短編 日桜(後)
「……はー」
牛を前に殿下が感嘆とも溜息ともつかない声を上げる。
「こちらへどうぞ」
「……はい」
子供用の作業着に身を包んだちび殿下は女性スタッフに付き添われ、乳牛へと歩み寄る。
牛舎の一角、普段ならば健康状態を確かめる場所での乳絞りとなった。
「ぎゅっ、てすると驚くから、ゆっくり、優しくね」
「……はい。ゆっくり、やさしく」
屈んだちび殿下が乳しぼりをしている。
両手を交互に上下させながら、先端から出る牛乳を凝視していた。
「夏なら外でするのですが、寒さは牛のストレスになりますので、すみませんが」
「いえ、こちらこそオフシーズンに申し訳ありません」
ちび殿下の様子を見ながら、オーナーであり、自らも工房に立つという男性と言葉を交わす。
気温が低くなる一二月はこうした体験の受付はしていない。
しかし、今回無理をいって申し込んだのには理由があった。
「関東、いえ東日本でもブラウン・スイス種を飼育されているのはここだけと伺いましたから」
「良くご存知ですね」
「自治体に問い合わせたら教えてくださいました」
象牙色のブラウン・スイス種の体高は人間の大人ほど。
この牧場を選んだ大きな理由は国内で飼育数の少ないこの品種を保有しているからだ。
フランスをはじめ欧州でもこの近縁種が乳牛として飼育されているのでなるべく近しいものが良かった。
「……やわらかい、です!」
「ゆっくりですよー」
殿下の声からは普段聞くことのない驚きがある。
ブラウン・スイス云々よりも、こちらの方が収穫だったかもしれない。
「可愛らしい子ですね。ご家族ですか?」
「姪です」
適当に誤魔化す。
今日はお忍びだ。
身元がバレるのは面倒が増えるだけなので話を逸らすことにする。
「ブラウン・スイスは珍しい品種と伺いました。飼育数も全国で数えるほどだと」
「ええ、今国内はホルスタイン種とジャージー種がほとんどなんです。ブラウン・スイスは乳量でホルスタイン種に及ばず、乳脂肪などの成分ではジャージー種が優りますから」
「それでもこの品種にこだわる理由がある」
「チーズにした時のバランスがいいのです。私はイタリアで修業しましたが、そこで作っていたものと乳質が近い。絞ったばかりでは分かりませんが、加工して長期熟成を経ると違いが出てきます」
年齢は四〇に届くかどうか。
なのに、オーナーの目には少年のような輝きがある。
こうした職人が熱意をもってやっているのは良いことに思える。
「先日、エポワスというチーズを頂いたのですが、これが強烈でして。それ以来、あの子はチーズ嫌いになってしまいました」
「それまではチーズはあまり召し上がらなかった?」
「はい。精進料理に近いものが主流の家です。これまでは積極的に食べてはいませんでした」
「なるほど。それでエポワスは厳しいですね」
男性が苦笑いを浮かべている。
「やはり慣れた人でも厳しいようですね」
「神の足の臭いという愛称があるくらいです。日本での認知度は低いですが生産国のフランスでは絶大な人気があります。特にワインと合わせると至福ですよ」
あれが至福。
想像もできずに身震いする。できれば俺でも食べたくない。
「事情がありまして、克服まではいかなくとも苦手意識を少しでもなくしてほしい。あとは、こうした体験も後々のためになればと思い連れてきました」
「そうですか。チーズの克服のために工房にまで足を運ばれるなんて、ずいぶんと可愛がっておられるのですね」
「はぁ、まぁ……そうですね」
曖昧に笑いながら殿下に目を向ける。
乳絞りをしながらちび殿下の瞳は見開き、口が開いたままになっている。
きっと入ってくる情報量の多さに戸惑っているに違いない。
ほ乳類には独特の温度があり、乳牛の体温は人間よりも二℃ほど高い。
乳牛の乳房には太い血管が張り巡らされ、触ることで脈動も感じることができるはずだ。
「……むにゅむにゅ、くにゅくにゅします」
「ふふっ、そうですね」
慣れてきたのか殿下は一人で絞っている。
体験というだけあって下に置かれた小さめのバケツに半分ほど絞ったところで終わった。
「……さかき、すごいです!」
戻ってきた殿下が自分の両手をまじまじと見つめ、感触を確かめる様に握ったり開いたりをしている。
「貴重な体験でしたね」
「……はい。うしさんのおっぱい、おおきかったです」
「乳牛ですからね」
「……ははうえのよりも、おおきかったです」
「それは……あまり大声で言わない方がよろしいかと」
危なく国家機密を暴露するところだった。
「こちらをどうぞ」
女性スタッフが差し出してくれたのはマグカップ。中身はいうまでもない。
受け取ればカップはかなり温かかった。
「絞ったそのまま……ではないのですね」
「乳絞りをするときは乳房を消毒しますけど、それでも絶対ではありませんからお客様にはお出しできないんです。それに、生乳というのは消化しにくいものなんです。人間が飲むには熱処理をする必要があるんですよ」
解説を聞きながら牛乳を口にすれば、甘みが強く、わずかに干し草の香りがする。
普段飲んでいる牛乳とは大違いだ。
「……おいしいです」
「そうですね。濃いというのか、まろやかというのか」
「……いっぱいのむと」
「はい?」
「……わたしのむねも、おおきくなりますか?」
ちび殿下がとぼけたことを口走る。
乳絞りという体験は良かったのだが、触れる話題が危険なものばかり。
護衛がここまで入ってなくて良かった。
「なりますよ。私のも、ほら」
「……! すごいです。さかき」
屈んだ女性スタッフが自分の胸を突きだせば、牛乳を飲み終えた殿下が手を伸ばし、服の上から揉みしだいていた。
「次の作業に移りましょう」
「ははは、こちらへどうぞ」
男性を促し、チーズを作る工程へと進む。
殿下の絞った牛乳を携えて今度は工房へと進む。
木造の牛舎とは違い、工房は銀色の配管が縦横に張り巡らせてあり、かなり近代的だ。
「あれは分離釜です。生乳を入れ、攪拌して脂肪分の多いクリームと脱脂乳に分けます。これも入れてきますね」
「……よいのですか?」
「大丈夫ですよ」
手絞りしたものを入れて大丈夫か、という頭でっかちの懸念にオーナーの男性は笑って応える。
小窓のような分離釜の蓋を開け、五〇〇ミリリットルほどの生乳を流しいれて戻ってきた。
「さぁ、次はこちらです」
促されるまま次の部屋に進めば、今度はかなり暑い。
「蒸気を利用して分離したクリームを殺菌します。これで加工の下準備が整ったわけです」
「……かくはん、ぶんり、さっきん」
ちび殿下は食い入るように見ている。
興味深いのか、はたまた自分の絞った乳の行く末すら心配しているのか定かではない。
「殺菌したクリームはこちらのタンクに集めて冷やしておきます。うちでは湧水を使って一気に冷やすので品質が落ちにくいんですよ」
言葉通り湯気のでるタンクを太いパイプが巻き付いている。
タンクは熱いのにパイプはしびれるほど冷たい。
「なるほど、那須岳周辺には湧水が多いですからね。理にかなった使い方です」
「お詳しいですね。一年を通して水温が低く、飲んでもおいしいものなんですよ。さぁ、こちらへどうぞ」
こうしてチーズの工程をたどっていく。
冷却の後は必要分を加熱し、そこへ乳酸菌と酵素を加える。
「……れんねっと、ですね」
「良く知っていますね。そう、レンネットです。これがないとチーズにはなりません」
乳酸菌と酵素の入ったクリームはバスタブほどもある容器に入れられ、固まるのを待つ。
丁度お昼時となったので、工房の方々が用意してくれた品々で昼食となった。
「こちらへどうぞ」
休憩室のテーブルには手作りと思しきおにぎりと惣菜、漬物、それにお茶。
本来ならば毒味が必要な場面ではあるが、事前調査では問題なしとなっている。
「いただきましょう」
「……はい」
普段こうした機会のない第一皇女殿下は嬉しそうだ。
おしぼりで手を拭き、お茶を一口してからおにぎりを食べ始める。
「……さかき、なかみが、ちーずです」
「チーズですか?」
殿下に促されて食べてみると、中身はチーズだ。
それにしては違和感がない。
「チーズの味噌漬けなんです」
「……みそづけ」
衝撃を受けたようにのけぞってから、ちび殿下は確かめる様にもう一度おにぎりの中身だけを口にする。
「……おいしいです」
「ええ、本当に。それにしてもチーズを味噌漬けですか」
柔らかくなったチーズに味噌の香りが移って美味しい。
それでいてチーズの味はしっかりと残っている。
どちらも引き立て合う組み合わせだ。
「チーズも味噌も発酵食品ですから、とても相性がいいんですよ。あとは醤油漬けや細かくしてご飯に混ぜ込んでも美味しいですね」
オーナーの説明を聞きながら二人で黙々と食べる。
あの臭いから敬遠していたが、これは一本取られてしまった。
「……ごちそうさまでした。さかきも、はやく」
あっという間に食べ終わり、殿下は待ちきれないといった様子で急かしてくる。
俺としては少し休みたいのだが、主君の御命令だ。
「承知しました。ではよろしくお願いします」
「はい。こちらへどうぞ」
オーナーや女性スタッフに連れられ、工房に戻る。
先ほど乳酸菌と酵母を入れたバスタブの中身はすでに固まりかけていた。
「固まると乳脂肪分であるカード、水分であるホエイに分かれます。出来上がったカードの余分な水分を取り、塩を混ぜて成型します」
工房の奥では作業服に帽子、マスクといった完全防備のスタッフがカードを円形の容器に入れて押し固め、棚へと並べられていく。
「やってみますか?」
「……はい!」
これも体験させてくれるらしく、殿下が女性スタッフに連れられて作業へと加わる。
「どんな仕事においても実際に学ぶことができるのは現場だけである、か」
偉人の言葉を思い出し、一人感慨に浸る。
殿下は間違いなくこの経験に学び、成長していくのだろう。
そう思えば、鷹司に無理を言ってここまで連れてきた甲斐があった。
「さて、あとは俺の仕事だな」
殿下の仕事はここまで。
あとは食事会でフランス大統領と交わすであろう話の内容が大事だ。
輝くばかりの笑顔を見ながら、一人思考に耽る。
「主導権……殿下の現状を考えれば……アドバンテージ……」
フランス大統領の経歴、思想、背景、最近の発言などを混ぜ合わせながら思案していく。
そんな中で、ふと視界の端を何かが過った。
「ん?」
窓の向こうにはスーツ姿、作業服という二人の男性が書類を手に、敷地内を歩いている。
何かを照らし合わせる様に何度も書類を見ていた。
「ああ、調査会社の人ですよ」
「調査会社?」
視線に気づいたオーナーが説明してくれる。
「なんでも大きな会社が飲料水の製造工場を作る計画があるらしいんです」
「飲料水?」
「ええ、うちの敷地内も湧水がありますから、そこの調査をしたいんだとか」
こんな場所に――――。
いや、こんな場所だからこそ、なのだろうか。
飲料水の工場は需要がある。交通網も発達したこの地域ならば、おかしな話ではない。
「……」
なのに、引っかかったのは調査員の視線だ。
舐めるような、値踏みするような、温度の無い目には覚えがあった。
「……さかき、できました!」
「え? ああ、それはよろしかったですね」
ちび殿下の無邪気な声で我に返る。
今はいい。
目的が、それではないのだから。
◆
「それでは失礼します」
「……します」
全ての工程が終わったのは日も傾きかけた夕方。
工房のスタッフに見送られながら帰路へとつく。
「如何でしたか?」
「……とてもたのしかった、です」
「良かったですね」
「……はい!」
殿下の手には杉の小箱に入ったチーズがある。
自分で絞った牛乳を混ぜて作ったそれを、殿下は大事そうに抱えていた。
「冷蔵庫に入れて定期的に塩水で洗いながら、半年もすれば食べることができるそうですよ」
「……たのしみです。のーらちゃんにも、たべてほしいです」
「そうですね。喜ぶと思いますよ」
東欧出身の彼女もチーズを喜んでくれるだろう。
ああいった臭いが平気なのか、詳しく聞いてみたくもある。
「ですが殿下、熟成させれば臭いも出てきます。どうされますか?」
「……だいじょうぶ、です」
どうやら作業工程や製法を知ったことで苦手意識が薄れているらしい。
殿下は知識先行型、知りさえすれば経験を凌駕してくれるはずだ。
「……さかきは、どうでしたか?」
「ええ、私も勉強になりました。まさか、チーズにあのような食べ方があるとは思いもしませんでした」
「……わたしも、びっくりしました。ですが、これでちーずがすきになりました」
「心強い限りです。これならば大統領との食事会も何とかなりそうですね」
「……はい。ですが、さかきもきょうりょく、してください。おはなし、たくさんしなければなりません」
「承知しています。では、今から会話のシミュレーションをしましょうか」
「……はい!」
言葉を交わしながら暮れる夕日を横目に、帝都へと急ぐ。
食事会まで時間はあまりなかった。
◆
帝国ホテルの大広間、通称飛天の間は財界の要人や政府関係者で物々しい雰囲気に包まれていた。
たくさんのテーブルに、たくさんの人。
大統領と一緒に来日したフランスの政府関係者と、日本の政府高官や官僚たちが揃いも揃って顔を付き合わせれば、こうなる。
「如何ですかな、フランスのチーズは? どれも食べごろですぞ」
一番奥のテーブルでは 大統領自らがチーズを切り分け、あるいはスプーンですくって口にして見せる。
同席した官僚や政治家の態度は二分されていた。
普段から口にする機会の多い若手は率先して口にし、あまり食べないご老体方々は臭いに顔を顰めている。
「ふふふ」
日本の官僚や政治家が様々な顔をするのを、フランス大統領は楽し気に見ていた。
外交の席であっても食事というのは人間の地が出る。
マナー、作法、そして人柄。見極めをするのに、これ以上の場はない。
「閣下、料理のお味は如何ですか?」
凛とした、しかし、幼さの残る声に大統領は横を向き、首を下げた。
隣では第一皇女である日桜が微笑んでいる。
「実に素晴らしい。我が国のシェフにも劣らない腕前です」
「光栄にございます」
丁寧にお辞儀をして見せる。
この国の皇族は簡単に頭を下げる。
矜持と誇りを重んじる欧州ではあまり見ない光景だ。
「閣下からご提供いただいた品々に料理長も喜んでおりました」
「ですが、みなさんあまり食が進んでいない御様子ですな」
テーブルを見渡せば海鮮のマリネやプディング、ピラフは食べられているものの、中央に鎮座するフォンデュやチーズをふんだんに使ったグラチネは減りが遅い。
「見慣れぬものですので、どうかご容赦を。ですが、一度口にしてしまえば……」
日桜がロックフォールチーズに蜂蜜をかけたクラッカーを手に取り、半分ほど齧ってみせる。
「この豊かな風味、強い旨味を感じます。さすがはチーズの王ですね」
「ほう、日桜殿下はロックフォールの味がお分かりになるのですか?」
「少し勉強をさせて頂きました。まだ閣下ほどではありませんが、私もチーズを理解したいと思っております」
チーズを理解したい。
日桜の言葉に大統領は驚く。
この席にあっても、強烈な臭気を放つチーズを口にするのは日桜だけだ。
いや、他の連中も世辞がわりに最初の一口くらいは食べる。
しかし、外務大臣でさえその程度、継続して手を伸ばそうする人間は少ない。
それを弱冠一一歳という第一皇女が率先して手を伸ばしていることに大統領は驚いていた。
「強い臭い、青かびという情報と見た目。人間は一度異なった印象を抱いてしまうと本質にはなかなかたどり着けません」
日桜が今度はチーズフォンデュに手を伸ばす。
使われたチーズは大統領が持ち込んだフランス産のヴァシュランとカマンベール。
どちらも美味ではあるものの、強烈な臭気がある。
それを抑え込むようにとニンニクやオレガノ、ナツメグ、オリーブオイル、胡椒は入っているが微力だ。
「これは日本の伝統食である餅です。米を加工した保存食、我が国では祝いの席で食べることが多いものです」
金属の串、その先端に小さく切られた餅を突き刺し、日桜はフォンデュ鍋の中に入れる。
「モチ……お話には伺ったことがあります」
大統領も日桜に倣い、串に餅を刺して鍋に入れた。
ふつふつと音を立てる鍋を、二人は無言のまま見つめる。
「そろそろでしょうか。あまり火を通し過ぎると餅が溶けてしまいます」
串を引き上げると、再び臭気が広がる。が、日桜は気にせず、そのまま口にする。
大統領も同じように餅に絡まったチーズを一口にした。
「おお、チーズの奥底にコメの旨味と触感がある。フォンデュにはバゲットだと思っていましたが、これも捨てがたい」
「ありがとうございます。このようにすれば、日本人でも手を伸ばしやすくなります。あとは、こちらも……」
「これは?」
「チーズの味噌漬けです」
小皿に盛られた、少し褐色になったチーズを大統領が口にする。
「皆様も如何ですか?」
日桜自らが皿を回せば、手に取らないわけにはいかない。
臭いが強いウォッシュタイプのチーズを苦手とする外務大臣、鈴木寿夫も渋々ながら箸でつまみ、周囲の顔色を伺うように恐る恐る食べた。
「美味しい!」
「ええ、これは逸品です。日本酒が欲しくなりますな!」
同席した人間からは驚嘆の声が上がる。
チーズ工房のスタッフも話していたが、同じ発酵食品。合わないはずがない。
「閣下の食に対する熱意は本物であろうと、私は思います」
「ほう」
白人の大男が目を見開く。
「閣下が香水を付けておられないのはチーズやトリュフへの配慮と考えました」
「なるほど……。よく見ていらっしゃる」
「自国の農産物への配慮とは、すなわち生産者への配慮に他なりません。国を愛し、民を愛する閣下に、私は尊敬の念を抱いております」
それまで穏やかだった大統領の目に、警戒の色が滲む。
鋭くなった眼差しを受け止めながら、日桜は微笑んで見せた。
「私はつい先日までナチュラルチーズを食べることができませんでした。あの鮮烈さは日本にないものです。試食を出されたときには戸惑ってしまいました」
日桜はオレンジ色のエポワスを手に取り、口にした後で困ったように柳眉を下げる。
「食べられはしますし、美味しいとも思います。ですが、慣れません」
「無理をして召し上がらずとも……」
「側役の提案で、チーズを作る工房を視察しました。乳牛に触れ、乳を搾り、実際の作業をこの目で見てきました。ブラウン・スイスはとても大きいのですね。欧州、フランスでも近縁種が飼育されていると伺いました」
日桜の言葉に大統領が押し黙る。
苦手と正直に話され、克服のために現場に赴いた。
普通に考えればかなり無駄に思える。資料だけを読んでいても責められることはない。
しかし、それが自分の訪問のためだとしたら、話が違ってくる。
彼女はそれだけの労力を自分に割いている。今後も力を尽くすという意思表示に他ならない。
「生産者の方々は並々ならぬご苦労をされて、チーズを作っていらっしゃいました。それも、ただ作るだけではありません。時間をかけて熟成させ、私たちや消費者の口に入ることを考えて手間をかけるのです。それは貴国の方々も同じです。閣下と私の口に入ることを考え、作ってくださったのでしょう」
「日桜殿下……」
「食は経験と蓄積、私の側役はそのように申しております。この臭いも閣下との思い出、生産者の想いがあれば、いずれ好きになれるものと信じております」
してやられた、そう大統領は思う。
日本の皇族は非常に多忙だと聞いていた。
事実、事前に調べたスケジュールも過密であったし、何よりも幼い第一皇女にそこまで求めてはいなかった。
「日桜殿下」
「はい」
「私は少し思い違いをしていたようです。貴女はお飾りではない。とても立派な外交官でいらっしゃる」
「お褒めいただいて恐縮ですが、それは私の側役へお願いします」
日桜は燕尾服姿で壁際に立つ青年に目を向ける。
大統領も倣えば青年は気付いて会釈をした。
「ほう、ずいぶんと若くていらっしゃる」
「それでも、清濁入り混じる欧州政界に三〇年もいらっしゃる方には及びません。ですから、このような奇策をとらせていただきました。ご容赦ください」
「ふっふっふ、今回は一本取られました。我らには相互理解が足りていないようですな」
一瞬、日桜が思案するような素振りを見せる。
「閣下、一つお願いがあります」
「私に出来ることでしたら、なんなりと」
日桜はわずかに首を傾げながら微笑み、テーブルの小鉢を大統領へ差し出す。
「相互理解と仰られるなら、閣下にもこれを召し上がっていただきたいのです」
「そ、それは……」
小鉢の中には茶色い豆が小山になって、頂には黄色いペーストと輪切りの葱が散らされている。
日桜は箸で小山を崩し、黄色いペースト、葱と一緒に混ぜ始めた。
「はい。納豆です。私も少し苦手ですので、一緒に克服いたしましょう。相互理解のために」
糸を引き、独特の臭気を発する納豆に大統領の側近たちは臆面もなく嫌そうな顔をした。
それは当の大統領も同じ。臭いは我慢できる。味など飲み込んでしまえばどうということはない。
しかし、糸を引くという見た目の嫌悪感を払拭するのは難しい。
「さぁ、閣下」
「うむむむむ」
渋面の大統領に、周囲からは自然と笑い声が聞こえた。
外交上の舌戦が予想された食事会は穏やかなムードに包まれ、それは終わりまで続くことになる。




