一四話
どんな日にも朝は来る。
時間は平等で残酷だ。
「くぁっ……」
徹夜のまま一晩を過ごせば欠伸もでる。
しかも、胸元にはノーラがいる。泣き疲れたちびを起こすほど人でなしにはなれなかった。
「榊君」
障子戸を開けて城山が顔を見せた。
浴衣姿のまま、縁側から裸足で歩いてくる。いくら下が苔むしているとはいっても褒められたものではない。
「ご苦労だね」
「そういってくださるなら代わって頂けると嬉しいのですが」
「ふふふ、白雪姫にはまだ眠っていてもらわないとね」
そういって差し出されたのは朝刊。
音を出さないように開けば、トランシルヴァニアでの記事が載っている。
一面ではない、しかし、無視できるような小ささでもない。
「っ! 先生、この記事は」
「旧政府軍による住民の虐殺、毒ガスの使用とある。それにこの報道は世界的にされているようだ」
思わず声が出た。
城山の表情も硬く、渋い。
「事実でしょうか」
「私が知る限りトランシルヴァニア王は清廉潔白な人物だ。少し身内に甘いところもあるが、毒ガスや虐殺を行う人間ではない」
「では、旧政府軍内の誰かが追い詰められて、というのは考えられますか?」
「そもそも、旧トランシルヴァニア政府軍は化学兵器を持っていない。あの国はここ一五〇年ほど戦争を経験していないからね。装備も旧式のままだ」
だとしたら、この記事はどこから。誰が書いたのか。
「記事の出どころ、報道の速さ。情報元が気になるところだね」
「……あらかじめ用意されていたもの、ですか」
「そう考えるのが妥当じゃないかな。出所としては、やはり欧州連合になるだろう。亡命の阻害といい、厄介な相手だ」
「一つ疑問なのですが、トランシルヴァニアへの包囲網は欧州連合全体としての意思でしょうか」
「わからないが、全体ということはないだろう。あの組織も一枚岩ではない。内部ではドイツと大英帝国が派閥抗争を繰り返していると聞く」
交わす視線に剣呑さが混じる。確かに、聞けば聞くほどできすぎている。
日本の報道はかなり早く正確な部類だが、それでも東欧となれば情報源は多くない。欧州か中東を経由する必要がある。
「榊君、今一つ頼みがある」
「はっ」
「ノーラを近衛で預かってほしい」
そうなるだろう。
予想はできていた言葉だ。
「祖国を追われ、先行き不安だ。日本国内で今すぐどう、とはならないだろうが手の早い連中が相手のようだからね。少しでも安全な場所に置きたい」
「お言葉ですが、私はなんの権限も持ち得ません。副長の指示を仰がなければ」
「大隊長になっても、かね?」
城山が押す。
確かに大隊長になってから権限は格段に増えた。外部との連絡手段、ネットワークへの自由接続、許されているのは身内、近親者の入寮。
さすがは皇族支援者にして保守派の重鎮、かなり知っている。
「私に身内はいません。死人ですから」
「婚約者ならばどうだね?」
「ご冗談を。一一歳を婚約者にすれば私の人格が疑われます」
「実際に手を出すわけでもない。方便だよ。それに、私が子供の頃は一五で姉やは嫁に行き、と歌われていた。近衛は武家社会を色濃く残しているのだから、さほどおかしくはないと思うな」
老獪な政治家として説いてくる。
童謡である赤とんぼの一節にはそうした歌詞があるが、半世紀以上前のもの。
「榊君、私は孫にも等しい身内を守るためならなんだってやるよ」
「私は職権乱用で切腹はしたくありません」
「勿論、私からも根回しはする」
「では、その根回しを先にしてください」
言い出したら聞かない政治家をどうにかするのは難しい。
ならば、せめて状況を整えてからでなければ。
「ふむ……榊君は少し体裁を気にし過ぎではないかね?」
「私は元サラリーマンです。体裁と看板、信用が第一の商売です」
「しかしだね、なりふり構わない瞬間というのも必要だよ」
ジジイの押し付けに嫌気がさす。
俺だって体裁なんてあまり気にしない。しかし、その先にあるのはべそをかく殿下と、烈火のごとく怒る鷹司からのパワハラ。
いくら鉄面皮を自称してもあの二人を相手にするのは簡単ではない。
「できれば副長には先生御自らご連絡をお願いしたく存じます。あの人の圧力を想像するだけで辟易しますから」
「鷹司君か……彼女は少しも丸くならない。生き方が頑なすぎる。所帯でも持てば少しはマシなんだろうが、鷹司家息女にして近衛副長、さらには雷帝、騎士王とも並ぶ畏怖の対象だ。嫁に欲しいという輩はいないのだろう」
「分かっていらっしゃるなら尚のことお願いしたします」
「しかし、だ。私以上に金を持っている鷹司君に実弾は通じない。困ったね」
政界では城山のことを米将軍と呼ぶ。
それは新潟県の農家を背景とした莫大な資金力にある。
新潟県自体の資産額は全国平均よりもわずかに多い程度なのだが、農家だけの資産は全国でも五指に入る。
五〇万人ともいわれる農家から支援を受ける城山に、資金力で勝てる政治家はいないのだが、鷹司はそれ以上の金持ちだ。
「先生の秘書で物怖じしない人を婿として当てがっては如何ですか?」
「ふふっ、そんなのがいれば私はとうの昔に総理大臣だよ。君こそ適任なのではないかな? 近衛内では鷹司君の懐刀と呼ばれているらしいじゃないか」
「ご冗談を。あんな融通が利かなくて精神病患者並みに思考が歪んだ、部屋の汚い女は好みではありません」
「ほう……初耳だな」
地の底から這い出てくるような声に背筋が凍る。
なぜだろう、振り向きたくない。
「城山先生、おはようございます」
「やぁ、鷹司君おはよう。朝食ができているんだ。一緒にどうだい?」
「頂きます」
じゃりじゃりと足音が近づく。
最悪だ。小細工が完全に裏目に出ている。
さすが政治家、タイミングと仕掛けが巧妙に過ぎる。
「鷹司君、近衛の年間予算はどのくらいかな? 窮しているという話は聞かないんだが、あって困ることはないんだろう?」
「あまり露骨な差し込みは困ります。何かあったとき、言い訳が面倒です」
鷹司が庭石に座る俺に並ぶ。
眼だけを向ければ、鷹司の顔は城山を向いたまま。腰に下げた愛刀、宗近には手がかかっていた。
「これは有り難い。じゃあ榊君の口座にプールしておくから、好きに使ってくれ」
「でしたらお引き受けします。なにかあれば榊に腹を切らせましょう。なに、傷の治りは早い男ですから、心配はありません」
反論はできない。
この瞬間、俺は不正資金の首謀者にされてしまった。
口は禍の元とはよく言ったものだ。
「榊、文句はあるか? 無論受け付けはしないがな」
「し、城山先生」
「なんだい?」
政治家はあくまで朗らかだ。
くそ、どこかでやり返してやる。
「再就職先を探しているのですが、秘書は足りていますか?」
「はっはっは、考えておくよ」
笑い飛ばされる。
これだから政治家は嫌いだ。
◆
ノーラを伴って近衛に戻れば案の定、騒がれた。
噂というのは劇的に広がるもので、普段なら話しかけられないような連中からもお声がかかったのには辟易した。
さすがに一緒に住むのは問題があるので鷹司が一部屋用意してくれたのは有り難いばかりだった。
数日ぶりに食堂に顔を出せば、これまた案の定絡まれることになる。
「よっ、既婚者」
「……なんだよ、お前もか」
「眼が怖いぞ。そんなに怒るなって」
鯵の塩焼き定食をつついていると立花が隣に座る。
「止めてくれ、俺は既婚者じゃない」
「事務の連中から聞いたんだよ。榊が年若い、いや一一歳の許嫁を連れてきた、ってな」
「もうウンザリだ。朝から同じ質問を一〇〇回はされた」
「当たり前だろ? 新進気鋭の大隊長殿が非合法の嫁を連れてくればそうなるさ。まぁ、俺は信じてないけど」
「そうなのか?」
「当然」
立花はステーキを切り分けながら笑い飛ばす。
察してくれるなら有り難い。
「榊のことだから事情があるんだろ? 外国人らしいし権限を使って保護とか、そんな感じか?」
「正解だ。みんなが立花みたいに考えてくれれば楽なんだがな」
溜息が出た。
まぁ、覚悟の上ではあるのだが直面するとやはり応える。
「気にするな、ってのは無理か。どうせ一時的なものなんだろうし、時間が経てばみんな忘れるさ」
切り分けた肉を口に運びつつ立花は励ましてくれる。
「それよりも、殿下や優呼のフォローをしっかりした方がいいぞ。特に殿下は、な」
「……分かっているよ。でも、なんで優呼なんだ?」
「バカ、アイツはアイツで心配してるんだぞ? 噂をすれば、ほら」
食堂の入口には上着を肩に引っ掛けた、いかにも任務帰りの裂海がいる。
立花が手を振れば山盛りのパスタが乗った皿を手に、こちらへやってくる。
「お疲れ、また海か?」
「やっほー、ロリコン! 元気してる?」
目の前の席に座るくせに、笑顔のまま辛辣なセリフでなじられる。
なんだろう、少し傷ついた。
「なぁ……当たりきつくないか?」
「自業自…………いや、試練だと思え」
「今なんていった?」
近衛としては立花の方が先輩だが、年齢的には後輩なので向う脛を蹴っておく。
「俺に当たらないでくれよ。当事者同士での解決を望むぞ」
「原因が分からないと解決の糸口がつかめないんだが……」
笑顔のまま食事を始めた裂海はこちらを見ようともしない。
どうしよう、プランはいくつかあるが、まどろっこしいのは好きじゃない。
元サラリーマンとしては結論から述べることにしよう。
「優呼」
「なに? ロリコン。私ご飯食べているんだけど」
一言で心が折れそうになるが、ここは持ちこたえたい。
「誤解だ」
「なにが?」
「俺がそんな不誠実な男に見えるか?」
「お母様がいってたもの。男はみんなそういうのよ!」
裂海家の闇を垣間見た気がしたが、諦めてはいけない。
それでも、と装うのが真の誠実さではなかろうか。
「あれは、事情があって頼まれたんだ。相手は政治家でな」
「その政治家先生が自分で匿えばいいじゃない。セキュリティの強いホテルだってたくさんあるわ」
「それは俺も抗弁した。だがな、対象が少し厄介だ」
心情を表すべく声を小さくする。すると、裂海はおろか、立花まで首を伸ばす。
わざと声色を変えるくらいの心理操作は勘弁してほしい。
「相手は欧州連合だ」
「なんで欧州出てくんの?」
「連れてきたのは革命で打倒された旧トランシルヴァニア王族、遺児なんだよ。米国に亡命しようとしたんだが、邪魔された」
「どうしてよ? 米国は移民も亡命も基本的に受け入れる国なのに」
「それを妨害したんだよ」
「……ワケがあるのね。いいわ、そういうことにしておいてあげる」
「悪いな」
渋々納得した裂海に胸を撫で下ろす。
ついでに事情も説明しておこう
「実を言えば、匿ってたのも結構前だ。亡命先が見つかればさっさと出て行ってくれるはずだったんだが、事情が複雑化して……その政治家先生と副長に頭を下げたんだよ」
「その政治家ってのは?」
「城山英雄」
「それは大物だ。榊は城山とつながりがあったのか?」
「京都の時、少しな」
立花が唸る。さすがに事態の重さに気付いたらしい。
やはり、というか立花は護衛部隊の人間だけあって政治家に詳しい。
いちいち解説をしなくていいのは楽だ。
京都での報告書は鷹司に提出してあるし、近衛だったら誰でも閲覧できる。
立花は義姉である直虎さんもいるし、話を聞いていても不思議ではない。
「優呼は驚かないのか?」
「だって、誰かいるのは知ってたもん」
裂海の言葉に箸が止まる。
聞き間違いでなければ知っていたことになる。
いつから、どうして、と疑問符が頭を埋めるなか、正面に座った裂海が顔を近づける。
「な、なんだよ?」
「やっぱり……匂いが同じなのよ。最近ヘイゾーが部屋に連れ込んでたのってその子でしょ?」
「っ! お前、気づいてたのか?」
「言ったでしょ。匂いが同じだ、って。殿下とも違うし、おかしいと思ったのよね」
「匂い? するか?」
立花が俺の服の匂いを嗅いでいる。俺自身も気になって襟元を引き寄せてみるが、匂いなんてしない。
分かっていない男二人を余所に、裂海はどこか機嫌悪そうにペペロンチーノを流し込んでいる。本当に匂いなんてしない。
「いつからだ?」
「最初に朝食を届けたときよ」
しれっ、と言い放つ。
これには驚きを通り越して感心してしまった。動物的勘といえばいいのか、女の嗅覚は恐ろしい。
「春の夜の闇はあやなし梅の花、色こそ見えね香やは隠るる」
「なんだ、それ?」
「古今集の和歌だな。梅の花は夜の闇が隠して色も見えないが香りは隠れない。要するに見えはしなくても確実にあるものを謳ったもの。優呼にしては例えが雅じゃないか」
裂海のセリフを立花が補足する。
生憎と古典は苦手だ。
「私だって女の子だもん。ヘイゾー、話して。全部だからね」
「……全部か?」
「私たちは近衛で仲間よ。信頼してくれいないの?」
睨まれてしまった。
「榊、諦めろよ。こうなった優呼は面倒なんだ」
「わかった。後で部屋に来てくれ」
二人が頷いてくれる。
公にできる話ではない。場所を選ぶ必要があった。




