一話
芸術というのは兎角難しい。
洋の東西を問わず書画は勿論、彫刻や立像、果ては家具にまで至る人の熱意は想像を絶する。
時には精緻でありながら、まったく逆の大らかなものまである。
「……う~ん」
白い紙に墨で書かれた文字を前に立ち尽くす。
書道というのは個人的に最も理解し難い。
字の綺麗さというのは分かるのだが、芸術性を理解するのは困難だ。
変装用に着てきたスーツに皺が寄ることも気にせず、腕組みをしてしまう。
「ヘイゾウさんにしては珍しいお顔ですね」
隣にいるエレオノーレが顔を覗き込んでくる。
ラフなジーンズにシャツとジャケット、大きめのサングラスが外国の女優を思わせる雰囲気を醸し出していた。
「芸術には疎くてね。特に書道はさっぱりだ。ノーラも退屈していないかい?」
「私の国は勿論、欧州にはカリグラフィーという文化がありますから、書道も楽しく見せて頂いています」
「なるほど」
カリグラフィーとは端的に言ってしまえば装飾文字。
英字アルファベットは大小二六文字なのでフォントが作りやすく様々な書体がある。
装飾文字で詩を綴る、広告を作ることもままあるのだろう。
「殿下はとても楽しんでおられるのに、ヘイゾウさんはダメなんて、同じ日本人なのに面白いですね」
「仕方ないさ、根本の教養が違うからね」
視線の先には白い洋装にベレー帽というスタイルの日桜殿下がいる。
お忍びということでかけさせた伊達眼鏡をとり、真剣に書と向き合う姿はある種の神々しささえ感じてしまう。
「……」
眼差しの先には畳一つ分もある和紙が四枚並び、それぞれに一文字ずつが書かれているのだが、素人では読めない。
俺は別にいいのだが、たまの休みにと連れ出したノーラが退屈するのは避けたいので二人でちび殿下の後ろへ回った。
「なんと書いてあるのですか?」
「……しゅんかしゅうとう、です」
「春夏秋冬、ね」
いわれてみればそう見えてくる。
しかし、この掠れたミミズののったくった字を芸術と呼べるだけの感性が俺にはない。
「この四枚で四季を表しているということ、ですか?」
「……はい。ですが……」
「それだけではない何かを感じます」
「……のーらちゃんも、わかりますか?」
「漠然と……。私はあまり漢字に詳しいわけではありません。ですが、この四文字には季節を語るだけではない何かがあるように思います」
「……ふあん、ぜつぼう、めぐるきせつへのきょうふ」
なにやら二人で意味深な語らいをしている。
お子様二人には感じるところがあるらしいのだが、俺には相変わらずさっぱりだ。
「これのどこが芸術なんだ?」
ぽつり、と漏れた言葉にちび殿下が頬を膨らませる。
「……さかき、こちらへ」
「はい」
いつになく真剣な顔に誤魔化すこともできず、小さな体に寄り添うように膝を着いて視線を同じくする。
「……よいですか、しょとはひとです。わたしたちはしょをとおして、かいたひとをみるのです」
「は、はぁ……」
なら実物を見れば早いのに、とは思っても口に出さない。
出せばさらに面倒なお小言が待っているからだ。
「……どう、とはすなわちみち。れんめんとつづく、じんせいのしゅんかんをのこすのが、しょだとかんがえます」
「……………………写真のようなものと考えればよろしいですか?」
「……たんてきですが、はずれてはいないとおもいます」
ようやく笑顔を見せてくれる。
やれやれ、と胸を撫で下ろす。
いかにちんちくりんとはいえ、こうしたことに関しては厳しい一面もある。
「これも珍しい光景ですね」
「なにが?」
ノーラに向き直れば口元を隠す様に笑っている。
「だって、普段ならヘイゾウさんが補足や注釈を入れ、日桜殿下が頷く場面ですから。お二人の関係が逆転しているようで……。失礼しました」
「……わたしだって、おはなしできること、たくさんあります」
ノーラの言葉にちび殿下は頬を膨らませる。
殿下の知識が良い意味で偏っているのは仕方ないのだが、本人は思うところがあるのだろう。
「……さかきも、わらっていませんでしたか?」
「言い掛かりは止してください。私はいつでも殿下をお慕いしていますよ?」
撫で回してご機嫌を取っていると静かな会場内に駆け足の音が響く。
なるべく早く、それでいて足音が大きくなり過ぎないように気を配れるお子様はあまりいない。
「みなさん、良くお越しくださいました」
他愛もない言葉を交わしていると俺たちをここへ誘った本人、朱膳寺千景が現れる。
早生まれの彼女はこの春、一足先に中学生となり、今では珍しい白と紺のセーラー服に身を包んで、丁寧にお辞儀をして見せる。
「……おまねきいただき、ありがとうございます」
「ご招待にあずかり、恐悦に存じます」
変装した殿下が、こちらも上品な仕草で会釈をし、隣ではノーラがまるでドレスの裾を持つような仕草で目礼を贈る。ちび二人がしっかりとしている以上、年上の俺がしっかりとしないわけにはいかない。
襟元を正し、軽く咳払いをする。
「お招き頂き光栄の至りです」
これ以上ないほどに気を使ったつもりなのに、笑顔のまま歩み寄ってきた千景は俺の革靴を踏みつけ、
「他人行儀は嫌いなの」
と、小さく囁いたまま行ってしまう。
やれやれ、気難しい年頃だ。
「お二人とも、遅れて申し訳ありませんでした。少し話が長引いてしまったものですから」
「……このたびはじゅしょう、おめでとうございます」
「ええ、授賞式を拝見させて頂きました。おめでとうございます」
「いえ、そんな、滅相もありません」
三人の、どこかぎこちなくも初々しいやり取りに破顔する。
今日は揃っての休日だったのだが、書道部に入ったという千景が入学から最初の作品展で優秀賞をとった。本来ならば四人で出掛けるはずだったのだが授賞式へ参加するため、予定を変更して今に至る。
「……すごいこと、です」
「ええ、素人の私から見ても素晴らしいものです」
「そんな……お二人から言って頂けるととても嬉しいです」
「主役が来たところで改めて受賞作を見に行こう。さっきは遠目で良く見えなかったからね」
褒めるちび殿下とノーラ、謙遜をする千景の背を押し、強引に歩を進めさせる。
こうなると延々と続けそうだ。
「ああ、これか」
別室へと移動すると、今回の優秀賞である千景の作品が中央にある。
『依依恋恋』の四文字になぜか胃が痛くなった。
「素晴らしい筆遣いであることはわかりましが、これはどういった意味なのでしょうか。殿下、お教えいただけますか?」
「……したうこと、おもうあまり、はなれられないこと。こがれ、もとめ、ほっするものがあることを、さします」
「へぇ……」
ちび殿下の解説にノーラの眼が細くなる。
「私、嘘は書けません」
千景は頭を振り、自身へと言い聞かせるようにこちらを向いてから眼を伏せる。
一瞬で背中に脂汗が浮かび、胃が締め付けられた。
「……ちかげちゃん」
「はい、殿下」
「……こい、とはなんでしょうか?」
「は?」
殿下の問いに、千景の眼が点になる。
「……あい、とはなんでしょうか?」
「それは……」
恋と愛、似て非なる二つを弱冠一一歳と一二歳が論じようとしている。
嫌な予感がするので止めに入ろうとするのだが、行く手をもう一人の一一歳が塞いだ。
「それには私がお答えします」
「……のーらちゃん!」
「恋とは相手の良い部分だけを見ることです。愛とは良い部分も悪い部分も受け入れることです」
「……良い部分、悪い部分」
ノーラの鋭い眼差しがちび殿下と千景を射貫く。
どうしてだろうか、こんな小学生と中学生は嫌だ。
もう少し無邪気であってはくれないのだろうかと思ってしまう。
逃げ出したい、そんなことを考えていると奥の来賓席から誰かがやってくる。
大柄なシルエットに出っ張った腹部、品の良い枯葉色のスーツ、右の襟には朱と金の議員バッジが光る。
「やぁ、これはまた、珍しいところで会うものだね」
「し、城山先生!?」
現れたのは政治家、城山英雄。
辣腕で知られる大物、政権与党内では現内閣と派閥を二分する重鎮の一人。
「ヒデオも来ていたの?」
「おお、エレオノーレ。元気にしているかい?」
駆け寄るノーラと抱擁を交わす。
故国を失った彼女の親族でもあり、皇族支持者の一人。
「榊君とエレオノーレがいるということは……」
後ろにいる小さな人影に気付き、畏まろうとする政治家に殿下が首を振る。
非公式での訪問、ことを大げさにしたくないのだろう。
「人払いを」
「はっ」
城山が秘書へ一声かければ瞬く間に部屋からは人が遠ざけられる。
誰もいなくなったのを確かめてから城山は改めて深々とお辞儀をした。
「日桜殿下、光栄に存じます」
「……ひこうしきです。らくになさい」
恐縮する政治家に日桜殿下は柔らかく微笑む。
普段のぽんやりとしたちび殿下が嘘のように、キリリとした姿になるから不思議だ。
「榊君、少し良いかね?」
「殿下……」
「……かまいません」
許可をもらい、政治家と二人で部屋の隅に行く。
京都での件、ノーラの件とこの老政治家には借りがある。あまり顔を会わせたい人物ではない。
「どうして君がここに、とは野暮な質問かな?」
「城山先生こそ、どのような御用向きでしょうか。芸術に興味があるとは存じませんでした」
城山と話しつつ目だけ振り向けば、三人は真剣な表情で言葉を交わしている。
内容は先ほどの恋や愛だろう。どうして女とは早熟なのか。もう少し子供でいても罰は当たるまい。
「私は千景君の後援者だ。彼女が賞を取ったともなれば駆けつけんわけにはいかんだろう? 君こそ、殿下までお連れするとは見上げた根性だ」
「気分転換です。最近は私も殿下もノーラも、御所や近衛施設内から出られませんでしたから。本当は新木場の若洲海浜公園にでも行こうかと考えていました」
老政治家と相手の腹を探り合う。
あまり気持ちの良いものではないが、馬鹿正直に喋れば痛い目を見るのはこちらだ。
「殿下もお出にならない?」
「ええ、どういうわけか外での公務が減っています。先月までは偶然かと思っていたのですが、四月に入ってからも少ないままです。春は行事が多い季節なのですが……」
「ふぅむ」
城山が珍しく顎を撫でながら唸る。
記憶をたどるように眼球がせわしなく動く。
「なにか思い当たることでもございますか?」
「実はね、私も外出を控えるよう言われているんだ」
「先生が? どなたから?」
「警察庁からだが、おそらく出所は違う。しかし、殿下……いや当然の処置といえるか」
老獪な策士が考えを巡らせるとなれば、これは相当な事案といえる。
「君なら構わないだろう。派閥外なので詳しくは分からないのだが、鈴木の話ではどうも法務省が噛んでいるという噂だ」
「法務省?」
城山の言う鈴木とは外務大臣の鈴木寿夫。
どうやら外出を控えるよう発しているのは法務省、いや与党の城山派閥外ということは首相率いる現政府ということになる。
「先生ともあろう御方が分からないとは……」
「私も人だ。分からないことくらいある。しかし、ここまで徹底していると逆に見えてくることもあるものだよ」
戯けてみせる老人の目配せに苦笑いをしながらこちらも思考を泳がせる。
法務省と先月からの殿下や政治家、国内の権力者層に外出を控えさせるという動き。
そういえば、鷹司が不在になりがちになったのも先月から。
「法務省……公安調査庁……」
「何か心当たりがありそうだね」
「ないといえば嘘になります。しかし、確証があるわけでは……」
「構わないから言ってごらん。悪いようにはしない」
ここでまた城山の手を借りるのは危険だ。
また厄介ごとに巻き込まれる懸念が増える。
しかし、どんよりとした閉塞感があるのも事実。
「少し長くなります」
「構わないよ。しかしだね……」
「はい?」
背中に突き刺さる三つの殺気に振り返る。
この状況なら悪鬼も逃げ出すに違いない。
「先ずは淑女の御相手からだ。夜にでもまた連絡しなさい」
「承知しました」
政治家は賢明だ。
こうしたところは見習いたい。
「平蔵」
「ヘイゾウさん」
「……さかき」
ちび三人に詰め寄られる。
どうやら話ははるか先まで進んでしまっているらしい。
「お、お茶にしませんか? ケーキの美味しいお店が近くにありますから……」
提案しながら空を仰ぐ。
夜までは退屈しそうにない。