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八話

 

 仕事とは同じことの繰り返し、である。

 内容に差異はあれど、基本的には変わらない。一般的な企業ならば利益を上げることが至上の命題。しかし、近衛には利益追及がない。


「……張り合いがないな」


 書類の束と格闘しながらそんなことを考える。

 利益という目的があるからこそコストの削減や仕入れの妙、企業間での駆け引きがある。なのに、それがない。


 財布の紐を握る鷹司からは「使いすぎるな」とだけ言われている。つまり、過ぎなければある程度は使っていいことになる。これは元金の亡者として物足りない。


「信用されているのか、あるいは使っても問題ないくらいの規模なのか」


 鷹司の執務室、その片隅に用意された俺用の机の上で銀色の包装を手にとり、破る。

 中身は製菓会社に依頼して作らせた圧縮クロワッサン。開発の目的は近衛用の簡易的な熱量補給にある。

 個人的なことではあるが、俺が事件に関わると高い確率で熱量不足に陥る。熱量不足はかなりキツい。眩暈はするし思考も覚束なくなる。


 そこで携帯できる熱量補給食品の開発を思い立った。

 国内で、かなり手厚い支援がある近衛としては不必要かと思ったのだが、鷹司をはじめ、鹿山のジジイや伊舞も賛成してくれた。鬼の霍乱とはこのことかもしれない。


 そもそも、なぜ候補がクロワッサンかといえばバターをふんだんに使っていることと、個人的に嫌いではないという二点。圧縮して密度を高めてやれば小さくて高カロリーな携帯食が作れると思ったからである。現状でも掌に乗るサイズで1000キロカロリーある。

 まだ試作段階なのでクロワッサンとはいうものの、見た目は焦げたショートブレッドなのは愛嬌だと思いたい。 


「見た目は……まぁ、改善の余地ありだな」


 匂いはバターそのもの。口に入れ、噛もうとするが、近衛の咬筋力もってしても硬い。数百、いや数千にもなる層が歯の侵入を拒んでいる。

 ここで失敗だったのはクロワッサンの良さである軽さを完全に殺してしまったこと。圧縮したせいで硬いだけになってしまった。


「ぐっ、これは、さすがに食べ辛いか」


 味は悪くないどころか、クロワッサンそのもの。なのに硬さはアクリル板にも匹敵する。

 何とかかみ千切り、口の中で転がす。唾液が滲みれば次第に柔らかく、パンらしさも出てきた。空腹なら食えなくはない、という程度だろうか。


「思い通りにはいかないもんだな」


 一人反省していると部屋のドアがノックされる。


「どうぞ」

「失礼します……って、榊か」

「ご挨拶だな」


 緊張した面持ちで入ってきたのは立花宗忠。

 長身のマッチョで近衛になった当初から世話になっている。お人好しで頼れるやつである。


「副長に用事か?」

「ああ、昨日の報告書を持ってきたんだが……」

「じゃあ預かるよ。あの人は今、鹿山翁と一緒に大本営に行ってる」


 大本営とは陸海空の三軍を統括する参謀本部。

 参謀総長直々の呼び出しとなれば近衛軍としても動かざるを得ない。まったく、ご苦労なことだ。


「それで、近衛軍の歴史を塗り替えながら最速で出世する第九大隊長殿は何してたんだ?」

「褒め言葉と受け取っておくよ」


 茶化す立花に取り掛かっている仕事の書類束を渡す。

「備蓄食料の更新……こんなのまでやるのか?」

「体よく押し付けられてるよ。細かいことなんかはやってもらうんだが、金のことはどうしても上の許可がいる。特に近衛は大食漢揃いだ。備蓄食料も膨大になるさ」


 近衛本部の地下倉庫には防災用のフリーズドライ食品やアルファ化米がコンテナのまま収められている。それに保存用の水や簡易トイレ、ごみ袋なども含めると相当な量となり、これを購入するとなれば相応の金額が必要になる。


「一つの業者に一括して頼めないのか? その方が楽だろ?」

「食料と水だと保存できる年数が違うんだよ。食料は三年、水なら五年で交換する。ごみ袋も三年での交換が推奨だ。原料のポリプロピレンは劣化に強いが、薄く加工されると耐久が落ちるからな。破れやすくなる」


「はぁ……榊はなんでも知ってるな」

「保存できる年数を統一するのは難しいから、メーカーから直接買い付ける方が楽でいい。管理は仕方ないさ」


 立花に試作品の携帯熱量補充食品を投げる。


「しかし、副長もそこまで引き受けるかね。一般職員に丸投げでいいだろうに、律儀というか、融通が利かないというのか……」

「いや、優しすぎるんだろ」


 俺の言葉に立花が目を丸くする。

 なんだ、その反応は。


「榊、忠告しておくぞ」

「な、何だよ」


 真剣な顔の立花が顔を近づける。野郎のアップなど御免被りたい。


「色々なところに手を伸ばすと痛い目に遭う。いくら近衛の特権で正室と側室が複数持てるからって、近年その権利を行使した人間はいないんだぞ?」

「はぁ?」


「まさか、あの副長を……。恐れを知らないやつめ」

 まるで珍獣を見るような目つきをする。

「やめてくれよ。何が楽しくてあんな海までぶった切る人外を嫁にせねば……」


 男二人で笑いあっていると再び扉が叩かれる。


「失礼します! 裂海優呼、入ります! って、あれ?」


 続いて現れたのは裂海優呼。

 笑顔がまぶしいバカ一直線なのに近衛最恐論争の一角に名前を連ねる剣豪にして譜代武家裂海家の当主でもある。

 加点ポイントは笑っていれば可愛い点。

 あくまで笑っていれば、だが。


「よ、よう!」


 明らかに不自然な動作で立花が手を挙げる。

 まったく、正直な奴である。


「ヘイゾーにムネムネ、こんなところで何遊んでんの?」

「遊ぶか。俺は仕事、立花と一緒にするな」

「俺だって報告書を持ってきたんだよ。優呼は何の用だ?」

「私だって仕事よ! 副長から頼まれてた現代刀の試し切りが終わったから、報告しようと思って来たんだもん!」


 腰に手を置いてうっすい胸を無理やり張る。

 報告、という割に手ぶらなのは書類を書くのが面倒になったからだろう。


「優呼、ちょっと来い」

「? なに?」

「いいから」


 手招きをして、目の前まで来た人間兵器の前に報告書のテンプレートを突きつける。


「お前が書かないと、俺が書く羽目になる」

「だ、だから?」


 すっとぼけようとしても無駄だ。

 これ以上の事務処理はお断りする。


「座れ。お座りだ。そして書け」

「っ!」


 脱兎の如く逃げ出そうとする足元にファイルを投げつける。


「ぎゃん!」


 バランスを崩してコケた。

 パターンさえわかれば裂海とてちょろい。


「ううっ、捕まっちゃった。ヘイゾーのくせに、弱いくせに!」

「強い弱いは関係ない。これ食っていいから、ここで書け」

「分かったわよ」


 膨れっ面の裂海をソファーに座らせ、ペンを握らせる。


「優呼、俺も見ててやるから書けよ。報告書を書く癖付けないと出世してから大変だぞ」

「二人して言わないで!」

「まぁ、榊も強くなったもんだ。って、なんだこれ!? ずいぶん硬くないか?」


 コンクリクロワッサンを口にした立花が驚く。

 まぁ、その言葉は間違っていない。


「試作中の熱量補給食品。ベースはクロワッサン」

「クロ……これがか? 味は……まぁ、悪くないけど硬いな」

「そう? 私は気にならないわ!」


 顔を顰める立花とは対照的に、裂海は平気な顔をして食べている。

 そういえば、こうして三人でいるのも久しぶりだ。

 同じ寮で生活をしていても忙しければ食堂にでも顔を出さない限り会わないことだってある。


「そうだ、立花、一つ聞きたいんだが」

 決算書に判を押しながら裂海の報告書を監督する


「ん? なんだ?」

「ジョルジオ・ニールセンは知ってるか?」

「当然だろ。騎士王知らないやつは近衛にいない。たった一人を除いて、な」


 大の男が片目を閉じる。

 知識の偏りについては弁明しない。


「その一人から質問があってな、知っている範囲でいいから教えてくれないか?」

「いいけど……唐突だな。なんでまた騎士王なんだ?」

「名前を耳にしたから、少し気になっていた。聖ジョージ、なんて大層なニックネームをもらうくらいだ。さぞかし嫌な奴だろうと思ったんだよ」


 雷帝と並ぶ存在となれば、知っておいてもいいだろう。関わることはなさそうだが。


「ジョルジオ・ニールセンは騎士王の名前の通り、とても高潔な人物よ!」

「お前は報告書だ。まだ埋まってないぞ」

「ふぐぅ!」


 急に生き生きとしだす裂海を報告書に押し付け、立花を促す。


「ジョルジオ・エミリウス・ニールセン。年齢は非公開だが推定四〇歳、欧州の覚めたもの、通称騎士団を統率するリーダー。英国のニールセン伯爵家長子、大英帝国の至宝にして絶対の切り札。海外だと雷帝と並ぶビッグネーム」

「御大層が過ぎる。現代の至宝はドラゴン討伐の伝説とも並ぶのか」

「榊、今は伝説なんて目じゃないんだぜ? 騎士王も、雷帝も押しのけて、あと一〇〇年もすれば、この時代が伝説になるって言われているくらいだ」


 騎士王はともかく、雷帝に膝をつかせた人物は知っている。

 あのずぼら副長、鷹司霧姫。


「副長ってそんなに凄いのか?」

「当たり前だろ? 公式、非公式を問わず戦績に負けなし。あの人を敵に回せるのは空母打撃群を擁する米国海軍の艦隊くらいだ」


「あの人がねぇ……」

「今不在の連城隊長だって、騎士王とやりあったのが原因なんだ。そんな化け物を一撃で沈める副長の恐ろしさたるや……」


 立花が首を振る。

 俺も鷹司には新潟で助けてもらった。確かに、海ごと潜水艦を切ったあの一撃を防ぐ手段が思い浮かばない。分厚い装甲だろうが鉄壁の拠点だろうが意味をなさなくなってしまう。


「でもあの人、部屋の中ぐちゃぐちゃだぞ? この部屋だって片付けできてないし、寝相だって最悪だ。あれで強いって言われてもな」


 個人的には納得しがたい。

 それに殿下に対しては激烈に甘いし、酒癖だって悪い。

 弱点だらけに思えてしまう。


「ヘイゾー……」

「ん?」


 そんなことを考えていると、裂海が真ん丸な眼でこちらを見ている。

 立花に至っては苦笑いだ。


「アンタ、副長に手を出したの?」

「はぁ? なんで俺があの人間凶器に手を出すんだ。バカも休み休みに言え」


「だって、部屋とか! 寝相とか!」

「偶然が重なった結果だ。いいから報告書の続きをかけ。あと俺は大隊長、口答えするな下っ端」

「むぅ……!」


 裂海がむくれる。

 先任大尉ではあるが役職がついているので立場は俺の方が上だ。


「大尉、手が止まっているぞ?」

「分かってるわよ、榊大隊長殿! あとでとっちめてやるんだから!」

「二人とも程々にしろよ」


 和やかに午前が過ぎる。

 さて、午後は殿下の御付だ。

 せいぜい頑張るとしよう。



     ◆



 セキュリティの厳しい近衛の施設だが、わずかながら監視が緩いところもある。それが近衛寮の屋上。

 部屋の中ばかりでは退屈してしまうだろうと、夜の屋上へノーラを誘ってやってきた。


「わぁ……とても高いわ」


 フェンス際まで走ったノーラが辺りを見渡す。

 九段下は地形的に高い場所にある。

 近衛寮の屋上まで来ればかなりの範囲を見渡すことができる。


「となりがロイヤルパレスで、その向こうがシンジュク、ヒデオの御家はどのあたりかしら?」

「松濤はもっと東寄りだから、ここから見ると左側だ。あの辺も高台にあるけど、さすがに見えないな」


 遠くには高いビルが立ち並び、煌々と夜を照らしている。


「次の休みにでも行ってみようか。ノーラも部屋の中ばかりだと退屈だろう?」

「そんなことはありません。だって、日本語ってとても難しいんです。勉強しても足りません」


 そう、ノーラは部屋で日がな一日テレビや本で日本語と漢字の勉強をしている。最近はチェスも熱心なようだが、積極的に学ぼうとする姿勢は報告書を渋るどこかのバカに見習わせたい。


「ヘイゾウさんこそ、せっかくのお休みなのですからお出かけして来ればよろしいのに」

「いや……俺個人はいい。特に何をしたいわけでもないからな」

「どうして?」

「話せば長いんだ。色々あって趣味がなくなってしまってね」


 子供の指摘に苦笑いしてしまう。

 恥ずかしい話しだが、金儲け以外の趣味はサラリーマン時代からなかった。

 今となっては休日をどのように過ごしていたかすら思い出せないほど。


 ぼんやり覚えているのは会社四季報やネットで外国為替市場を見て悦に浸っていた。

 我ながらうすら寒い。


「チェスが趣味なのではないのですか? あんなに強いのに?」

「あれを趣味と呼ぶのは抵抗があるな」


 口にはしないがボードゲームなんて時間つぶしでしかない。

 遊戯という字のごとく遊びであり戯れだ。


「ノーラの趣味は?」

「私は乗馬と、あとは狩りや釣りも好きです。よく父や母と一緒に行っていました」

「それはまたハイソサエティだな」


 京都、朱膳寺家でも思ったが生活レベルが高い連中はやることが洒落ている。金の使い方、時間の楽しみ方を知っているかのようだ。とても真似できるものではない。

 やれやれ、と後ろ頭をかいているといると懐の携帯電話が震えた。表示されているのは城山の文字。


「はい、榊です」

『城山です。こんばんわ、榊君。月がきれいな夜だね』

「お疲れ様です、城山先生。粗忽ものですので、空まで見ておりませんでした」


『人間よそ見も必要だよ。立ち止まって、見渡してみるのもよいものだ。っと、無駄話をしたね。少しノーラと話したくてね。近くにいるかな?』

「ええ、少しお待ちください」


 目配せをすれば聡いノーラはすぐにやってくる。


「城山先生だ」

「はい……お電話代わりました」


 電話を渡す。

 聞き耳を立てるのも気が引ける。いや、余計なことを聞いて引きずり込まれたくはない。

 小さな背中から離れてぼんやりと屋上を歩く。


「      !」


 耳をそばだてているわけではないが、風に交じってノーラの声が届く。

 横顔には驚きと、苦悩だろうか。

 目が見開いたと思ったら細くなり、頬がつり上がる。

 口元からは白い犬歯が覗き、何かを耐えるように喰いしばる。


「        !?        」


 ここ数日、ノーラと一緒に過ごしてきて分かったことが二つある。

 一つはかなりの負けず嫌いであること。

 二つ目は気遣いができること。


 あまり良い言い方ではないが、顔色を伺うのが上手だ。

 あとは、感情の起伏。

 今の様子を見ている限り、内側で燻ぶるものはかなり大きい。


「あまり立ち入るべきじゃないか」


 無意識に観察していたことに気付く。今の役目は匿うこと。

 朱膳寺家のためにも、この子には快適な環境にいてもらわなければならない。


 自らの詮索癖に嘆息しながら眼をそらす。

 そのままフェンスに寄りかかり、なんとなく御所の方を見ていると奥の殿に近い庭に人影が見えた。


「んん?」


 今も刀を持っているので視力はかなりいい。それでもシルエットくらいだ。

 これ以上となると固有で鷹眼を持っている人間に限られる。

 

 夜もいよいよ深くなる時間帯、御所の敷地内に人影となれば気になる。

 御所の正面は厳重な警備が敷かれ、周囲はぐるりと深い堀に囲まれている。

 容易に侵入できる場所ではない。東西南北に出入り口はあるが、そこも昼夜を問わず検問が敷かれている。


「……オチは見えていそうな気もするが、時間が時間だしな」


 ちらり、とノーラの方をみれば、まだ話し込んでいる。ならば、とコンクリートの床を蹴って屋上から地上へ降りる。そのまま一足飛びで御所の入口へとたどり着く。

 突然やってきた俺に、検問の警備員たちは身構えるが、それもわずかな時間だ。


「これは大隊長殿ではありませんか。このようなお時間に如何されました?」

「少し気になる事案があり、至急殿下にお伝えしようと思いましてね」


 刀を見せ、警備員が差し出した用紙に名前を書く。


「奥様はお元気ですか?」

「はい、おかげさまで。お祝いまでいただきましてありがとうございます」


 ペンを走らせる傍ら話しかける。

 一番若い一人は先月結婚したらしいのでお祝いとして少し包んだ。


「大学生の娘さんはどうです? 一人暮らしは慣れました?」

「はい。大隊長殿には物件の紹介から隅々に至るまでの便宜を頂戴しまして、感謝申し上げます」


 もう一人は子供の進学に際し、鷹司のコネからセキュリティの高いマンションを紹介して敷金と礼金を払い、家具家電を用意した。

 まぁ、近衛にとっては大したことがない金額でも警備や一般職からすれば結構な金額になる。


「これでいいですか?」


 ペンを返し、近衛式の敬礼をすれば二人も応じてくれる。

 言葉を交わすくらいの間柄でもコネと貸しは作っておきたい。

 参考までに、使った金はすべて鷹司への借金。

 俺の口座は半年ほど前に買った客船のせいで赤字続きになっているのだが気にしない。


「どうぞ、お通りください」

「ありがとう。お仕事ご苦労様です」


 一般人が立ち入ることのできない御所の中を歩くこと数分、殿下の私室がある奥の殿へとたどり着く。


「……」


 眼を閉じ、耳を澄ます。

 風の音、虫の声、草木のざわめきに潜むような足音と息遣い。

 かすかな音と気配を頼りに歩けば、


「殿下」

「……っ!」


 白い襦袢姿のちんちくりん殿下に出くわす。

 余程驚いたのか背筋が伸び、錆びた機械のような動作でこちらを向く。


「……さかき?」

「ええ、殿下の専属護衛、榊めにございます」

「……ふう」

「なんですか、あからさまに安心して。こんな夜更けに外出するのは感心しませんよ」


 ない胸を撫で下ろすちび殿下の額をつつけば、嬉しそうにする。

 まったく、こんなんだと将来が心配になってしまう。


「……さかきなら、あんしん、です」

「はい?」


 殿下が立ち上がると、そこには真っ白い小さな子猫がいた。

 よく見れば目も開いていない。生後数日といったところか。


「……そらから、おちてきました」


 殿下が上を指さす。

 サンタクロースの季節には早い。


「空、ですか」


 殿下は嘘をいわない。

 だとしたら、考えられることは一つ。


「カラスでしょう。カラスは子猫を襲って食べることがあります。どこかで捕まえて、巣がある御所に来たところで落としてしまった。大体そんなところだと思いますよ」

「……たべますか?」


 殿下が複雑な顔をする。

 想像しにくいことではあるが事実だ。隠してもしかたない。


「殿下、否定的になってはいけません。野良ではあることです」

「……でも……」


 殿下が俯き、何かを思いついたように顔を跳ね上げ、また俯く。

 甘っちょろいちび殿下の考えは想像ができる。

 大方カラスを餌付けしようと思い、そもそも都会のカラスは餌に困っていない現状に気が付いたのだろう。


「聡明な殿下のことですから、不毛さに気付かれたことと存じます。食べるものがあればいいということではありません。動物にとって狩りは本能ですから」

「……はい」


 しゅん、とする。

 食物連鎖、という言葉は知っていても実感することはあまりない。


「ですが、今は逃れてここにいるわけですから、治療をしても問題ないでしょう」

「……はい!」


 笑顔が戻ってくる。やれやれだ。

 問題は御所内でペットを飼っていいものだろうか。

 それ以前に報告はしなくていいのだろうか。


「明日も公務があります。支障をきたさないためにもお休みください」

「……でも」

「面倒は私が見ます。それでいいですか?」

「……はい。……できるかぎり、おねがいします」


 まぁ、これも専属護衛の仕事だと思うことにしよう。


「さて、と」


 殿下の横にしゃがみこみ、子猫の状態を見る。

 にーにー、とか細く鳴いて手足には力がない。抱きかかえれば体温が低いことが分かる。

 かなり危ないかもしれない。


「……どう、ですか?」

「獣医ではないのでわかりません」


 知識がない以上、動物病院に連れていくのが最善なのだが、深夜にやっているものだろうか。

 走り回って時間を浪費すれば助かるものまで手遅れにしてしまう。


「ほら、殿下はお戻りになってください。寝坊したら変顔をしてもらいますよ?」

「……わかりました」


 心配そうな殿下を私室に押し込み、そそくさと御所を出た。

 そのまま寮へと戻り、小猫を抱えたままとある一室を目指す。


「夜分遅くに申し訳ありません。榊です」


 部屋の前までたどり着くとインターホンではなく直接ノックをする。

 一、二回では反応がない。まぁ、この時間なら寝ているか。


「夜分遅くに申し訳ありません。榊です」


 ノックする。


「夜分遅くに申し訳ありません。榊です」


 まだ出てこない。

 ババアは耳が遠いのだろう。


「夜分遅くに申し訳ありません。榊です」

「ああもう、なによ!」


 ドアをけ破りそうな勢いで出てきたのは近衛顧問の伊舞朝来。

 実年齢は還暦なのに、固有のせいで容姿は二〇代という妖怪ババアだ。


「よかった。いらっしゃらないのかと心配しました」

「確信なく今の行動してたら異常者よ! ったく、なに?」

「顧問殿、一つ申し上げておきますが、今どきネグリジェというのは……」

 

 ババアが着ているのは薄いレースのような素材の西洋寝間着。

 下着も透けて見えているのだが、実年齢を知っていると吐きそうだ。


「うっさいわね! ぶっ殺されたいの?」

「失礼しました」


 年上なので頭を下げる。

 ババアをからかうのはこのくらいにしよう。


「実は……」


 子猫を見せ、経緯を説明する。伊舞は渋面だ。


「アンタ、私に喧嘩売ってんの? 私は人間専門の医者よ。獣は管轄外」

「人間も獣もさして変わらないと思いまして。人間の子供と同じ対処を教えていただけませんか?」

「……診せなさい」


 殿下が関わっているだけあって伊舞も渋々ながら応じてくれる。

 これが俺の独断だったら殴られて終わりだろう。


「冷たいわね。低体温症になりかけているから毛布か何かで温めて、あとはミルクを飲ませなさい」

「牛乳でもいいですか?」


「ダメよ。牛乳は乳脂肪分が多いから消化ができないの。そうね、今夜だけはお湯でもいいわ。ただし、温度と量には気を付けなさい。朝になったら専門の病院に連れていくこと」

「……案外面倒なものですね」


 つい本音が出る。

 殿下に任せていたら助からなかったかもしれない。


「生き物ってのは面倒なものよ。少し待っていなさい」


 伊舞が引っ込み、戻ってくると手には針のない注射器。


「哺乳瓶なんてないだろうから、お湯を飲ませるときはこれを使いなさい」

「ご面倒をお掛けします」

「最近はようやく調子を取り戻してきたんだから、あの子には余計な心配をさせたくないだけよ。アンタも、もう少し気を使いなさい」


 なぜか俺が怒られる。


「はぁ、まぁ、わかりました」

「用事はそれだけ? じゃあ行きなさい。私は寝るわ」

「ありがとうございました」


 もう一度頭を下げてから部屋に戻ろうとしたところで気付く。

 そういえば、ノーラを屋上に残したままだった。


「ちょっと迂闊だったか」


 時刻は午前〇時になろうとしている。いくら人気のない時間帯とはいえ、見つかったら大変だ。

 急いで屋上に戻り、ドアを開ければ、遠くを見つめるノーラが見える。

 よかった、見つからなかったらしい。


「あっ、ヘイゾウさん」

「ごめん、少し用事ができてね」

「急にいなくなったから、びっくりしました。あら……」


 目線が胸元へ行く。


「こいつのことで、少しね」

「わぁ、猫ちゃん、可愛いです!」

「そうかな。とりあえず部屋に戻ろう。寒かっただろ?」

「いえ、大丈夫です」


 小娘、子猫と一緒に部屋に戻る。

 気分転換に、と思ったのだが、静かとは程遠い夜になってしまった。




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