二〇話
騎士王ジョルジオ・エミリウス・ニールセン。
年齢は非公開、英国貴族、騎士団の序列一位。
金髪碧眼の美丈夫、妻子の情報はなし。
深夜、鷹司の執務室で騎士王に関する書類を調べていたのだが、直接的に言及するものは少ない。
最悪の事態を想定しておきたいのにこれでは不安だらけだ。
「こんな時間に何をしている」
ノックもなく入ってきたのは鷹司。まぁ、自分の執務室にノックをするやつはいないのだろうが。
我らが副長殿は不機嫌そうではあるものの、ここ数日は共和国からの干渉がないせいか顔色がいい。
「勿論仕事です」
「深夜〇時を過ぎてやるほど、貴様の事務能力は低くないはずだが?」
「確認のためです。気になると眠れない性質でして」
無難な言葉を並べる。
丁度いいので色々と聞いておこう。ついでに鷹司の懸念も煙に巻いておきたい。
「副長、前日私の提出した報告書はご覧になって頂けましたか?」
「ん? ああ……トランシルヴァニアへの干渉とシンガポールにおける共和国、大英帝国の暗躍だったな。両国のことは噂程度だったが、かなり根深いもののようだ」
「立花と調べた限りですが、小競り合いまで含めると半世紀近くになります。勿論、常にやりあっていたわけではいと思いますが遺恨はあるかと」
「あとは希少鉱石だったな。それに国庫から持ち出されたと思しき金……」
鷹司の表情が曇る。
なにか思い当たるものでもあるのか。
「城山先生から貴様の口座にプールされた金だがな、あれが一〇〇億近くある」
鷹司の言葉に思わず眉が寄ってしまった。
ちょっと待ってほしい。
「如何に米将軍とはいっても、一介の政治家が持つ金としては多すぎると思わないか?」
「桁が違いますね。つまり、口座は最初から二つあった」
「かも知れん。問題はなぜ今になって明かしたのか」
「本当に気付いてなかったのか、あるいは……というところでしょうか」
鷹司と二人で黙る。
金額はこの際どうでもいい。
問題は城山の真意、あの狸ジジイがなにを企んでいるのかが分からない。
「副長はご存知でしょうが立花を介して、騎士王来日の一報を受けました」
「……アイツめ」
鷹司の眼が鋭さを増すが、構わず続ける。
ここは情報の出し惜しみをするところではない。
「軍にも協力者はいるでしょうから、来日の件は城山先生もご存じのはずです。私には使っても構わないという意思表示の様に思えるのですが……」
「わからん。だが、わざわざ知らせてきた理由にはなる。今件で城山先生はかなりの苦境にあると聞く。自分が持っていても使いようがないと判断したのだろう」
溜息をつく。
企業や人間関係のいざこざより国同士のやりとりは難しい。
今後は首を突っ込みたくないところだ。
「これは明日にしようと思っていたのだが、数時間前……政府から通達があった。エレオノーレを欧州連合、いや現在の新生ルーマニア共和国へ引き渡すように、とな」
「ここにいるというのは知らないはずですが……」
「政府の情報網を軽視するな」
制服の懐から出てきたのは数枚の写真。
どれも監視カメラや街頭カメラの一部分を切り取ったもののようだが、そこには俺とノーラがいる。
「これは……」
「心当たりがあるだろう? 加えて、貴様は先日外務省へ行ったな。当然、そこでも監視カメラに映っている」
背中を脂汗が伝う。
まさか、ここに落とし穴があるとは思わない。今は軽率に出歩いた自分を呪うばかりだ。
「理解したか?」
「……申し訳ありません」
鷹司の表情が苦しい。
政府と欧州連合、どちらか一方からの要請ならば拒否できたかもしれない。しかし、どちらもが揃うとこうも難しい。
深呼吸をして思考をまとめていく。
こうなれば、できることは限られている。
「副長、一つお伺いしたいのですが、よろしいですか?」
「なんだ?」
露骨に警戒色を出す。
この人は注視してみると表情が豊かだ。
喜怒哀楽、鉄面皮がいくつもある。
「ノーラ引き渡しですが、近衛の独断で拒否できますか?」
「……一概にはいえん」
「ノーラには国有化という切り札は使えない。今から国籍を取得しようと思っても時間が足りない。ゴネにゴネても一年も引き延ばせない。その間、日本に集中するであろう国際的な非難は厳しいものとなるでしょう」
「……榊」
「ただでさえ欧州連合とは貿易面での摩擦が大きい。自動車、化成品、鉄鋼、造船、輸出が経済の柱である日本にとって関係悪化は致命的、加えて騎士王です。面子とプライド、その二つを掛けてきている。このままでは日本製品の不買運動につながりかねないとしたら、国内でも経団連が黙っていない」
鷹司の代わりに言葉を並べていく。
この辺りは素人でも思い浮かぶことだ。
「国民を敵に回した場合、近衛という存在が世間一般に知れ渡ってしまえば排斥される。いくら国防を司ろうと、後ろに皇族がいようと、膨れ上がった民意に勝つことはできない。世界は数の暴力によって成り立っている。結論から言えば、ノーラを獲得するよりも引き渡した方がよいと判断されるでしょう」
「そこまでわかっていて、なにを考える?」
「副長は政府の要求に従ってください」
驚きを伴って、鷹司が睨んでくる。
当然だろう、この甘い甘い副長殿は最後まで抵抗しようとしているのだから。
「近衛と政府との関係悪化は殿下へも影響しますから、それだけは避けねばなりません」
「榊、考えを聞かせろ。私にもできることがあれば……」
「知らない方がよろしいかと存じます」
言葉を遮る。鷹司まで加担したら後戻りができない。
今ならまだ大隊長一人の独断ですむ。
いや、実際はすまないのだろうが蜥蜴の尻尾切りくらいにはできるはずだ。
「どうしてそこまでする……」
「私の見立てが正しければ、副長でも同じことをすると思います。それがただ、今回は私であっただけです」
いくら鈍くてもこの辺りで察してほしい。
「自らを賭しても、か?」
「そんな大それたものではありませんが……」
少し考えると、答えはいくつも浮かぶ。
最初は城山からの借り。
京都の件、朱膳寺家を巡るやり取りの中では政治家の力が不可欠だった。
引き取ったノーラが可哀想だから、というのもある。
祖国を捨て、両親を亡くし、今は世界中でお尋ね者になっている。
あとはちび殿下の友達。
境遇、身分がこれほど似ていることも珍しい。ノーラならば殿下のよき理解者となってくれるだろう。
考えを並べてみるが、どれもやはりしっくりこない。
心に疼く。これをどう処理していいのか分からずにいる。
「……そう……ですね」
飾るのは止めだ。
理由はたった一つ。
「一歩間違えば、今件は日本でも起こり得るものです。エレオノーレは殿下であり、殿下はエレオノーレでもあります。卑劣な矛先を頑是ない子供に向けることは耐えられない」
「榊、しかし……」
「ですから、副長はこれ以上を知らない方がよろしいかと存じます。背負うならば一人です」
「貴様がいなくなったら、殿下はどうする? 泣かせることになるのだぞ?」
「今だけです。時が経てばやがて薄れる。時間は斯くも残酷で優しい。涙一つで救えるのならば、安いとは思いませんか?」
「榊……」
「副長、どうかやらせてください」
「……いいだろう。ただし、私の方でも最大限努力はする。貴様の挺身はそれからだ」
「ありがとうございます」
敬意を込めて頭を下げる。
処分を受けるのは自分だけで十分だ。
◆
鷹司の執務室から自室へ戻ると、時刻は午前二時を過ぎていた。
制服を投げ捨て、冷蔵庫からエナジードリンクを取り出してソファーに座る。
一口飲んでも気は晴れてくれない。
事態の推移は思った以上に良くない。
ノーラを巡る包囲網は確実に狭まってきている。
厄介なのは世界的な民主化への潮流。
王政を敷いていた旧トランシルヴァニアへの風当たりは相当に強い。今や、唯一生き残っているノーラは誹謗中傷の的だ。想定していたとはいえ、かなり厳しい。
「考えうる限り、最悪の想定をしておくしかないか」
そう自分に言い聞かせ、携帯電話を取る。
コールするのは城山。
『城山です』
「榊です。先生、お時間を少し頂戴したいのですが……」
『今は官邸なんだ。あまり時間はとれないが、いいかな』
深夜だというのに政治家は仕事をしているらしい。
「手短に済ませます」
『ありがとう。でも榊君とはもう親族のようなものだ。なんでも言ってくれ』
「ご冗談を、城山先生と血のつながりはありません」
『あの子を嫁にもらってくれるのではないのかな?』
この手のやり取りはうんざりする。
だが、ここで乗っては政治家の思う壺、冷静に受け流すのが正解といえる。
「先生に調達していただきたいものがあります。今後のために是非ともご協力頂きたいのです」
『結納ならば長熨斗、金法包、末広くらいは必要だね』
「……先生」
普段ならばこのあたりで真面目に話してくれるのだが、その様子がない。
先ほど官邸だという言葉を思い出し、頭を切り替える。
「披露宴で祝砲をあげたいと考えております。つきましては専門家に意見を伺いたく存じます。先生の御膝元には花火工場がたくさんあったと記憶しておりますが」
『良く知っているね。長岡に小千谷、大きな花火を上げるところはたくさんある。プロを用意しよう』
「ありがとうございます。あとは、祝電を打ちたいので新聞社をご紹介願いたいのです。私では三流ゴシップ誌くらいしか相手にしてもらえません」
『祝電か……内容にもよるね。私は動けないから秘書をやろう。なに、上手くするはずだ』
「重ね重ね申し訳ありません」
『榊君、一ついいかな?』
「……なんなりと」
『家内安全と近所付き合い、君はどちらが大事なのかな?』
「両方です。ですが、家内なくば世間体を気にする余裕もありません。衣食足りて礼節を知るというのは間違ってはいないかと」
『その言葉、信じるとしよう。大分政治家の扱いが分かってきたようだね』
「ご冗談を。それでは失礼します」
通話を切って一息つく。
これだから政治家は嫌いだ。
表現も言葉も選ばなければ会話もできない。
「それにしても官邸か……」
城山がこの時間まで官邸ということは、重要な案件なのか。
ニュースやメディアの政治報道では目立ったものはなかったから、呼び出された可能性が高い。ということは、ノーラの件だろう。
このままでは確実にノーラは断頭台に立つ。
悪意と罪を凝縮した一方的な裁判にかけられ、ありもしない罪を着せられて断頭台の露と消える。
あの幼い顔が地面に転がる光景など想像もしたくない。
携帯電話をテーブルに投げ、考え事をしているとインターホンが鳴った。
こんな時間に、と思いながら出てみればノーラがいる。表情に生気はなく青白い。
「眠れなかったのか?」
「……」
そのままにもしておけず、部屋に招き入れる。小さな手には新聞。記事を目にしたのだろう。
「その様子だとロクに食べてないだろう? いくら刀を持っていなくても少しは食べないと身体に悪い。食堂から何か持ってきてもらおう」
「……ヘイゾウさん、早く私を引き渡して」
「ノーラ」
「国に戻るわ。裁判にかけられたってかまわない。どんな罪だって受け入れる。それで、大勢を呪いながら死んでやるの」
「馬鹿なことを言うな。城山先生だって努力をして……」
「気休めは止して!」
ヒステリックな叫びが鼓膜を突き刺す。
気持ちは……分からないか。
祖国に裏切られ、大罪人となった。
家族を失い、そして今は自分の命すら危うい。胸の奥に沸くのは憎悪。
「呪って、憎んで蔑んで死んでやるわ!」
「ノーラ」
「そうでしょう? だって、私一人が犠牲になればみんなが幸せになるんだもの。私さえいなくなればすべて解決するんだもの!」
「ノーラ」
「お父様のように首を切られて、裸にされて晒されて、見世物に……」
そこからはもう、言葉にならない。
「ノーラ、おいで」
「なによ! 優しくなんてしないで!」
「すまない」
抱きしめる。
「俺に、君の悲しみや絶望は分かってあげられない」
小さな、震える肩を抱き、少し低い体温を覆う。
そうでもしなければ、小さな命の灯は今にも消えてしまいそうだった。
「悲しいだろう、苦しいだろうと口はいっても、同じ感情には至れない。君がその身に刻む苦痛や、孤独を共有してはあげられない」
「やめてよ、私がほしいのは……」
この子はまだ一一歳、本来ならば誰かの庇護下に居なければならない。
誰かに甘えていて当然なのに、今は一人でいる。
「すまない。でも、どうか死ぬなんていわないでくれ」
「ヘイゾウさん……私はどうしたら……どうしたらいいの?」
それはまだ、俺にも分からない。
ノーラを抱いたまま部屋を出て御所へと向かう。
こんなとき、任せられるのは一人しかいなかった。
◆
夜が明ける。
白々と明ける空を眺めながら今は待つことしかできなかった。
「……さかき」
寝室から殿下が出てきて俺の横に座る。
縁側にパジャマ姿の殿下と二人、妙なシチュエーションだ。
「ノーラは眠りましたか?」
「……はい。でも、うなされています」
「そうでしょうね」
苦悩は想像に難くない。
「……しんてんは、ありましたか?」
「亡命先を探していますが、欧州連合の影響力がない地域というと難しいものです。最有力のシャム王国は早々に拒否を表明しています。あとはミクロネシア連邦ですが、こちらは国力が心許ない。経済制裁などされれば、すぐにでも白旗をあげるでしょう」
「……むずかしい、です」
「最善は日本政府が亡命を受け入れることですが……」
「……むずかしい、です」
「ええ、この状態では……」
日本政府は政治的な迫害からの亡命は認めているが、虐殺の疑惑と欧州連合を介しての要請は無視できない。
加えて、騎士王の存在がネックだ。無言の圧力がじわじわと政府を苦しめている。
「恐らくですが政府は自発的な帰還を求めるはずです」
「……おうじなければよいのです」
「殿下」
頬を膨らませるちび殿下に思わず苦笑いをしてしまう。
皇族として、今の発言は不謹慎だ。
「続いて考えられるのは各国からの干渉でしょうか。日本への非難声明、マスコミを使っての印象操作、欧州連合の得意分野です」
「……だんこたるしせいをとるべき、です」
「迂闊な発言はここだけにしてください」
「……わたしが、このみをいとうことは、ありません」
ちんちくりんの瞳には珍しく決意がある。
「皇族は殿下御一人ではありません。陛下も皇后様もいらっしゃいますから、軽率なことは……」
「……しんじつをしれば、みななっとくします。みょうだいは、わたしです」
こんなにも意見を主張することは珍しい。
確かに、真実はそうかもしれない。
だが、それを世間に喧伝することは皇室の伝統に憚られる。
殿下が積極的に動けば、民意は確かに動くかもしれない。しかし、同時に反動も強くあることを忘れてはならない。
殿下の言葉として今回の亡命を認めさせれば、前例を作ることになる。
善人ばかりではない世の中では、こうした前例を悪用する輩が必ず出てくる。結果として皇族や殿下自身に危険が及ぶことだけは避けなければならない。
「殿下の情とはかくも強いものでありましたか。ですが、殿下がご自身を厭うことがなくても、私や副長、近衛は厭うのです」
縁側から降りて地面に膝をつく。
「殿下なくば、国体は立ち行きません。ここは私にお任せください」
「……わかりました。すべて、まかせます」
「ありがとうございます」
殿下の手が頬に触れてくる。
小さな指先は頬を伝い、首を通って肩を抱く。
いつの間にか頭はすっぽりと殿下の胸元に収まっていた。
「……ですが、むりはしないでください。わたしには、あなたが、ひつようなのです」
「勿体なく存じます」
小さな体に熱を感じながら頷く。
覚悟を決めた瞬間でもあった。