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九話



 近衛の朝は早い。

 特に午前中、殿下との同行がある日はなおさらだ。

 

 九時に予定があれば、距離にもよるが余裕をもって出発するので七時には集まらなくてはいけない。

 その前に食事も済ませなければならず、用意もあるので六時の起床では遅い。


「……くあっ」


 思わず欠伸が出る。

 殿下と一緒に専用の車で汐留に向かう途中だったのだが、油断してしまった。


「……ねむたいですか?」

「ええ、さすがに」


 隠しても仕方がないので正直に答える。

 他の仕事や用事ならば無理にでも取り繕う所なのだが、今回は原因がはっきりしている。

 平静を装っても聡い殿下ならば察してしまうだろう。


 口にはしないが、昨晩、あれから寝ていない。

 部屋に戻って子猫の世話をしながら二四時間やっている動物病院を探した。

 お湯をやって体を温めながらタオルに包み、外神田にある動物病院へ行って診察と必要なものを揃え、部屋に戻ってまた世話をする羽目になった。


 気が付けば日が昇っていて、もちろん寝る暇なんてない。

 今はノーラに任せてあるが、彼女がいなければどうなっていたことか。

 まぁ、鷹司にでも押し付けただろう。


「……ごめんなさい」

「あの状況で見捨てるという選択肢が貴女にないのは百も承知です」


「……でも、さかき、たいへん、です」

「お気になさらぬように。私からのお願いは殿下が今のままでいてくださることです。あとは、欠伸くらいは見逃していただけると嬉しいです」


 しゅん、とする殿下の頬を突く。

 そこまで気にされるとこちらも困る。仕事の延長だと思っているのだから。


「……はい」

「結構です」


「……あのこ、げんき、ですか?」

「伊舞さんのアドバイスで低体温症も脱しましたし、動物病院で子猫用のミルクももらってきました。今すぐどうこう、ということはなくなったと思いますよ」

「……よかった、です」


 殿下が心底安堵したというような顔をする。

 大きな瞳の下にうっすらと隈があるのは気のせいではないだろう。

 眠れなかったのは殿下も同じだ。


「今度お連れします」

「……はい。とても、たのしみ、です」

 

 最初から連れていく、と明言をしておけば安心していられる。

 この前のように来られてはノーラのことが露見してしまう。ただでさえ殿下はスペアキーを持っているのだから、油断はできない。

 ノックなしで突然やってくる裂海以上に危険といえる。


「殿下、今後はなにかあればまず私か副長にご相談ください。できるだけの対処はしますから。くれぐれもご自分だけで解決しようとしないように」

「……はい」


 素直に頷いてくれる。

 殿下の長所は素直であること。

 これで一安心、そう思っていたのに。



     ◆



 時刻は二二時。

 小さな影が近衛本部を駆ける。


 昼間は忙しく駆け回る一般職員たちも大半は帰り、残るのは当直と警備員くらいなもの。

 小さな影は本部と御所とを地下でつなぐ通路からエレベーターで一階にあがる。

 人気のない一階の廊下を駆け抜ける。向かう先は近衛寮。


 もし、近衛隊副長である鷹司霧姫や顧問である伊舞朝来が監視カメラを見ていたとしたら、止めただろう。しかし、今いるのは当直の一般職員だけ。彼らからしてみると、この姿を目にするのはよくあること。


 一つ付け加えると、本部内や周辺には多数のカメラがあるのだが、寮にはプライベートを配慮してほとんど設置されていない。いくら兵器扱いとなっていても近衛は意思をもった人間だ。四六時中見張られるのはストレスの原因となるからだ。


「本部廊下にて天使を確認」

「天使を確認、了解。巡回中の全ユニットへ告げる、本部一階廊下にて天使を確認。周辺警戒を厳とせよ」


 モニターが並ぶ部屋で当直職員たちが警備巡回をする人間へ伝える。

 すると、巡回中の職員たちは物陰に身を隠し、小さな足音が過ぎ去るのを待つのだ。


『い組より管制室、天使の目的地はわかるか?』

「管制室よりい組へ。恐らく寮だと思われる。目的が保護者か捧物かは分からないがな」


『どうだ賭けないか? 俺は中尉殿だと思うな』

『乗った。俺は副長にかける。最近ゴミ出ししてないからやると思うな』

「副長」『中尉殿』「副長」『中尉殿』『中尉殿』「副長」『中尉殿』『中尉殿』『中尉殿』『中尉殿』『副長』


 どうやら榊が優勢であるらしい。


『やけに中尉殿が多いな。なにかあったのか?』

『分からん。前は副長ばかりだったが、中尉殿が戻ってきてからは殊更だな』


『あの人は気遣いと気配りが半端じゃないからな。天使様が懐く理由もわかるよ』

『あー、分かるわ。偉そうにふんぞり返るばっかりの連中とは普段から違うしな。聞いたか、御所勤務の奴は結婚祝いもらったらしいし、め組は一本数百万の酒もらったらしい。羨ましいなぁ』


 近衛施設内の警備を担当する人間同士で会話が交わされる。

 天使の行動は彼らにとってさほど珍しい現象ではない。


「お前ら、おしゃべりもいいが見つかるなよ。原則として天使様であろうが許可のないものの往来は禁止だ。あざとく見逃せ」

『俺、天使様を直に見たことないから見てみたい!』

『バカ、対応と報告書に困るだけだ。モニター越しにしとけ』


 和やかな雰囲気で会話が交わされる中、小さな天使は順調に寮へと到達する。

 寮の中は映せないので外周カメラの望遠を最大にして通路を進む姿を追う。


「中尉殿の部屋だな。今日の朝飯は豪華だぞ」

『フゥー!』

『よし!』


 歓声と悲鳴が入り混じる。

 今日も近衛は平和だ。


『なぁ、天使様は中尉殿の部屋でなにしてるんだろうな』


 一人の言葉で通信を共有する全員が沈黙する。

 清潔感があり、普段から笑みを絶やさない新米中尉殿は紳士で有名だ。

 しかし、そんな部屋で天使はなにをするのか。誰もが疑問に思いながら、誰もが核心に至れずいる。


 紳士が天使になにか疚しいことをするはずがない。

 誰もがそう信じているのに、天使の懐きようから見ると別のものを想像してしまう。


「それ以上は止めておけ」

『……そうだな』


 全員が口を噤む。

 天使が部屋のへ消えるのを待って、それぞれが仕事へ戻る。



     ◆



 時刻は二二時を少し過ぎ、晴れ渡った夜空には星が見える。

 窓を開け、涼しい風を頬に感じながら手元の駒を動かす。


「チェック」

「っ!」


 テーブルを挟んだ向かいにはノーラがいる。

 見つめる先はテーブルの上、チェス盤だ。


「ふぁっ……」


 眠い、どうしようもなく瞼が重い。


「ヘイゾウさん、疲れていらっしゃいますね」

「ああ、少しね」


 ノーラとチェスを指していたのだが、思考が定まらない。

 深夜から早朝にかけて子猫一匹のために走り回って寝不足だ。

 

 件の子猫は簡易的に作ったキャットハウスの中にいる。

 金属製のケージも買ってきたのだが嫌がって入らず、段ボールに丸めたシーツを押し込んだ安いベッドで目を閉じていた。


「ヘイゾウさん、もうお休みになられたらどうかしら?」

「子猫にミルクを飲ませたら休むよ」

「それは私がやりますから。今日はお疲れになったのでしょう? 遠慮なさらずに」


 ノーラが優しく微笑む。

 昼間も世話を頼みっぱなしだったのだから、いる間くらいはと思っていたのに。


「悪い……そうさせ……てもらうよ」


 体勢を変えて横になる。

 クッションを枕代わりに、腕をアイマスク代わりに目を閉じる。


「電気、消しますね」


 ノーラの気遣いでリビングの電気が消され、シーツが体にかかるが、そこで記憶が途絶える。

 眠りはすぐにやってきた。



     ◆



「ふう」


 青年が寝静まるのをまって、ようやく体を伸ばす。

 良い子を演じるのは苦ではないが、気が抜けない。加えて相手は超が付く堅物ときている。

 

 スキンシップはおろか、キスや相応の覚悟で挑んだ添い寝ですら手を出してこない。

 拍子抜けもいいところだ。

 甘えて見せれば篭絡できると踏んだのだが、認識が甘かった。

 

 家主である榊平蔵という人間は警戒心が異様に強い。

 視野の広さ、目配せ、他人の一挙手一投足へ向ける注意力。

 起きている間は常に神経を張り巡らせ、それでいて配慮を忘れない。

 

 常人では両立し難い二つを同時にこなしている。これだけ張りつめようものなら神経が昂り、ピリピリとするのに、そうした兆候が全くないのは驚異的という他ない。

 それでも限界はあり、消耗をする。


 数日間見てきて分かったことはオン、オフが明確であること。

 起きている間は緊張状態を持続して、眠ったら余程のことがないと目を覚まさない。機械のようですらある。


 眠っている間は身動ぎ一つしない。

 普通なら寝返りの一つでもしそうなものなのに、聞こえるのは規則正しい寝息だけ。

 この日もチェスの途中で眠ってしまった。

 昨日は自分を放置して子猫を保護し、深夜に動物病院を走り回ったらしい。


「馬鹿なやつ」


 いくら皇女の頼みとはいえ、呆れてしまう。

 大人が一晩寝なくても死にはしないが、この警戒心と注意力を継続し続けるのは無理があったのだろう。そういう意味では人間らしいといえるのか。


「なにかいいなさいよ」


 眠る頬を突く。

 このくらいでは起きない。


 逆に言えば眠っている姿を見せられるだけ心を許しているのか。あるいは取るに足らない存在と思われているのかは定かではない。それでも城山英雄との約束を守り、紳士然と振る舞う姿は好感が持てた。


 榊平蔵に対するこれまでの印象は律儀に尽きる。

 ここまで滅私奉公する人間を見たことがない。なにが青年をこうまでさせるのか、仕える主の存在がそうさせるのか、興味があった。


「お前もそう思うでしょう?」


 段ボールに入っていたはずの子猫が仰向けで眠る榊の胸元へと登る。

 あれだけの殺気をばら撒いていたのでは子猫なんて寄ってこない。眠った今だから一番安心できるところへ身を寄せたのだ。


「賢いね、お前」


 子猫の喉を触ろうとすると、指を甘噛みしてくる。

 これはミルクがほしい時の合図。子猫は二、三時間おきに与える必要がある。


「どうして私が、異国の地で子猫の世話なんかするのよ……」


 いや、自分も子猫と変わらない。

 愛想を振りまき、媚びへつらってまで生きようとしている。


「ちぇっ」


 舌打ちをして立ち上がろうとした、その時だった。

 何かが落ちる音がして、とっさに目を向ける。

 とっさに身構えた。なのに、


「……あの」


 そこには物陰から顔を半分だけだしている子供がいる。


「っ!」


 見つかった。

 それに、いつからそこにいたのか。


「な、なによ、あなた!」


 疑問が頭を埋めて、思わず身構えてしまう。悪意の有無よりも警戒心が先立ってしまった。

 口調も、表情も繕う暇がない。それだけ安心していたともいえるが、反省しなければならない。

 それもこの場を切り抜けてからなのだが。 


「子供?」


 良く見れば、相手は子供だ。

 逃げるのか、叫ぶのか。予想に反してその子供は姿を現す。


 白い服に漆黒の髪、印象的なまでに凛々しい瞳。

 幼く見えたが、年頃としては同じくらい。気になるのは服装。

 厳かといえばいいのか、現代風ではない。東洋的な神秘を感じる。


「ま、まさか」


 一つの可能性に行き着く。

 隣は御所、榊は近衛。特異な衣服の子供。なにより落としたのは鍵。

 彼女が第一皇女である日桜ならば、すべてに説明がつく。

 まず間違いがない。英雄の家で見た写真とそっくりだ。少し写真よりもぼんやりとして見える。


「……」


 何か言葉を、と考えるのだが、どう声をかけたらいいものかわからない。

 自分は存在を秘匿しているし、名乗るわけにもいかない。

 悩んでいると、


「……ねこちゃん」

「はぁ?」

「……ねこちゃん、みに、きました」


 驚きと動揺、嫉妬、疑問を混ぜ合わせたかのような顔なのに、手を差し出される。

 理解できない。初対面なのに、理由も、善悪すら関係なく手を差し伸べるというのか。

 自分がもし害為す人間だとしたらとは考えないのか。

 だとしたら、この子も大概だ。英雄といい、榊といい、この国にはお人好しが多いらしい。


「いいわ」


 自らも手を差し出す。

 今の自分は愛玩動物と同じだ。

 受け入れてくれるものを拒む理由は、どこにもなかった。



     ◆



 日本国第一皇女である日桜にとって、榊平蔵とは不可欠である。

 心を満たす存在であり、同時に心を補う存在。


 彼の心に巣食う闇を共有してからは同志であり、共に悩むものでもある。運命共同体、と日桜は勝手に思っている。

 彼とならばこの国の行く末、世界の在り方すら考えていけると思うほどに。

 

 この日、彼の部屋に行った理由はいくつもある。

 昨晩、子猫を保護してもらった。

 面倒を掛けた。心配をかけた。色々あるのだが、一番大きな理由は会いたかったからだ。

 

 彼に会いたい。会って、言葉を交わしたい。

 できるなら触れ合いたい。心が求めてしまう。

 ドキドキしながら、でも焦る様に部屋に入る。

 

 しかし、部屋で見てしまったのは眠る榊と、その胸に乗る子猫、寄り添う女の子。

 

 一つ分かったのは匂い。この部屋を満たす独特の香気。

 かなり長い時間を共有してきた日桜は榊平蔵の匂いを知っている。

 部屋に入れば、自室とは明らかに違うものを感じる。それが個人にある匂い。


 今、部屋に漂うのは甘く、バラにも似ている。

 それは数日前から榊に付着していたもの。つまり匂いの正体は彼女で間違いはない。


「どうして私が、異国の地で子猫の世話なんかするのよ……」


 とがった口調にぞんざいな言葉遣い。

 なのに、どうしてそんなにも柔らかい表情ができるのだろうか。

 

 胸の奥に激しく嫉妬や疑心などの感情が湧きあがる。

 でも、日桜にとってはその感情をどうしていいのかわからなかった。

 初めてであるが故に、いくつもの感情の渦は怒りと直結してくれない。

 

 それに、榊と子猫に寄り添う女の子に悪意が見えなかったのも大きい。

 かといって好意とも違う。日桜にとっては未知のもの。

 一つだけ分かることは寄せられる信頼。


 近衛寮に他人が入り込むことができないのは日桜だって知っている。

 なのにいるということは、理由があるはずだ。


 誰かは分からない。 

 でも、榊が事情を知っていて連れ込み、女の子の寄せる信頼が本物であるならば、なんの問題もない。

 

 ああ、この子も同じ。

 彼を信頼できるほどに理解してあげられる。

 日桜の直感はそう告げていた。


「な、なによ、あなた!」


 安心したからか、鍵が手から落ちてしまった。気付かれ、向けられる猜疑心と戸惑いすらどうでいい。

 だから、手を差し伸べる。


「……ねこちゃん」

「はぁ?」

「……ねこちゃん、みに、きました」


 今できる精一杯の笑顔をする。そう、心配することはなにもない。

 なにせ、彼女は友人になってくれそうなのだから。



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