間違いない。
特に軍部と政府は対立しやすい。手を組むというのは滅多に聞かない話だ。
「簡単に説明すれば、S計画は国内で活動する諸外国の諜報員を摘発するものです。我が国に潜伏する諜報員の数は増えるばかり、しかし、大使館や外国企業が関与していることもあり、かなり難航しています」
「噂は我々も聞き及んでおります。憂慮すべき事態です」
「ええ、しかしながら我が国ではこれを専門的に対処する機関がありません。警察、軍部、公安調査庁がそれぞれに情報を持ち、協力できないでいる。組織という垣根が邪魔をしているからです。私が目指すのは各組織から専門家を集め、新たな一つの専門機関を創設することにあります」
「米国の連邦捜査局と同じものを日本に作りたい、と?」
「私の政治家生命を賭けた計画であります」
鷹司は川島の経歴を良く知らない。
裏の有る無し、を今ここで問うことができないのはいささか歯痒い。
「あのバカを連れてくればよかったか」
無駄に物事を知っている部下を思い出し、溜息をついた。
「なにか?」
「いえ、こちらのことです。続きをお願いします」
「疑問があれば仰ってください。できる限りお答えします」
これまでの口調に怪しいところはない。
誠実な口調と態度はむしろ好印象ともいえるのだが、相手は政治家。
鷹司の脳裏には城山英雄の顔と強かさが思い出された。
「計画は今年の初めから動き出しました。最初は順調だったのですが、問題が発生したのです」
「問題……?」
大臣の口調が重くなる。
苦虫を噛んだどころではない。
「今月に入り、調査員の失踪が相次いでいます。先週までで二〇人近い人間が消えました」
「……尋常ではない数ですね」
「事故か事件に巻き込まれた、最初はそのように思っていました。しかし、昨日になって栃木県の山奥で遺体が見つかりました。一〇人まとめて埋められていたそうです」
鷹司は自らの肩が重くなっていくのを感じていた。
簡単に済みそうな話ではない。
「犯人探し、ですか? 私が出張っては角が立つと思いますが……」
「こちらをご覧ください」
パソコンのモニターが向けられる。
あまり見たくもない、洗浄された後の遺体は左胸に損傷が集中していた。
「致命傷となったのはこの傷……なのですが、銃弾によってできたものではないことが分かりました。通常の弾丸は体内へ侵入すると変形し、組織をズタズタにしてから飛び出します。しかし、これはそうではない。当たった部分が極端に損傷を受け、貫通もしていない」
「妙ではありますが、そのような兵器がないとも限りません」
「ええ、その通りです。軍部でも検証をして頂いたのですが、該当するものはありません。それどころか、疑問は増えるばかりなのです。結論から申し上げれば、この傷跡は高圧の液体を当てられたものである可能性が高い」
「……なるほど。それで近衛、ですか」
「御察しが早くて助かります」
「人体を破壊、絶命させるほどの水を噴射できる装置は存在するでしょうが、わざわざ使う理由がない。もっと手軽な銃や刃物があるのに、それを使わない理由は何か。発見された一〇人が同じ方法で殺されていたとしたら……」
「全員が同じ場所で殺されているのならば納得もできますが、そうではなさそうです。これは人知を超えたものが関わっているのではないか、という仮説がでました」
過去には虎のような大物が日本国内に入り込んでいたケースもある。
現時点ではいないと断言はできなかった。
「我らとしては、これ以上の犠牲者は計画の崩壊を意味します。どうか、お力をお貸しください」
大臣が頭を下げる。
鷹司は溜息をつくしかなかった。