二五話
時刻は午後二時、平日の近衛本部は驚くほど静かだ。どの部隊も多忙を極めるなか、施設はもぬけの殻といっていい。
本部敷地内にある道場で一人、刀を振るう。
ここにはあまり良い思い出がない。
近衛に入った当初から訓練と称しては切られ、殴られ、撃たれた。
とりわけ裂海と正式所属をかけた日々は記憶に鮮やかだ。
挑んでも挑んでも届かなかった裂海に一矢報いた瞬間を思い出して、今は悩んでしまう。
鷹司の言う通り、もう少し負け続けていたら、まともな技術が手元にあっただろうか。いや、それすらも騎士王相手には焼け石に水かもしれない。
「気休め、だな」
疲れを覚えて手を止める。
気が付けば筒袖と袴が水を被ったように濡れていた。
息が上がっている。
心拍もネズミのようだ。
夜の波止場で対峙した騎士王の眼光が、頬を伝う血の感触が頭から離れてくれない。
「……手は届くのか?」
見栄を張っても根本的な疑問が浮かんでくる。
想像の中ですら勝てない。プランが全く浮かんでこなかった。
嫌なイメージを振り払うようにペットボトルを手に取り、中身を飲み干す。一本では足りず、二本三本と瞬く間になくなる。
ドリンクだけでは足りず、試作品のクロワッサンを押し固めた栄養バーを齧る。
「遠距離では勝負にならない。なんとかして近づかなければ……」
近付けさえすれば、超密着状態ならば技も体術も関係ない。
京都の時の様に掴んでの殴り合いに持ち込めば勝機はある。
問題はそこまでの道筋。
「なにを誤魔化す……なになら誤魔化せる……」
実力的には雲泥の差。
片や欧州の守護神、こちらはサラリーマンに刀が生えただけの素人。
これだけでは差を埋めがたい。
やはり裂海と戦った時の様に、騎士王ではなく人間の男性として考えるほかない。
しかし、それにしても情報が少ない。
年齢は非公開でも体感的には四〇前。
人種はおそらくアングロサクソン、身長は立花よりも大きかったので一九〇センチから二〇〇センチ。体重は一〇〇キロを超えてくるだろう。
「アドバンテージといえるのは年齢くらいか」
身体能力では何一つ勝てる要素がない。
普通の人間なら体重があるほど関節に負担がかかり、膝や腰などに疾患を抱えやすくなるものだが、覚めているのならばそれは見込めない。
物理的な損傷はすぐに回復し、致命的な疾患にはなりにくいからだ。
「アングロサクソンが遺伝的に弱い部分は……体臭くらいか。短気が多いらしいが、騎士王を怒らせたところで有利になるとは考えにくい」
瞳はアイスブルーだったので紫外線には弱いハズだ。
しかし、日差しの中で長時間戦ってもこちらが消耗するだけだ。
「なんだ、珍しいのがいるな」
「アンタ、今日は日桜と一緒に横浜じゃなかったの?」
声に振り返れば道場の入口に作務衣姿の鹿山翁と伊舞がいた。
「どうも、御歴々が揃うなんて珍しいですね」
「近衛で一番訓練をしないお前さんにいわれては、我らも形無しだ。なぁ、朝来?」
「私が心配しているのは日桜よ。アンタなんてどうでもいわ」
「ご尤もです」
鹿山翁は顎を撫で、伊舞は露骨に不信の目を向けてくる。
「今日は優呼に代わってもらいました。こちらも色々とありまして」
「色々?」
「例のトランシルヴァニア王族の子供でしょ。名目上はコイツの婚約者だったから」
「なるほどのう」
伊舞の指摘に鹿山翁が相槌を打つ。
分かっているなら言わせないでほしい。
「あの子ならば欧州連合への引き渡しが決まったと聞いたがな。そのためにジョルジオがこちらに来たとも聞いた」
「その通りです」
「ならば、なぜ貴様は稽古などする? まさかとは思うが、やりあうつもりではなかろうな?」
ジジイまで眉をひそめてくる。下手をすれば二人の権力で止められかねない。
手っ取り早いのは誤魔化すことなのだが、それが正解かもわからない。
「……」
「どうした? 質問に答えろ」
「分かりました。立ち話もなんですから、どうぞ」
二人を招き入れ、こちらは給湯室に入り、茶の準備をする。
長話には緩衝材が必要だ。
サラリーマン時代、会社で最初の仕事は上司が作った資料をコピーすることと、お茶の用意だった。
それなりに大きな会社に勤めていたので事務課や秘書課はあった。
いくら専門で出来る人間がいても複数の会議が重なったりすれば、例外もでてくる。新入社員の頃は事務や秘書と一緒にコピーやお茶汲みが仕事で、毎日の様にしていた記憶がある。
「粗茶ですが」
車座になり、鹿山翁と伊舞に急須で淹れた煎茶を出す。
脇に添えるのは羊羹、甘いものというのは考えを穏やかにしてくれる。
「むっ……」
煎茶を一啜りして鹿山翁が顔色を変える。
鹿児島の一番茶をやや低めの温度で淹れた。不味いはずがない。
「お前さん、なかなか堂に入った茶を入れるな」
「いえ、お褒め頂くほどではありません」
お茶汲みは誰でもやる雑務だが、誰でもできるものではない。
茶の味一つで会議を和やかにもできる。それが男なら尚更だ。
「それで、なんのためにここに残ったの?」
伊舞は茶に手も付けず、こちらを睨んでくる。
この若作りババアは鋭い。少なくとも茶に手を付けないあたり、警戒心が高いといえるだろう。
「通常の訓練、と申し上げても信じてはもらえないのでしょうね」
「当たり前よ。アンタが必要のないことをするわけがないわ」
「随分と買被って頂けるのですね」
「私は言葉遊びをしたいわけじゃないのよ」
伊舞が目を細めてくる。
普段はあまり関わりがないものの、実は近衛で最も厄介な人物かも知れない。
「まぁ朝来、そんなにピリピリするな。こやつにも言い分がある。まずは聞いてからだ」
「ジジイが話の腰を折るんじゃないの」
「それも分かる。だがな、少しは年長者の気概を見せんでどうする」
「うっさいわね。わかったわよ」
伊舞が舌打ちをして、鹿山翁が前かがみになる。
「のう坊主、朝来が心配しておるのは日桜と、まぁ、お前さんも含まれる。同じ近衛なのだ、腹を割ってくれると助かるんだがな」
「私は嘘偽りを申し上げた覚えはありません」
「嘘は言わんでも本心も言わんだろうが」
鹿山が口角を上げる。
さすが歴戦のジジイ、心理戦ではかなうはずもない。
「ついでに言えば質問にも答えておらん。儂はジョルジオと戦うのかどうか、と問うたのだぞ?」
「戦います」
躊躇なく答えれば、鹿山翁も伊舞も不満の色を出してくる。
「戦ってどうする? 目的はなんだ?」
「先日、騎士王と会い言葉を交わしました。ですが、合意には至りません。主張が異なるのならば、雌雄を決するしかないのです」
「どうやら、儂が思っている以上に事態が進んでいるらしいな」
茶をもう一啜りして鹿山翁が顎を撫でる。
「理由を話しなさい。私からすれば、騎士王に会っていたことも知らないわ。このことを霧姫は、副長は知っているの?」
「少し長くなりますがよろしいですか?」
「構わんさ」
ため息ともいえる返事にこちらも腹を括る。
説明は、少し長くなりそうだ。
◆
今件に関してどこを始まりにするのかといわれると難しい。
城山と出会ったことか、京都で助力してもらった時なのか、ノーラを引き取ったときなのか。
事情を掻い摘み説明すると、
「なるほどのう」
鹿山翁は羊羹を口にしながら頷いて見せる。
「政治家に利用されるだなんて……」
伊舞は忌々しげだ。
二人が目を見張ったのは騎士王と会った事と、主張の部分。
「私からご説明できることは以上です」
頭を下げても、伊舞は納得した様子をみせない。
勝手に異国の子供を連れ込み、近衛内で匿った挙句、同盟関係にある欧州連合の代表と主張が違うからと争う。事実だけを並べると酷いものだ。
「バカじゃないの?」
「そこについては申し開きはできません」
「開き直ればいいってもんじゃないのよ!」
怒られるのも当然なので受け入れる。
ここまできては否定をしてもどうにもならない。
「これ朝来、そんなに責めるな。情状も鑑みるものだぞ?」
「好々爺を気取らないでくれる? コイツの問題点は近衛の自覚がないところよ。いい、近衛ってのは時勢の権力に左右されることなく皇族を守護することが至上命題なの。政治家に取り込まれて利用されるなんて言語道断よ」
耳が痛い上に否定できないので黙っている。
「しかしなぁ、儂らとて万能ではないのだぞ? それに、こういう奴だから日桜が懐いたというのもある」
「だからって、容認できないわ」
「まぁ聞け。近衛の命題については否定せん。自覚のなさも、まぁ、なりたてという部分を差し引けば仕方ないところではある。京都への出向も止めてやれんかった」
「……ジジイ」
どういうわけか、風向きが変わってくる。
「少々歪ではあるが、坊主の性根は真っ直ぐだ。それはお前さんも分かっているだろう。事前に霧姫が城山某を紹介していたのも、これからを考えればだ。それに、朱膳寺家を前に捨て置くようならば、日桜の側役には置かん」
「今回も認めろっていうの?」
「これまでのものは、な。最善とはいえんかもしれん。だが、結果としてはなんとかなった。武士ではどうにもできんかった日桜のことも何とかしている」
鹿山翁がこちらをまっすぐ見る。
「榊、儂はお前さんのことを買っている。お前さんが入ってから、日桜の状況はあらゆる部分で改善している。以前はあのように笑顔を見せてはくれなんだ」
「少し前ですが優呼から聞いたことがあります。武士は助言はしても、それ以上はしない、と。翁を含め、みなさんが苦慮されてきたというのは、そういった事でありましょう」
「もっと踏み込むのならば武士という逃げ道を作って見て見ぬふりをしていたともいえる。儂等も守ることに精一杯で主のことなど気にかける余裕もない」
「言い過ぎよ」
「分かっているが、手が回らんのも事実だ。特に日桜の境遇は辛いものがある。あの子は頭がいい。苦しいことでさえ自分さえ呑み込めばと思ったのだろう。そうなると、儂等ではどうしていいかわからんのだ」
「……」
伊舞が苦しげなため息を漏らす。
「口にはしないが日桜の変化を皆が喜んでいる。儂も朝来も、霧姫もだ」
「勿体ないお言葉です」
「朝来の言葉を要約すれば、日桜に負担をかけるな、ということになる。好転してきたのに、前の様に塞ぎ込まれてはどうにもならん」
「クソジジイ、要約し過ぎなのよ」
「事実だろうに」
二人のやり取りは漫才のようだ。
それにしても、心配されるとは思いもしなかった。
独断を怒られるとばかり思っていたから余計だ。
「このままではジョルジオとの件もまず間違いなく負ける。つまるところ、お前さんに死なれては困るというわけだ。思いとどまってはくれんか?」
「ご助言ありがとうございます。ですが、引くつもりはありません。先ほども申しました通り、共和国介入をこれ以上許せば日本も危ない。大英帝国のやり口も気に入りません」
「バカ! 確実に死ぬのに、気に入らないでは済まないでしょうが!」
「私は近衛である前に一人の人間です。子供を見捨てるなど、できません」
「ふぅむ」
鹿山翁は後ろ頭をかく。
「生き残る策を練っているところです。打てる布石はすべて打っているところではありますが、決定打がない。お二人からのアドバイスがあれば嬉しいのですが」
「……どうあっても、か?」
「はい」
「条件がある」
「なんなりと」
「ちょ、ジジイ!」
「仕方なかろう。我らが手を出せば当人同士の約束を違える。納得はできまい?」
慌てる伊舞にジジイが目配せをする。
案外話の分かるジジイだ。
「勝手に死ぬことは許さん。それが条件だ」
「留意します」
「といっても、儂が持っている情報もそこまで多くない。確実なのは騎士王の持つ剣だがな、あれは古いが無名の長剣というものだ」
「古いだけですか? なにか逸話や伝説は?」
「ない。そもそも欧州は戦乱の多い場所。名のある武具ほど失われやすく、残っていないとされる」
「つまり、騎士王の脅威は固有だけ」
「そういうことになる。昨年、連城が腹に風穴を開けられたとき、治療したのは朝来だ。医師であり、近衛であるところの所見を聞かせてやれ」
ジジイの振りに伊舞はこちらを睨めつける。
本人は納得していないのだろうが、こちらは神妙な顔で頭を下げるしかない。
「……」
「これ、朝来」
「うっさいわね、分かってるわよ」
諦めたのか、ババアが大きく溜息をつく。
まぁ、人生諦めが肝心だ。
「応急処置は現地でやったみたいだったけど、日本に移送されてきたときは虫の息。虎にやられた時のアンタと同じくらいやばかったわ」
「それは、自分では分かりかねますが」
「肋骨から下にある臓器、全部がめちゃめちゃよ。腹の中をナイフで切り開いて、そのまま混ぜたようなもの、脊椎だってズッタズタ。覚めてなかったら下半身から下を切り落としているわ」
「……壮絶ですね」
聞くんじゃなった。
想像しただでちょっと吐きそうだ。
「だからまだ復帰してないのよ。近衛が回復に一年以上かかるのは相当だと思いなさい」
「私も同じ運命をたどる可能性が高いわけですか……」
「そういうこと」
曖昧ではあるが、貴重な情報だ。
それから鹿山翁と伊舞から皮肉と助言を混ぜたお小言を頂き、話し合いは終了となった。
最後に、
「榊、くれぐれも気を付けよ」
「日桜を泣かせたら地獄から引っ張り戻して、もう一回殺してあげるわ」
と、心強い言葉も貰った。
やはり、というのか二人も騎士王のことは知らない。
城山からの資料にも期待しつつ、対策を考えよう。
「……さて、それじゃあ気休めを続けるか」
道場に一人、再び刀を振るう。
今を後悔しないために。
◆
声が聞こえる。
切ないような、焦がれるような、甘くもあり、苦くもある。
不思議な心地良さに目を開く。
「んん……」
瞼が重い。それに体もだ。
ぼやける視界に記憶を呼び起こしていると、歌声はすぐそばで聞こえた。
「……おきましたか?」
目の前には殿下の顔。
大きな瞳にすらりとした柳眉、形の良い唇は一人しかいない。
「……さかき?」
どうやら顔を覗き込まれているらしい。
不思議な心地良さは後頭部の感触、御子服の生地は絹だから当然か。
「お早いお戻りですね」
「……おはやく、ありません。もうよる、です」
ちび殿下が頬を膨らませたので、恐縮して目だけで周囲を見渡せば窓の外はすっかり暗くなっている。
道場に備え付けられた時計の針は二二時を回っていた。
「殿下、いけません。明日の予定があるのにこのような時間まで……」
「……わかっ、ています。でも、もうすこし」
起き上がろうとしたのに、押し留められてしまう。
小さな手が俺の髪を梳き、顔の輪郭をなぞる。
「……いえぬこと、たくさんあるでしょう」
「お気になさらずとも結構です。殿下がご自分の職務を全うされることが私の願い」
「……はい。ですから、なにもききません」
「賢明です」
「……わたしは、さかきを、しんじています」
いつになく真摯な声に笑ってしまった。
ちいさな手を取り、指でなぞる。
「光栄に存じます。ところで殿下、お食事はされましたか?」
「……?」
「私はまだなので、よろしければ夜食など如何です?」
「……はい!」
時間は容赦なく過ぎ、約束の刻限は迫っている。
それでも今は、この時間に浸っていたい。
そう思ってしまう自分を恥じながら言葉を交わす。




