短編 榊平蔵のある一日(午前中編)
師走も終わりに近付き、帝都でも粉雪が舞う日が増えてきた。
電子音で目を覚まし、息を吸い込めば冷気が肺を満たして意識がはっきりとする。
「今日は一段と寒いな」
ベッドから出れば身震いがする。
吐く息は白くならないものの、スマートフォンを操作する指はすぐに冷たくなった。
「確か、今日は午前中が祭事で、午後が事務作業だったな」
頭の中で予定を確かめつつ浴室へと向かう。
このままでは二度寝しかねない。体を温める必要があった。
「残っている仕事は……スエズ関連と陸軍経由の支援要請書、大本営への請願書、各隊から上がってきた報告書の整理、過去書類の整理と電子化……」
熱めのシャワーで体芯を温め、身支度を整える。
糊のきいたシャツに袖を通し、七面倒な近衛服を着込めば準備完了。
コーヒーを淹れようかとも思ったが、やめた。準備されているものは美味しく飲みたい。
「さて……」
時計を見れば、午前五時。自室を出て、向かうのは御所。
今日も一日が始まる。
◆
自室のある近衛寮から御所へは徒歩で数分。
まだ明けきらない空の下、御所の門を抜けて霜柱を踏みながらしばらく歩けば目的地へと着く。
案外簡素な玄関から中へと入る。
まだ寝ているだろうかと思ったが、障子戸から音がした。
「……さかき」
足音に気付いて部屋から出てきてしまったらしい。
御子服に着替えた日桜殿下が出迎えてくれる。
歓迎はありがたいのだが、凍える様な廊下で挨拶もどうかと思ったので部屋へと押し戻した。
「おはようございます、殿下。良い朝ですね」
「……はい。おはよう、ございます」
挨拶をすればへにょり、と笑う。
「まだお休みになっていてもよろしかったのに」
「……だいじょうぶ、です。さかき」
「はいはい」
袖を引っ張られ、座布団へ座らせられる。
殿下は用意していた薬缶から急須へとお湯を注ぎ、二人分の煎茶を淹れる。
最近ではこれが日課となりつつあった。
「……そちゃですが」
「頂戴します」
受け皿から陶器の椀を持ち上げ、唇へ当てる。
香りを楽しみ、湯気の立ち昇る茶を啜って一呼吸。
俺が一口飲む間、大きな瞳はこちらをじっと見つめていた。
「美味しいです」
「……よかった、です」
再びへにょり、と笑ってから自分の分を口にする。
よくもまぁ続くものだと思いながら、部屋を見渡せば書き物をする机の上に原稿用紙が見えた。
新年を間近に控え、今日は宮中で祭事が行われる。
そのための祝詞を暗記していたのだろうが、少し空回り過ぎだ。
「意気込みは結構ですが夜まで持ちませんよ?」
「……ごごは、しょめいとなついんなので、しんぱいいりません」
昼食後の昼寝が必要だと伊舞に進言しておこうと思いつつ、口にはしない。
それくらいの気配りはあるつもりだ。
「祝詞は昨晩も予習なさったでしょうから、身なりから整えた方がよろしいですね。後ろ髪が跳ねてますよ?」
「……?……っ!」
殿下は一度首を傾げてから自分の後ろ頭を触り、顔を赤くする。
先ほど部屋へと押し戻したときに気付いたものだ。
「よろしいですか?」
「……おねがい、します」
何を、とは言わない。立ち上がれば殿下は急須と椀を片付け、小箱から櫛を取り出す。
殿下の前で座りなおせば、小さな体が体重を預けてくる。
「痛かったら言ってくださいね」
「……はい」
こちらが櫛で長い髪を梳く間に、殿下は爪を整える。
しばらくは櫛が髪を通り抜ける音だけが室内に響く。
「祭事は七時に迎えが来る予定ですから、お食事は六時を目安に取ってください。食べ終わったら少し横になると後が楽ですよ」
「……ごはん、いっしょではないのですか?」
「私は一応謹慎中です」
「……ざんねん、です」
しゅん、とする。
ここに来るのも褒められたことではない。
「一時間もすればノーラと伊舞さんが来ますから、三人でどうぞ。夜は時間を作りますから一緒に夕食をとりましょう」
「……はい」
嬉しそうにするのはいいが、急に振り向かないでほしい。
危うく頭皮に櫛を刺してしまうところだった。
「……さかきは、きょうなにをしますか?」
「事務処理です。副長の仕事を肩代わりしていますから」
「……きんしんちゅうなのに、ですか?」
「仕方ありません。それに何もしない方が苦痛ですから、仕事があるだけありがたいものです」
「……さかきは、まじめなのですね」
ちび殿下の手が胸元に当たる。
最近はこうしたスキンシップが多い。
千景に続いて殿下まで甘え癖が出ると少し厄介だ。
「殿下、前を向いてくださらないと髪が梳かせません」
「……しょうめん、いやですか?」
「そういう問題では……」
対応に困っていると、障子戸の隙間からブラウンの瞳が覗き、
「お二人とも、そこまでです」
エレオノーレが入ってくる。
どうやら救援が間に合ったらしい。
「待っていたよ」
「おはようございます、ヘイゾウさん。日桜殿下もご機嫌麗しく存じます」
丁寧に会釈をして見せる。
近頃は近衛服が馴染んできたように思えた。
「ノーラ、バトンタッチだ」
「ええ、そのようですね」
「……さかき」
「今の担当者が来ましたので、御役御免です」
ノーラに櫛を手渡せば、ちび殿下の頬が膨れていた。
立ち上がって場所を交代する。
「……のーらちゃん」
「あら殿下、どうかなさいましたか? 綺麗な御顔が台無しですよ」
「……ねらって、ました?」
「ふふ、どうでしょう。譲歩はいたしますが過度は許しません」
「……いじわる、です」
「抜け駆けをなさる方がいけません。今日だって御髪を整えるのは私の当番だったはずです。それをわざわざ早起きまでなさるなんて」
「……のーらちゃんだって、くるのがはやくないですか?」
「ヘイゾウさんを起こして差し上げようと思ったのに、部屋はもぬけの殻でしたから。慌てて参りました」
「……のーらちゃんも、ぬけがけ、です」
「ふふ、そうですね。ですから、御相子ということにしませんか?」
お子様二人のやり取りに苦笑いしか出てこない。
「やれやれ」
二人のやり取りを背に、寮へと戻る。
◆
朝食を終え、午前中は部屋で一人事務作業をする。
ソファーに腰掛け、目の前のテーブルには山と積まれた書類と支給のノートパソコン。
そろそろ専用の執務室が欲しい。
鷹司から預かった過去の近衛日誌を電子化すること。
次にスエズ運河を利用する共和国船籍について調べ、それを踏まえて陸軍への支援要請書と大本営へ提出する書類の作成。あとは各隊からの報告書整理。
とりあえず片っ端から処理していく。
まず取り掛かったのはスエズ運河を通過する共和国船籍について。
今回海軍だけではなく大本営にも請願書を出すのはこれが背景にあった。
「スエズを通るってことは行先は欧州連合、の手前だろうな。オスマン帝国の首都イスタンブールか、アルバニアのドゥラスが有力か」
共和国がシンガポールで工作員の国籍を洗浄した後、積極的に送り込んでいるという情報を聞きつけ、鷹司が調査に乗り出した。
近衛が調べる理由として、日本国内への浸透工作と酷似していること。過去に海を渡った刀を共和国が狙っているという点から。
以前はパナマが最大の経由地だったようだが、米国海軍第七艦隊と帝国海軍の協力により摘発が多くなり、今はスエズ方面が活発になっているらしい。
これらを調べ上げ、支援要請と請願をすることで国内への浸透工作に軍が対処してくれることになる。
「スエズ……スエズと。一日に六〇隻、年間で二〇〇〇〇隻以上も通過するのか。その中で共和国船籍は……五隻から八隻、年間で三〇〇〇隻。気が遠くなるな」
思わず眩暈が起こる。
共和国は格安の人件費で作ったものを安い船便で欧州、それも混乱が続く地帯へと送っている。
革命運動である「夜明け」などで政情不安となった国は生産能力が著しく低下する。
そこへ格安の物資を持ち込めば、儲かることは目に見えているからだ。
「考えろ。工作員を送り込むなら不自然でないのはなんだ……」
加えてイスタンブールやドゥラスへ持ち込んでも疑われないものとなると、絞られてくるように思える。
現地には警察組織もあれば敵対組織もある。取り込むなら反政府組織、信頼度を上げるなら、銃火器ということになる。
「偽装するなら工作用機械、あるいは自動車部品。自動車そのものという可能性もある」
パソコンを操作して三〇〇〇隻の中から該当するものを抽出していく。
商業用のコンテナ船舶には必ず積載物を登録しなければならないため記録が残るのだが、虚偽記載もあり得る。
そこで乗組員の数を基準にした。工作員を含むのなら、通常よりも人数が多いと踏んでのこと。
機械部品、自動車関連を中心にピックアップしていく。
航海法で船員は必ず名簿が作られ、何人乗って航海したかが分かるようになっている。
通常の大型コンテナ船だと四〇から五〇名。それよりも多い数を乗せた船で工業用品を積んだものをピックアップすると、約三〇隻が候補に挙がった。
「平均の余剰人数は二〇人、それが三〇隻となると、年間で六〇〇人が入り込んでいる計算になる。かなりの人数だな」
海を通じて侵入する利点は陸路とは違い、入国審査が一つで済むことにある。
それが政治腐敗の進むオスマン帝国や未だ「夜明け」の影響を受けるアルバニアなら簡単に入国できるだろう。
「欧州からの船に共和国の工作員が紛れ込んでいる可能性もあるわけか。海軍や海保に注意喚起が必要だな……」
要点をまとめ、意見書として作成する。
諜報系組織として最も優秀なのはやはり陸軍の情報部。
だが、これを動かすには大本営の協力が不可欠となる。
「あとは……外務省の国際情報部……なんだが、啖呵切った手前、頼みにくいな」
ノーラの件で中・東欧課に喧嘩を売ったばかり。
舌の根も乾かないうちに支援要請をしたのでは鼻で笑われる。
「とりあえず軍部が動いてくれれば問題ないだろう。署名は副長だし……」
虎の威を借る狐よろしく他力本願を決め込むことにしてから、書類作りを進める。
ここまでが約四時間、そろそろ昼食時だ。
「あとは……各隊の報告書整理と近衛日誌の電子化。報告書はあとでもいいか。問題は近衛日誌だな」
これだけは膨大な量がある。
あとは優先順位の問題、平時での日誌は後でもいい。
優先すべきは派兵された時のものや、混乱している場所へ潜入したものだろう。
「手だけ付けるか。少しでもやらないと続けたくなくなるからな。一日で終わらせる作業でもないし」
手始めに裂海迅彦が遺した南西諸島での記録をスキャンしていく。
一冊を終えるのに約一五分、人を雇いたい気分になる。
「謹慎中ならではの仕事、か」
改めて自分の境遇を考えれば妥当だといわざるを得ない。
どうしようかと思っているとノックもなく自室のドアが開け放たれる。
「やっほー問題児! 元気してる?」
「たった今なくなった」
「なによ、シケてるわね。任務に出なくていいんだから有り余っているでしょ?」
「お前は任務に出ているのに元気いっぱいだな。良いことでもあったのか」
声の主、裂海優呼はずかずかと入ってくるとソファーの隣に座り、パソコンの画面を覗き込んでくる。
「なにこれ? エッチな映像じゃないの?」
「陸軍と大本営に提出する書類。お前も手伝うか?」
後ろ頭を掴んで画面に押し付けようとすれば、
「ぎゃー! やめてよ! 腕が鈍るでしょ!?」
必死に抵抗される。頬や首元を引っかかれ、振りほどかれた。
まるで野良猫だ。
「女の子の嫌がることするなんてサイテーなんだから!」
「前半部分は否定しないがな、お前もいずれは大隊長になる立場なら報告書の書き方くらい覚えた方がいい。こういうのはやらないと上手くならないもんだ」
「私は戦闘担当、ヘイゾーはやられながら解説して報告書を作る担当。良い役割分担だと思わない?」
一転して太陽をアホにしたような笑みを向けられてしまう。
真冬に向日葵というのも悪くはないが、別問題だ。
「現場に出なくていいなら考えるがな、俺を部下にしたいならせめて昇進してくれ。今のままだと難しいぞ?」
「近衛は手柄を立てれば特進もあるの。騎士王か雷帝の首をとって三階級くらい駆けあがってみせるんだから! そうしたらヘイゾーは私の部下としてこき使ってあげる!」
「期待しないで待ってるよ」
実際にコイツならやりそうだと思わせてくれる。
まだ一〇代、可能性の塊だ。
「ねーねー、ご飯行こうよ! 今日はむねむねもノーラも陽上さんもいないのよ。一人で食べるなんて味気ないわ!」
「俺、一応謹慎中なんだが……」
腕を引っ張られる。
朝食も気を使って部屋でとったというのに。
「食事くらい良いでしょ? 誰かに禁止されたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだが……」
揺すられていると部屋のインターホンが鳴り、
「邪魔をするぞ」
と、返事も聞かないまま足音が近付いてくる。
現れたのは言わずもがな、鷹司霧姫。
この人は一応気遣いを見せてはくれるのだが、それは形だけのもの。
「なんだ、優呼もいたのか……」
鷹司の眼が俺の頬や首、それから裂海へと向く。
なんだろう、嫌な予感がする。
「謹慎中なのにお楽しみか? せめて任せた仕事を終わらせてからにしろ」
「はぁ……」
「な、なんだ? 露骨に嫌そうな顔をして。優呼もそんな目で見るな」
溜息もでてくる。
腕は引っ張られ、首と頬には引っ掻かれた跡はあるだろうが、誤解もいいところだ。
どうしてこうも妙な方向へと考えたがるのか。
「副長! 私、まだヘイゾーには許していません!」
「少しは考えろ年中真夏頭」
「どういう意味よ!」
「あとで説明してやる」
ノートパソコンを持ち上げ、鷹司へと渡す。
「陸軍、ならびに大本営への書類作成は終わりました。確認をお願いできますか?」
「もうできたのか? 随分早いな」
「暇でしたから」
事務作業は嫌いじゃない。
むしろ現場に出なくていいだけ楽ですらある。
「あとで読んでおく。それよりも、午後から鹿山翁が朝霞に用事があるらしい。運転手をしろ」
「謹慎中なのに、ですか?」
「文句があるのか?」
鷹司が眼を細くする。
いつも通り拒否権はないらしい。
「謹んでお受けします」
「一三時に本部の入口に車を付けて待っていろ。服装は変えていくように。外で近衛だと露見するのは良くない」
「承知しました」
時計の針は一二時の手前を指しているから、まだ余裕がありそうだ。
「副長、終わりですか?」
「私の用事は、な。優呼こそ、コイツになにかあったんじゃないのか?」
「一人でご飯食べるの嫌だったんで、誘いに来たんです! 副長も一緒にどうですか!」
「私もか?」
鷹司の眼が俺と裂海を行き来する。
俺としてはどちらでも構わないのだが、
「たまには良いだろう。優呼とは最近顔も会わせていなかったからな」
「やったー!」
隣で飛び跳ねる。
どうにもコイツは一人の食事がよっぽど嫌いらしい。
「ヘイゾーもほら、早く!」
「そんなに引っ張るな。千切れるだろ」
裂海に引き連れられ、食堂へと向かう。
夜まではまだ遠そうだった。
書籍化された第一巻が発売中です。
一ヶ月が経過し、続刊までもう少しのところまできています。
具体的に申しますと『今日24日まで』の販売数で決まるらしいです。
二巻、ひいては第四部、第五部と続けられるよう、どうかお力添えを頂けますようお願い申し上げます。