一九話
時刻は午後一〇時。
良い子はそろそろ寝る時間である。
「……さかき、おねがいします」
「承知しました」
「……のーらちゃんは、わたしがやります」
「で、殿下」
風呂から上がった殿下とノーラをソファーに座らせ、俺が殿下の髪を拭き、殿下はノーラの髪を拭く。
どうでもいい話だが、殿下もノーラもドライヤーを使わない。
「……かみのけは、せんさい、なんです」
「熱を当てると傷んでしまいますから」
最初にドライヤーを使おうとしたのに、二人から懇々と説教をされてしまった。
子供とはいえ女性の美意識には驚かされる。
俺自身は面倒なのですぐドライヤーを使う。髪が痛む云々まで考えない。
「……のーらちゃん、どうですか?」
「殿下、ありがとうございます」
二人は相変わらず仲がいい。
いや、殿下が積極的だからか。ノーラにはまだ戸惑いが見える。
「殿下、もう大丈夫ですよ」
「……はい、ありがとうございます」
振り向いた殿下が俺をじっと見つめる。
ピンク色のパジャマに、頭にはタオルを巻いている姿はとても皇族には見えない。
「……さかきも、いっしょにねますか?」
「結構ですから、どうぞお二人で。ノーラ、殿下を頼むぞ」
「はい」
二人を寝室に押し込み、ようやく静かになったリビングで溜息をついた。
自室なのに、全く気が休まらない。
「気遣いは有り難いんだが、別の部屋でやってくれないものか」
殿下は自分の仕事があり、多忙な日々を送っているにも関わらずノーラを気遣い、仕事が終わればこうして連れてくる。
食事を共にして、言葉を交わし、最近は風呂まで一緒に入る。
それはいい。ただでさえ多忙な日常、女性の少ない環境なのだから理解もできる。
ただし、俺の部屋では止めてほしい。
「おかげで本業が捗らない……」
まさか、二人の前でトランシルヴァニアや大英帝国に関する報告書を作るわけにもいかず、近衛の仕事ばかりをしてしまう。
これで喜んでいるのは鷹司だけだろう。
「邪魔をしないのはお前だけだな」
膝の上にいる子猫を撫でればぐりぐりと頭を押し付けてくる。
慣れれば可愛いものだ。
「さて、仕事仕事」
ノートパソコンを開き、近衛と城山に提出するための報告書を作成する。
共和国の目的、トランシルヴァニアにある希少鉱石、大英帝国の暗躍を時系列付きで並べていく。
具体的な手段、日本への脅威、それに影響を加え、最後は国籍ロンダリングした移住者を使った内部汚染の懸念。
膨大な人口を抱える国だからこそできる戦略を危惧するものとして締めくくる。
「あとは印刷して提出、城山先生にはメールでいいか」
近衛は書面での提出義務があるので内部サーバーに保存し、城山へは一度スマートフォンに転送してから暗号化してメールで送信する。
ようやく終わって時計を確認すれば午前三時を過ぎていた。
「くぁ……」
欠伸が出る。
さすがに眠いのでソファーに寝転がったところで携帯が鳴った。
画面には城山英雄の文字。老人はせっかちでいけない。
念のために、と寝室のドアを少し開けてみる。
暗くて姿は見えないが、静かな寝息が聞こえるのを確認してから画面をタップした。
「はい、榊です」
『こんばんわ、榊君。良い月が見える夜だね』
言葉につられてカーテンを開けると三日月が見えた。
さすがは政治家、こうした気遣いは見習いたい。
「どうも、城山先生。夜更かしはお体に障りますよ」
『年寄りだからね、早起きをしたのさ。メールありがとう、さっそく読ませてもらった』
「私はこれから寝るところです。ご遠慮いただけると有り難いのですが……」
『若いころはがむしゃらに働くものだよ。そうでなければ立身出世など到底望めない。上には上がいる世界だからね』
「一定の理解はできますが、残念ながら私はもうサラリーマンではありません。休みもすればサボりもします」
『ふっ、面白い冗談だね』
「私ほど不真面目な近衛はいないと自負しております」
『本当にそうかな? 文面からは激しいまでの熱意と不条理に対する敵愾心を感じる。怒りと言ってもいい。これを書いた人間がサボタージュ、なんて想像もできない言葉だ』
「……私は覚めてから集中するほどに感情の抑制が利きにくいのです。個性として看過していただけると助かります」
『いいだろう、この話はここまでにしよう。大丈夫、ここからが本題なんだ』
くそジジイが。
とんだ狸、いや貉がいたものだ。
「気になるものでもございましたか?」
『ノーラが来日したとき、彼女を通じてトランシルヴァニア王からワインをもらったんだ。君にも話したが、私は夏から酒を止めている。ワインは箱のまま仕舞ってあったんだが……』
「中からなにか出てきましたか」
『ご明察、手紙とスイス銀行のカードだ。ドル建てで一〇億以上ある』
「日本円で一〇〇億以上、国家予算としては少ない気もしますが個人資産としては多すぎるものですね」
『手紙には革命への危機感から資産を処分したことが書かれている。家族を養いつつ異国へ移ろうと思ったらいくらあっても足りないよ。あとは榊君の報告書でもあった国家的な陰謀を感じるというものだ。残念ながら大英帝国への言及はないがね』
「漠然とした危機感を抱いていた、というところでしょうか。移民への懸念などはありましたか?」
『いや、ない。トランシルヴァニアの国民性は実に穏やかだ。治安も良かったし、警察の数も少なかった。身内をして平和ボケとは言いたくないが、油断があったことは事実だよ』
「貴重な情報、ありがとうございます。鷹司への報告へ盛り込みたいと思います」
『そうしてくれると助かる。最後なんだが、ノーラはどうしているかな?』
心配の声音。
近衛に戻ってから約一週間。一度も城山と会っていない。
資料を取りに松濤の家には行ったが本人は不在だった。
「すっかり元気がありません。城山先生からもお声掛け……いえ、直接お会い頂けると助かるのですが……」
『分かった。だが、会うとしたら近衛の中がいいだろう。周りが騒がしくてね』
「騒がしい?」
『先週あたりからね。記者や探偵、それに警察まで見え隠れしている。おかげで迂闊に動けたものではないよ』
「政治家とはそういうものではないのですか?」
『一人や二人ならば気にしないんだが、一〇も二〇もいれば鬱陶しいね。だから、少し身内を探っている』
身内、つまり与党内ということか。
総裁選を見据える城山と現内閣、同じ党ではあるが、そこは敵味方か。
「承知しました。では、段取りはこちらで行います」
『君も屋敷へは来ない方がいい。近衛に迷惑はかけたくないからね』
「鷹司にも伝えておきます」
『うん、頼んだよ」
通話が切れる。
政治の世界、その複雑さを垣間見た瞬間だった。
◆
城山からの連絡から一週間。
毎晩のように泊まりに来る殿下を追い返し、久しぶりに自分のベッドで寝る。
なのに、リラックスできるかと思えばシーツから枕、上掛けに至るまで殿下とノーラの匂いがした。部屋全体からも自分ではない匂いに、呼び迫られているようで、夜中に何度も起きてしまった。
朝方、ようやく匂いにも慣れて眠れると思えば、今度は揺り起こされる。
「榊、榊、大変だぞ!」
「ちょっと……まってくれ……もうすこし」
「騎士王だ、騎士王が来たんだよ」
「きしおう?」
ぼんやりしていると、上掛けを引っぺがされて無理やり起こされる。
穏やかな朝とはどこへ行ってしまったのか。
「寝てる場合じゃないぞ。いいから来い」
「……どこにだよ?」
手を引っ張られ、眠い目をこすりながらリビングへと連行される。
そこには見知った顔がもう一つ。
「おっはよー!」
「……おう」
リビングには裂海もいて珈琲を淹れている。
ここは俺の部屋なのだが、最近では殿下にノーラ、立花に裂海といつも誰かが入り浸りっている。
プライバシーのへったくれもない。
「はい、寝覚めの一杯」
「ありがとう」
まだ脳が動いてないので言われるがままにカップを受け取り、口を付ける。
これが不味ければ目も覚めるのだろうが、なぜか俺やノーラが淹れるよりも美味いので夢見心地だ。
「おいしい?」
「……ああ」
「よかった!」
笑顔がまぶしい。
案外家事スキルが高いのはコイツかもしれない。
「? なぁに?」
「いや……別に……」
裂海のスキルが謎過ぎるが、それは口にしないでおこう。また琴線に触れても困る。
「優呼、俺にもくれよ」
「はいはい、砂糖とミルクいっぱいね」
「サンキュー」
ぼんやりと珈琲を飲む間、立花が俺のパソコンを立ち上げ、フラッシュメモリを差し込む。
中身を読み込めば記録映像のようだった。
「横須賀にある米軍駐屯地の映像だ。帝国空軍からリークがあって、張っててもらったんだよ」
サムネイルをクリックすると荒いながらも映像が拡大される。
どうやらかなり遠くから滑走路を映したものらしいが、着陸したと思しき軍用機のタラップから降りてきたのは黒を基調とした儀礼服の男性。
「見てみろよ、この金髪、服装も」
「俺は分からん」
「私がわかるわ。一度会ったことあるもん。黒の儀礼服は大英帝国、それも王立騎兵隊のものだから、間違いないわよ」
二人が断言するのだからそうなのだろう。
しかし、疑問がある。
「ノーラが近衛にいるっていうのはほとんどの人間が知らないはずなんだがな……」
「理由はこれだ」
立花が手渡してきたのは今朝の朝刊。
手に取って開けば、気になる記事を見つけた。
「亡国の王女、潜伏か……」
立花が寄越したのは堅いことで評判の経済紙に全国展開する新聞が複数。
そのどれもが一面ではないにしろ、かなり大きく扱っていた。
「不味いな」
「だろ? だから起こしに来たんだ。これは漏れてるぞ」
立花の言うとおり情報が漏えいしている、それもかなり大きな筋から。
国内報道と騎士王の来日が一致しているということは、入国管理局。
いやもっと上の法務省が単独でリークするとは考えにくいことから政府ということになるだろう。
ぼんやりとした頭が急速に覚醒していく。
「立花、先日城山先生から連絡があって、探偵や記者が五月蠅いって言われた」
「つまり、身内のリーク。騎士王が来たのは予定調和ってやつだ。手配人の引き渡しを日本政府が承諾しても、近衛が拒否することを考えたんだろ」
「どうして騎士王がくるんだ。欧州連合の騎士団は対ロマノフ、対雷帝を意識して北方戦線が主戦場のはずだろ?」
「副長がいるからでしょ」
しれっ、と裂海が言い放つ。
マグカップを両手で包むように持ち上げ、珈琲を一息で飲み干し、嘆息する。
「欧州の騎士団でも有名どころは何人もいるけど、今のところ副長と互角に戦えるのは騎士王くらいだもの」
「なんだ優呼、不満そうだな」
「当たり前よ!」
立花の言葉に裂海は不快そうな顔をする。
普段から明るく前向きな彼女らしくない。あまり見たことのないものだ。
「狂戦士ナイアンテール・ダウケント、巨獣ダーウィシュ・モレド・シウバ。騎士団の序列上位なら私や陽上さんでも戦えるけど、騎士王は分が悪すぎる。手出しさせないつもりだわ!」
「欧州連合の本気が分かるな。しかし、どうしてまた子供一人のためにここまでするのか分からん。いくら民主主義に移行したからって、欧州連合が直接動く理由にはならんだろうに」
「ヘイゾーのいうレアメタルが欲しいならエレオノーレの存在なんてどうでもいいはずよ。勝手に掘ればいいんだから」
そこで再び城山の言葉を思い出す。
もし、あの金がトランシルヴァニアの国庫から持ち出されたものだとしたら、どうだろうか。
革命を成功させ、喜び勇んで蓋を開ければ金がない。
王宮の私財も消えていたとしたら現在のルーマニア財政は火の車だろう。
「裂海、立花、そのことなんだが……」
「なによ?」
「どうした?」
事情を説明する。
二人の顔が次第に曇っていくのが分かった。
「榊、狙いは間違いなくそれだ。しかも、その金はまだあるぞ」
「や、やっはりそう思うか?」
「当然でしょ、バカじゃないの?」
立花に呆れられ、裂海に怒られる。
そんなに怒鳴らないでほしい。
「相手は政治家よ。しかも、実物の手紙を見たわけじゃないんだし、安易に信用し過ぎなのよ! ヘイゾーって一回信用するとほんと疑うことを知らないわよね!」
「うぐっ……」
「ああもう、一度屋敷に行って洗いざらい調べてきなさい! ただでさえ貧乏くじ引かされて、余計なものまで背負い込むんだから」
まるで母親の様に折檻され、反論ができない。
普段はアホで考えてなさそうな裂海に言われから余計だ。
「まー、優呼の言い分が真っ当だな。榊、今回は分が悪い。一人で解決なんてできないぞ」
「一人で、なんて思っていないが……」
「分かってるよ。だから、まずは味方を増やせ。今は敵が増える一方だ。不利から逃げても有利には絶対になれないもんだ」
「分かってるつもり……なんだがな」
後ろ頭をかく。
もう一度、今後を考えるうえでも鷹司に相談する必要がありそうだ。
「一つ有利な点があるとすれば、騎士王の来日方法か。旅客機使うわけでもなく軍用機、それも米軍に依頼するってことは、隠密と考えていい」
「世間的には隠しておきたい、ということか?」
「米国と欧州連合は対ロマノフ戦線で支援協定を結んでいるのよ。騎士王が北方戦線から抜けたことが知られたら面倒でしょ?」
「……なるほど」
交渉材料が一つ増えたことになるのか。
今のところ使えそうな場面はないのだが。
「相手も無理を承知で来てるんだ。まだなんとかなるさ」
「そうよ、城山ばっかりじゃなく、周りを見なさい! 周りを! あとは落としどころよ!」
「わかったよ」
二人の言葉には素直に頷く。
数少ない近衛での理解者だ、助言は大切にしたい。
「落としどころか……」
選択肢はまだある。
そう思いながら珈琲を飲み下した。




