短編 鷹司霧姫(後)
憧れとコンプレックスは表裏一体である。
幼さへの憧憬は心を殺していた頃の未練か、あるいは敵愾心なのかも知れない。
自問自答の間に、視線は白い肌へと向かう。
日桜殿下の肢体は細く、滑らかで穢れのなさを象徴している。
水面に映る己の肉体が恨めしく思えた。
「……きりひめ?」
「ああ、いえ、なんでもありません、殿下」
視線に気付いた殿下が首を傾げる。
愛らしくも気高さを秘めた姿は神々しささえ感じてしまう。
「さぁ、こちらへどうぞ」
「……はい」
御所の湯殿は広い。
天井から床板、湯船まで檜で造られ、浴室内は木の香りで満たされている。
普段は忙しさもあってシャワーしか浴びないのだが、この湯殿だけは心が躍った。
惜しむらくは温泉ではないことだろうか。それでもかなりの贅沢といっていい。
「お前たちも早く来い」
振り返って呼びかけると、体にタオルを巻いたエレオノーレと千景が恐る恐る続く。
「みんなでお風呂だなんて……」
「そうです、せめて水着がほしいです」
二人は顔を朱に染めている。
何が恥ずかしいのかさっぱりわからない。
「女同士、何も恥ずかしがることはない。殿下を見習うことだな」
「……? どうか、しましたか?」
日桜殿下は何も身に纏うことなく、それでいて恥じらうことはない。
この御方は自らを恥じることはないのだろう。
「くっ!」
「これも文化ですね」
千景はどうでもいい対抗心から、エレオノーレは諦めからタオルをとって肢体を晒す。
年齢の割には長身の千景、外国人特有の豊かさがあるエレオノーレ。どちらも悪くない。
「湯殿にも作法がある。良い機会だから勉強しておくように」
手桶をとって体を流し、体を洗ってから四人で入っても手足が伸ばせるほど広い湯船へと浸かる。
「ふぅ」
熱い湯に体を浮かべると、それだけで疲れが溶け出すような気さえする。
手が自然と肩や足を揉んでしまう。
「……きもち、いいです」
腰まで届く髪を湯船に浮かべ、殿下が微笑む。
「悪くありませんね」
エレオノーレはまだ恥ずかしそうだが手を伸ばしたり、足を泳がせたりと楽しそうだ。
この子は諦めと切り替えの早さが良い。
「……」
それに比べて、千景は顔を半分湯に浸したまま、半眼でこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
問いかけると寄ってくる。
瞳には強い意志があった。
「鷹司様」
「敬称は止していただきましょう。貴女も皇位継承権をお持ちなのですから」
「鷹司さん」
「結構です。なにか御用ですか?」
「胸を……触ってもいいかしら」
突然の質問に言葉を失ってしまう。
「あっ、私も気になっていました! 触りたいです」
エレオノーレまで寄ってくる。
思わず片腕で胸元を隠し、残る手を広げて牽制した。
「待て。どうしてそういうことになる」
「だって……大きいから」
「そうです」
二人に詰め寄られ、後ずさる。
しかし、そこは湯船、直ぐに縁が背中に当たった。
「男の人は大きい方が好きだって聞きました。どうすれば大きくなりますか?」
「副長ってもうすぐ三〇歳なんですよね、どうやってハリをキープしているんですか?」
「二人とも待て、落ち着け。ここは湯殿、騒ぐ場所ではない」
姦しくなりかけた雰囲気を制するように、子供二人へ指を突き付ける。
まったく、最近の子供は早熟でいけない。
「質問には答える。だから静かにするんだ。いいな?」
「はい」
「わかりました」
説得の甲斐あって距離を置いてくれる。
まったく、こんな重たいもののどこが良いのか。戦闘の邪魔になるだけで良いところなど一つもないというのに。
「乳腺の発達は適齢期での栄養、特にタンパク質の摂取と非常に密接な関係にある。良く食べ、よく眠ることが重要だ。皮膚年齢の維持は基礎代謝と、やはり睡眠が大きなカギとなるから覚えておくように」
懇切丁寧に説明するのだが、二人の眼は不信を訴えている。
「そんなことは知っています。食べても寝ても大きくならないから聞いているんです」
「副長はあまり寝てないと伺いました。それに、生活だって不規則と伺っています。参考になりません」
「むっ……」
一般論では納得してくれない。
しかし、これ以上説明のしようがない。
「気になったのですが、副長ってヘイゾウさんと喋り方が似ている気がします」
「確かに、妙に理屈っぽいところが平蔵にそっくりだわ」
無実だというのに二人の中で疑惑が深まっているらしい。
これだから思春期は困る。
「……ちかげちゃん、のーらちゃん」
それまで傍観していた殿下の声に、二人は揃って眼差しを向ける。
「……だいじょうぶです、うけいれてくれます」
殿下は誰が、とは言わない。しかし、三人の共通項は決まっている。
確固たる信頼を以って頷く様に頭が痛くなった。
「日桜殿下、それはそれ、これはこれです。まずは選ばれなければなりません」
「千景の言う通りです。殿方をどう満足させるか、それも大事なことです」
「……えらぶ? まんぞく?」
耳年増の言葉に、疎い殿下は眉根を寄せる。
不味い、なぜか、この流れは良くない気がした。
「そこまでだ。そこから先はまだ早い」
慌てて止めに入る。
殿下に妙な知識を植え付ける訳にはいかない。
「そこが大事なんです。鷹司さんならご存知ですよね?」
「こんな胸をしておいて、言い逃れはいけません!」
「おい、まて……ちょっ!?」
左右から手が伸び、べたべたと触られる。
触手のような指は胸だけでなく全身に及びそうだった。
「……たのしそう、です。わたしも……」
「で、殿下!」
あろうことか、殿下まで混ざってくる。
一人だけ主旨を理解してないのが事態の悪化を招く。
くつろげるはずの湯殿で余計に疲れてしまった一幕となった。
◆
フランス大統領の来日、朱膳寺千景の訪問と立て続けに面倒が過ぎ去り、いよいよ年の瀬が迫る頃、公安調査庁からの一報が届く。
『木更津港の近辺で不審な動きがあります』
「帝都からも遠くなく、それでいて交通網も整っている場所ですね」
『茨城の鹿島港、福島の小名浜港と網を張っておきましたが、木更津がもっとも活動的です。恐らくは物資の輸出入も始まっているでしょう』
「どうされますか?」
『どう、とは……相変わらずせっかちでいらっしゃる。正直をいえばもう少し様子を見たいところです。装備も分かりませんからね』
言い方がまどろっこしい。
求める言葉など一つしかないだろうに。
「私が行きましょう。周囲を封鎖してもらえば、あとは片付けます」
『自らお出ましにならずとも、何人か貸していただければそれで事足ります」
「生憎と皆、忙しくしております。それとも、私では不服ですか?」
『い、いえ、そのようなことはありません』
場所、そして踏み込む時間や段取りを聴く。
年末を控え、最後の仕事となりそうだった。
◆
粉雪のチラつく夜の港。
木更津港はアクアラインを通れば帝都から一時間とかからず到着する。
古くは鉄鋼関係の輸出で栄えた港だが、今は大陸や東南アジアからの輸入が多い。化成に衣類、コストが安いからと海外に製造拠点を移した結果が故国の衰退だ。
「真っ暗だな」
港の入口にバイクを停め、外へと出る。
ぽつぽつとある街灯以外に光はなく、人影もない。
信号だけが点滅を繰り返し、辺りは不気味なほど静まり返っていた。
「ん?」
宵闇の中から浮き上がるように人が現れる。
こんな場所だというのにアイロンがかかったスーツに黒のコート、胡散臭い眼鏡の奥には剣呑な光がある。
「ご足労ありがとうございます」
「こちらこそ情報提供に感謝します」
この男が電話の相手だと声が知らせてくれる。
公安調査庁の人間はあまり他の組織に顔を見せない。その秘匿性こそ最大の武器だからだ。
「お噂通り、ですな」
「どういった類のものでしょうか」
「いや失礼、写真で見るよりもずっとお綺麗だ」
男の視線が胸元から足先までを舐める。
怖気が走り、切り捨ててやりたい衝動に駆られるが押し留めた。
今日は近衛服ではなく、ライダースジャケットにレザーパンツなので殊更なのだが、こうした目で見られることは珍しいわけではない。
自分が近衛副長として矢面に立つときは色眼鏡で見られることが多い。
容姿についても男受けするものだという自覚もある。我慢ができるのも対外的には女であることが優位に働く方が多いからだ。
「世辞は結構です」
「これは失礼しました。しかし、本当に御一人なのですね。大丈夫ですか?」
外見に騙される奴はかならずこう口にする。
女一人でなにができるのか、本当に大丈夫なのか、と。
こういう場合の対処法など簡単だ。
「っ!?」
足元の小石をつま先で蹴り上げ手に取り、握力で砕いて見せれば顔色が変わる。
笑ってやれば尚いい。
「心配は無用です」
「そ、そのようですね。では、お願いします」
場所だけ聞き出し、一人で歩き始める。
聴覚に意識を集中すれば周囲には複数の気配があった。
息を潜めるのは公安と、おそらくは警察組織の特殊部隊だろう。
大取物を演じる規模ではあるらしい。
「ここか……」
しばらく歩き、埠頭に近い倉庫で足を止める。
社名は東南アジア系の貿易会社、それもかなり規模が大きいもの。
中からは光が漏れ、複数の気配が感じ取れた。
「さて、公安のお手並み拝見としよう」
面倒なのでドアを蹴り、金属が砕ける轟音と共に入れば、そこには一〇人以上がいる。
視線と殺気が集中するのが分かった。
どうやら当たりらしい。
「夜分に失礼する」
一声掛ければ全員が身構える。
言葉など発しない。かなり優秀な工作員らしい。
「ほう、乾燥剤に偽装するのか。参考になるな」
男たちの足元には木箱と水を入れるための大きなボトルがある。
問題は一緒に詰められている乾燥剤。
中からは粗悪な薬物の特徴である酸い臭いがした。
「大人しくするなら安全は保障……」
言葉の途中でも連中は拳銃を手にすると、迷うことなく発砲する。
胸元、太腿に着弾して衣服がはじけ飛ぶが気にしない。
「こうでなくては面白くない」
一人に狙いを定めコンクリートの床を蹴った。
驚き、戸惑いながらも発射音が続く。
当たっても怯まない人間がいるとは思いもしないのだろう。
「どうした、終わりか?」
「 !?」
一人へと肉薄し、腹部を殴って昏倒させる。
隣にいたもう一人が持つ大型のナイフを拳で砕けば、驚愕が浮かんだ。
「 」
「 !」
相手が普通ではないと分かったのか、声が乱れ飛び、騒然となるものの統制は崩れない。
その中から一人が歩み出た。
「……近衛だな」
「御託はいい。行くぞ」
近衛を知っているということは共和国の諜報機関か、能力者。どちらにせよ拘束しかない。
一足飛びに懐へ入り込めば、男は笑っていた。
腕からは黒い繊維状のものが伸び、体を覆っている。
「無駄だ」
黒い繊維ごと男の腹部を殴りつける。
同時に鎖骨から左胸にかけてを剣線が走り抜け、ジャケットが裂かれた。
男の手には青竜刀。能力者だ。
「大した防御力だな」
「これがある限り、貴様の攻撃など無意……」
「どうかな?」
戦慄く拳を二度、三度と同じ場所に叩きつければ、繊維に亀裂が生じ、
「ば、バカな……」
血をまき散らして男が倒れた。
青龍刀を取り上げて砕けば、残る人間は蜘蛛の子を散らす様に逃げ出す。
しかし、そこへ包囲していた特殊部隊が突入し、次々と検挙されていく。
「ご苦労様です」
一人の男性が近寄ってくる。
先程の公安だ。
「この程度、造作もありません」
「驚きました。銃弾に当たっても傷一つつかないとは。それに……」
男の視線は体を舐め、腰にぶら下げた宗近へ向く。
大方、近衛は刀を振り回すと聞いて期待したのだろうが、手の内を見せる愚は犯さない。
「この程度でしたら刀を使うまでもありません。それに、一度抜けば一帯を更地にしてしまいますから」
「そ、そうですか」
男の目に怯えが浮かぶ。
現実を目の前にして、ようやく自分が何と相対しているのか気付いたらしい。
「あとはお任せします。報告書だけ回してください」
「承知しました」
一礼して歩き始める。
「アレが鷹司、いえ近衛ですか?」
「迂闊に近付かない方が良さそうだ。見た目はアレでも噂通り中身は戦略兵器と同じだ。米国の第七艦隊はアレの牽制用という噂もある」
「銃弾を受けても肉体に傷一つありませんからね」
囁きが聞こえるが気にしない。
彼らの意見は至極尤もなものだ。
「人間じゃありませんよ」
覚めると聴覚も鋭敏になっていることを向こうは知らない。
知らせる義務もない。
憂さは晴らせたのだから、今夜はこれで良しとしよう。
◆
朝日を浴びながら本部へ戻る。
徹夜をしたので少しばかり眠いのだが、そうも言っていられない。
片付けなければならない書類と案件が山積みだ。
案外、自分を殺すのは事務作業ではなかろうか。
「ふあぁぁ」
バイクを降りると欠伸まで出る。
少し寝ていこうか、そう思いながらも足は本部施設へと向いていた。
「むっ」
「おはようございます」
朝靄の中から現れたのは誰でもない榊。
謹慎中だというのにキッチリと近衛服を着込み、腰から刀まで下げている。
「もうそんな時間か?」
時計の針は午前五時を指している。殿下が起きる時間だ。
「本日は臨時国会の召集があります。午後からは接見と事務処理が少しです」
「昨晩は?」
「二一時には就寝していただきました。食事も忌日でしたが大豆タンパクとオリーブオイルを摂取していただきましたので問題ありません」
世話役をやらせたら近衛で右に出るものはいない。
一つだけ文句を付けるとするならば口が回りすぎるところだ。
「貴様が立ち会うのは朝だけだぞ。そうでなければ謹慎の意味がないからな」
「分かっています」
本当に分かっているのだろうか。
こいつの笑顔も作っているようで信用しづらい。
「副長、差し出がましいようですが」
榊がなぜか渋面でこちらにやってくる。
途中で止まるかと思えば、上着まで脱ぎだす。
「な、なんだ?」
「少しはご自分の恰好を気にかけた方がよろしいかと。見えそうですよ?」
「見えそう? ……っ!」
指摘されて見下ろせば、左胸の辺りから大きくジャケットが破けている。
そういえば青龍刀で切られたままだった。
「どうぞ」
「……ああ」
上着を掛けられ、心配そうな目で見られてしまう。
「何があったかは存じませんが、副長はお休みください。あとは私がやっておきます」
「し、しかし」
「副長が倒れたら心配するのは誰ですか?」
「うっ」
「なんなら部屋までお送りしますが……」
「よせ、やめろ」
「でしたらどうぞお部屋へ」
睨まれ、仕方なく自室へと向かう。
ドアを開け、ブーツを脱ぎ飛ばしてベッドに倒れこめば上着からは匂いがした。
「……まったく」
なんて可愛げのない。
そう思いながらも目を閉じれば睡魔が誘う。
溶ける様に消える意識の中で顔は自然と笑っていた。