短編 朱膳寺千景(後)
「今日は帰りたくないわ」
真っ直ぐな瞳でこちらをみつめる元ご主人様、朱膳寺千景に思わず固まってしまう。
「……お、仰る意味が分かりかねますが」
背中を伝う汗を感じながら、心拍数が上がるのが自分でもわかる。
こちらの不安を余所に、千景はスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「お爺さま、千景です。ええ……はい……今一緒にいます」
どうやら祖父の広重さんにかけているらしい。
しかし、こちらを見ようともせず真剣な眼差しのまま通話を続けている。
「学校の下見は終わりました。はい……良いところでした。なんの不安もありません」
言葉は柔らかいのに、表情は硬いまま。
何よりも恐ろしいのはこちらの意を全く介さないこと。
「はい……城山先生へもご挨拶しました。今度はお爺さまも一緒に、と仰っていただきました。器の大きな方だと思います」
「ち、千景様?」
「用事は終わりましたが、平蔵がゆっくりしていけと……はい。ご挨拶もしなければなりません」
「あの……私は何も……」
「はい。大丈夫です。ええ……戻るのは明日にします。それでは……」
通話を終えると、スマートフォンの電源を切った。
「平蔵」
「はい?」
「異論はある?」
「……いいえ」
笑顔が怖い。
元ご主人様に逆らう術はなさそうだった。
◆
「……ゆうこ」
「? どうかしました」
日桜の顔が不安に揺れていることに、裂海が気付く。
先ほどまでの穏やかな様子はなくなっていた。
「……さかきが、ちかげさまって」
「ちかげ? ちかげ……千景! 京都の?」
「……たぶん」
「千景……確か朱膳寺家の娘で皇位継承権一九位、ヘイゾーが京都で護衛してた子ですよね?」
「……はい」
「京都の子がどうして……」
二人で頭を悩ませる。
帝都に来るということは観光だろうか、それならば彼が案内するのも頷ける。
既知を案内してエスコートするのは当然といえる。
「……」
「……ゆうこ?」
しかし、なぜか釈然としない。
なぜ彼は事前に言わないのか。
言う必要がないかもしれないが、彼は日桜殿下のプライベートまで知り尽くしているのに、自分の情報は明かさないのだろうか。
卑怯で、狡い。
弄ばれているような、掌で転がされているような気になる。
「……あの、どうかしましたか?」
裂海の心にめらめらと炎が盛る。
彼女自身、感情の矛先と火元が一緒くたになっているのだが、指摘する人間がいなかった。
「殿下!」
「……は、はい」
「今は公務に集中しましょう。微力ながらお手伝いしますから、できるだけ早く寮に戻るんです!」
「……どうして、りょうですか?」
「事に及ぶなら男の部屋! って陽上さんが言ってました!」
裂海に愚痴を聞かせる第八大隊長陽上の言葉を鵜呑みにして叫ぶ。
未だ政略結婚が残る現代武家にあって色恋沙汰の話題などほとんどない。
堅物の鷹司、男より武士らしい立花直虎と違って生々しい情報をくれる陽上は裂海唯一の情報源といっても過言ではなかった。
「殿下、勝負は夜です。それまでに戻りましょう。なんとしても!」
「……わ、わかりました」
片方が感情的になると、見ている方は冷静さを取り戻す。
もはやどちらが主導しているのか分からなくなっていた。
◆
帰りたくない。
ならば、どうするのか。
「……ふう」
「どうしたの、浮かない顔ね?」
隣では千景が腕を絡めてくる。
自室のソファーなのに、どうしてか落ち着かない。コーヒーを飲んでも味がしなかった。
「千景様、せめて正面に座りませんか?」
「あら、どうして?」
「お、御顔が見えにくいと思いまして」
「なら、こうすればいいわ」
体を横たえ、俺の膝の上に頭を乗せる。
殿下のせいで膝枕をされることには慣れたのだが、立場が逆になると落ち着かない。
そう考える間に千景の手がこちらへ伸びた。
下から顎を撫で頬をなぞる。位置は逆だが殿下も同じような触り方をしていた。
子供ならではなのだろうか。
「千景様、今はよろしいですが、時間になったらお部屋に行ってください」
伸びる手を掴んで諫める。
都内のホテルも考えたのだが、千景に拒否されてしまった。
近衛寮は関係者以外入れないと何度説明しても首を縦に振ってくれない。それどころか、
「平蔵は、私といたくないの?」
と、詰め寄られてしまった。
「申し訳ありませんが、私にも体面がございます」
「エレオノーレ」
「!」
なぜそれを、と口から出そうなところを思い留まった。
きっと城山先生からの入れ知恵。堪えろ、と思っていると鷹司から怒りの電話がかかってきた。
案の定、城山の差し金であり、手回し。
老人の高笑いが聞こえてきそうで、肩が重くなってしまった。
「ねぇ、どうしてぼんやりしているの」
千景の声で我に返る。
「平蔵、少し変よ?」
「……そうですか?」
「なんでわたしを見てくれないの?」
言葉が溶けている。甘え癖が出てきたらしい。
それにしても腹部に抱き着かれ、顔を埋められるのはあまり良い気がしない。
「節度の問題です。千景様は皇位継承者ですから、私のような下々と一緒ではいけません」
「わたしは気にしない」
「してください」
無理やり引っぺがすと千景の眦に涙が浮かぶ。
「わたしのこと、きらい?」
「いいえ、そのようなことは……」
「だったらいいじゃない」
不味い、これは非常によろしくない。
このままでは押し切られてしまうことになる。
どうにかして最悪の事態だけは回避しなければ物理的に首が飛ぶ。
「あー、えーっと」
必死に言葉を探していると、
「邪魔をするわ!」
「……ゆうこ、おちついてください」
蹴破るような勢いで裂海が入ってくる。後ろには殿下。
「っ!」
裂海が息を飲む。
視線は俺ではない。胸元に張り付く千景だ。
瞬間的に胃が収縮し、激痛を発する。
背中からは汗が噴き出して口の中が急激に乾くのが分かった。
「優呼、これはだな……」
ずかずかと部屋に入ってきた裂海と、後ろにひっついている殿下。
抱き着きながらも二人に視線を向ける千景の視線が絡まる。
「み、みんな、どうかしたのか?」
耐えきれず喋ってしまう。
すると、三つの視線が強烈で明確な意思をもって訴えかけてくる。経験上、これ以上は言えなかった。
「……」
すると、千景が胸元から離れて立ち上がり、殿下の前で丁寧にお辞儀をする。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。朱膳寺霞の娘、千景にございます」
そうなれば殿下も応じなければならない。
裂海の後ろから離れ、姿勢を正す。
口元は引き結ばれて瞳に理性が現れる。
「……おもてを、あげてください」
「ありがとうございます」
二人が向き合うのを裂海と一緒に凝視する。
「……だいいちこうじょ、ひおうです。しゅぜんじちかげ、らくになさい」
「ありがとうございます」
見ているこちらが緊張する。
しかし、これは千載一遇のチャンスだ。逃しては命が危ない。
「殿下、こちらへ。千景様もお座りください」
ここぞとばかり二人をソファに座らせ、こちらは入れ替わるようにキッチンへと向かう。
薬缶に水を入れてコンロにかけてお茶を入れていますアピールをする。
「優呼、手伝ってくれ」
「え? わ、私?」
「そうだ、カップを準備してくれ」
「う、うん!」
無理やり引き入れてカップの準備をさせながら耳打ちをする。
「すまん、正直助かった」
「……どういうことよ。ついでに、どういう状況だったのよ!」
裂海も幾分冷静さが戻っている。
足を踏まれ、脇腹を殴られるのだが甘んじて受け入れた。
「実はな……」
お湯が沸く間に京都での出来事、特に千景の甘え癖について説明する。
なのに、裂海は怪訝そうな顔をする。
「それ、本当に甘え癖って呼べるの?」
「違うのか?」
「……質問に質問で返さないでよ。私に分かるわけないでしょ!」
「俺だってそれ以上には考えられない」
「本当なの?」
実に不本意だ。
一回りも下の子供に手を出すと思われているのだろうか。
「いいわ。私も分からないからそういうことにしておいてあげる。それで、なんでどうして朱膳寺千景が近衛寮にいるのよ。一般人は立ち入り禁止でしょ?」
「彼女は皇位継承権を持っている。副長が認めれば入れる……らしい」
「聞いたことないわ」
「俺だってそうだ。しかし、どうやら手回しがされている」
犯人は分かっているのだが、追及できない。
それをやる気力もなかった。
「まぁいいわ。それで、あれをどうするのよ?」
「とりあえず気を紛らわせよう。そのためのお茶だ」
煎茶を淹れて二人の元へと戻る。
が、
「……」
「……」
無言の対峙。
二人ともがっちりと視線を絡ませ、微動だにしない。
「お茶が入りました」
呼びかけても返事がないどころか、
「……」
「……」
二人の間を流れる空気が悪化しているように思う。
それでも若干千景の方が前のめりであり、殿下の方は苦しそうに見えた。
意を決したように、千景が戦端を開く。
「城山先生より先の騒動、その顛末をお伺いしました。平蔵を御救い頂いたこと、主としてお礼を申し上げます」
「……っ!」
殿下が息を飲み、裂海に脇腹を殴られ、胃が蠕動する。
出掛かった胃液を辛うじて飲み下し、同僚に怨念の眼差しを向けるのだが、
「なによ、節操なし」
機嫌が悪い。
どうしてこうも分が悪いのか、と己の運のなさを嘆いていると、
「……さかきは、わたしのせんぞくごえいであり、そばやく。とうぜんのことをしたまで、です」
「専属護衛、側役? 第九大隊長ではなかったの?」
今度は千景から殺気の籠った眼差しを向けられてしまう。
確かに京都を去る時には昇進という名目で戻されたことになっている。
「ご、誤解のないように申し上げますと、兼任です。第九大隊はその……名ばかりといいますか、殿下の護衛を務めるにあたって肩書が必要ということで……」
「もういいわ」
遮られてしまう。
「日桜殿下、私は来春より帝都の学校へ通います」
「……それは、たいへんちょうじょうです」
「護衛に平蔵を指名したいと考えており、殿下からの許可を頂きたく存じます」
「……なりません。さかきは、わたくしのごえい、そばやくです」
三度裂海から殴られる。
肋骨がもう限界だ。
「殿下のような高貴なる御方が、市井出身の平蔵を護衛に付けるのはいささか不自然ではありませんか?」
「……ひとをみぶんではんだんすることは、ありません。おなじりそうを、えがけるひとこそ、ふさわしいのです」
今度は殿下が微笑みを向けてくる。
裂海の拳が肩に突き刺さり、骨が軋む。
「わ、私こそ平蔵と同じ理想を抱いています。彼は京都での護衛の折、私が元服したら専属になる約束をしました」
そういえば、そんなことを言ったような気もする。
しかし、約束だっただろうか。
あと、あれはお世辞に等しい。実行されるなんて思いもしない。
「……さかきは、わたしとけいやく、しています。えがおのけいやく、です」
「約束が大事です!」
「……けいやく、です」
二人は渋面になりながらも対峙を続ける。
裂海からの攻撃は執拗さと威力を増していた。
「で、なんか申し開きはあるの、ロリコン?」
「お、お前まで何を言うんだ。俺が幼女性愛者であるわけが……」
裂海に弁明を試みるのだが、
「平蔵?」
「……さかき」
揃って睨まれる。
もう、どうしていいものやら分からない。
「私の方が平蔵のことを知っています。だって、同じ屋根の下で生活していたんですから!」
「……さかきのくせ、しっています。このみも、です。すきなもの、きらいなもの、ぜんぶ、です」
「平蔵は私の料理を美味しいといってくれました。毎日毎日、一緒にいたんです!」
「……さかきのとくいりょうりは、はんばーぐです。わたしに、つくってくれました。わたしだけのために、です」
「くっ!」
初めて千景が苦しい表情を見せる。
「わ、私だって平蔵の癖くらい知っています! 考え事をするときは唇に指を当てるんです!」
「……さかきは、かくしごとをすると、かためをとじます。なやむと、まばたきがおおくなります」
「不機嫌になると人差し指が遊び始めるのはご存知ですか?」
「……しっています」
「へー、そうなんだ。覚えておくわ」
「おい……勘弁してくれ」
裂海まで三白眼になる。
なぜか俺の悪癖暴露大会へと変わっていく。
いかん、もうこれ以上は俺が限界だ。
「あら、みなさんで楽しそうですね」
部屋に第三者の声が割り込む。
聞き覚えがある、異国風のイントネーションに誰しもが振り向けば、近衛服に身を包んだ銀に近い白髪の女の子がいる。
「ノーラ?」
「……のーらちゃん」
「はい、殿下。貴女の忠実なる臣下にして……」
つかつかとこちらまで歩み寄ってくると、正座をする俺の首に手を回し、
「ヘイゾウさんの婚約者です」
俺の耳に息を吹きかける。
あまりに場違いで年齢にそぐわない声色に苦笑いすら浮かんでしまう。
この子の将来が心配だ。
「どういうことよ!?」
真っ赤になって千景が叫び、
「……のーらちゃん、そのことはぎそうだと……」
ちび殿下が頬を膨らませる。
俺から言えることは何もない。最早万策尽きた状態になった。
そう思っていると、ノーラは意味深な目配せをする。
「すみません、冗談です。でも貴女は私が元婚約者ということを知らなかった。つまり、私たちは理解が足りていない。ヘイゾウさんに対する理解、お互いへの理解」
「!……失礼ながらお言葉の意味を推察しかねます」
「ふふっ、私たちは話し合うべきなのです。無為を重ねることは建設的とは言い難い。そう思いませんか?」
「……たしかに」
「一理あるわね」
ない。
そんなものどこにもないのだが、二人は丸め込まれていた。
「御所へ参りましょう。そこでなら邪魔が入らず、ゆっくりとお話しできます。ああ、ヘイゾウさんはいらっしゃらないでください。茶々を入れられそうですから」
俺の頬を撫でまわしてからノーラは二人を誘う。
「分かりました。受けて立ちます」
「……のぞむところ、です」
「では参りましょう」
俺の都合や考えなどお構いなしに三人は行ってしまう。
そして、事態は悪化の一途をたどっているような気がしてならなかった。
「あーあ、しーらない」
「お、おい、優呼!」
露骨に不機嫌になった裂海も部屋から出ていこうとする。
「なによ、ロリコンペドフィリアスケコマシ」
「……い、いや、なんでもない」
冷たい瞳で一瞥され、後姿を見送るしかできない。
「俺、何か間違えたのか?」
つぶやきが一人になった部屋に虚しく消える。
その夜は実に静かな、それでいて凍える夜だった。
◆
「お世話になりました」
御所の正門で千景が頭を下げる。
見送るのは殿下とノーラ、それになぜか鷹司の三人。
「またすぐに会えます」
ノーラが手を差し出せば、千景は挑むように握り返す。
「エレオノーレ、貴女のこと忘れないわ」
「まぁ、怖いです」
二人は火花を散らしている。
「……ちかげちゃん……あの……」
恐る恐る、といった様子のちび殿下に千景が向き直る。
「日桜殿下の御心、感服いたしました。ですが、それとこれとは別です」
「……わかっています。でも、おともだち……」
「はい……それもまた別のこと。日桜殿下、お慕いしております」
「……はい!」
なぜか抱擁を交わす。
千景は最後に鷹司へと向き、
「負けません」
「……好きにしろ」
鷹司はさっさと帰れとばかりに手でジェスチャーをする。
そんな二人のやりとりをノーラと殿下は意味深に見つめていた。
「千景様、お時間で……うっ!」
視線が集中し、胃が捩じ切れんばかりの圧力を感じるが、そこは鋼の理性で受け流す。
昨晩何が行われたのか、知りたくなかった。
「それでは、失礼します」
千景は丁寧にお辞儀をした後、車に乗り込む。
車を走らせ、目指すのは東京駅。
二人きりになっても、千景は口を開こうとはしなかった。
「もう着きますよ」
「……ええ」
生返事くらいはするらしい。
今日はホームまで見送りをするので地下駐車場に車を停め、キャリーケースを持って地上の駅施設を目指す。
「相変わらず人が多いな」
年末ということもあり、駅の構内は人でごった返している。
東京駅は複合施設を有する巨大な観光地、大人から子供まで楽し気な表情が見て取れた。
「千景様、お手をどうぞ」
「えっ、うん……」
我に返ったのか、差し出した手を取ってくれる。
「副長が手配してくれた便の出発までは時間がありますから、お土産でも買いましょうか。広重さんは何がお好きですか?」
「それなら……」
隣接する大型の商業施設でお土産を買う。
その間も手はずっとつながれたままだった。
「そろそろ乗り場へ向かいましょうか」
「……ええ」
改札を抜けてエスカレーターを上がる。
始発駅だけあって新幹線はもう到着していた。
「千景様、あまり時間はありませんよ」
「……」
「千景様?」
促せば、こちらをまっすぐに見つめてくる。
大きな瞳にはたくさんの感情があった。
「平蔵、私、すぐに戻ってくるわ」
「はい。お待ちしております」
キャリーケースを渡し、頭を撫でる。
「それまで、誰のものにもならないで」
「私は私です。誰かの所有物ではありませんよ」
額を弾く。
出発を告げるアナウンスとベルが鳴った。
「……わかったわ」
「結構です」
千景が乗り込むと、ほぼ同時にドアが閉まる。
ゆっくりと動き出す車体に手を振れば、千景は頷いてくれた。
千景が来れば騒々しい日々となるのだろうか。
師走の空を見上げながら桜の季節、あの三人が手に手をとる姿を思い描きつつ帰路へとつく。