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七話


 温かな感触が胸の中で踊って、首、胸元、腕を巡り、胸へと戻る。

 どこか確かめるような、探すような息づかいと鼓動。


「ん?」


 気が付けば殿下が膝の上にいて、ぴったりと貼り付くように近衛服に顔を埋めていた。


「……おきましたか?」

「殿下、お戯れを。どうかされましたか?」

「……どうかしているのは、さかき、です」


 ちび殿下が頬を膨らませる。

 そうだった、護衛任務の最中だった。


「そう……でしたね。少しぼんやりしていました。ご容赦ください」


 姿勢を正して殿下を膝から降ろす。

 今は新聞社が主催する書道展に出席するため、車で移動中。

 車はリムジン仕様、運転も任せてあるので少しぼんやりしてしまった。


「……」

「殿下、まだなにか?」

「……いえ、なんでもありません」


 少し首を傾げていたが、いつも通りぽんやり笑ってくれる。


「……あさこから、すこしききました。たいへん、だと」

「ああ、潜水艦の件ですね。申し訳ありません、私自身が不慣れだったものですから。動転してしまいました」


 あさこ、とは近衛顧問の立場にある外見は二〇代後半なのに、中身は還暦という妖怪ババア、伊舞朝来のこと。

 殿下や鷹司の体調管理をしているので接触する機会は多いはずだ。そこで聞いたのだろう。


「……こまりましたね、せんすいかん」

「ええ、本当に。ですが、国と国の思惑ですので、致し方ない部分もあるかと存じます」

「……ひとは、どうしてあらそうのでしょう」


 ちび殿下が俯く。

 言葉が重いのは純粋さゆえだ。

 どうして争うのか、それが分かれば苦労はない。


「殿下はどうしてだと思われますか?」

「……りゆうは、いくつもあります。でも、けっていてきでは、ないようにおもうのです」


 眉根を寄せて真剣に考える姿は、国を憂うと同時に、人の行く末も憂いているようですらある。

 こんなとき、自分は何ができるのかを考えてしまう。

 伝えるべきはやはり、知識ではないのか。この子に自分が持てるすべての知識を差し出したい。


「殿下はバベルの塔を巡る物語をご存知ですか?」

「……せいしょにある、あのばべるのとう、ですか?」


「はい。聖書には叡智をもって天まで届く塔を造ろうとした人間に、神は、人間が共通の言語を持つのでこのようなことを始めたとして、言語を乱し散り散りにしてしまった、とあります。解釈はいくつもありますが、この話を耳にした当時の私は、人は意思の疎通ができず争うのだと考えました」


 酷い話である。

 人の叡智を傲慢だとして神は言語を変えてしまう。

 神話や創世記を信じるわけではないが、世界中の言葉が同じであったら、少なくとも争いのいくつかはなくせるだろうに。


「古代において、言語こそ人を隔てるものであったことは間違いないでしょう。叡智をもって人は塔を建て、何を望んだのか。神はなぜそれを傲慢としたのか。今の私からすればどちらも強欲としか言えません」

「…………」

「前置きが長くなりましたね。結論から申し上げると私が思い至る争いの根本は欲です」

「……よく」


 殿下が難しい顔をする。

 自ら肯定するものを争いの根底とされたら、面白くはない。


「殿下、勘違いしないでいただきたいのはこれは私の、今現在の結論です。この先変わることだってあるでしょうし、殿下を説得するものでもありません。ご了承いただけますか?」

「……はい。つづけてください」


「人は欲するものがあるからこそ、争います。国家間においては貧富がそれを分けるといってもいい。ならば、その貧富が存在する理由は、人は何がほしいのか…………幸せです」


 幸せ、とは非常に曖昧なものであり、結果論でしか語れないものでもある。

 そんな曖昧で不確定なものがほしい。


「少なくとも貧するよりも富める方が幸せです。ないよりも、ある方幸せだと考えます。勿論例外もありますが、それは個人の資質によるものです。大多数は、やはり満たされた状態を求める」

「……だから、てをのばすのですか? うばうのですか?」


 殿下の眼は真剣そのもの。しかし、あまり深く考えてはいけない。

 人が深淵を覗くとき、深淵もまた人を見ている。囚われては元も子もない。


「奪うことが簡単なのは事実です。しかし自制できるのもまた人であると私は考えます。そして殿下、欲こそ人を人として成立させているとも思うのです。原動力なくば、人は人ではなくなる」

「……むずかしいです」

「私もそう思います」


 眉間にしわを寄せ、御子服の裾をつかんで考える姿は愛らしい。

 この子にはつい多くを求めてしまう。

 

 希望溢れる世代を惑わすのは大人の悪い癖だが、許してほしい。

 俺自身では到達できない場所に、殿下ならばたどり着けるかもしれないと勝手な期待も抱いてしまう。


「……さかき、もっとおはなし、してください」

「まだですか? もうすぐ着きますよ?」


「……では、おわったあとでも、かまいません」

「殿下、ご存じの通り私は睡眠不足です。公務のあとは部屋に戻って朝まで目を閉じていたい気分なのですが」

「……むぅ」


 殿下が不満そうな顔をする。

 どうやら議論熱に火がついてしまったようだ。


「……おはなし、したいです。さかき、ごほうび、あげますから」

「また膝枕ですか?」

「……りらっくす、できます。ははうえもいっていました。とのがたには、もっともよいもの、です」


 どうやら皇室にはまだ迷信が跋扈しているらしい。


「考えておきます。とりあえず公務に参りましょう」

「……はなし、そらしました」


 停車したところでそそくさと外へ逃げる。

 殿下がこの話題を展示会の間に忘れるようせいぜい祈ることにしよう。



     ◆



 帝都の中央部、千代田区の夜は静かだ。

 御所を中心としているこの区では周辺に高い建物が存在しない。

 加えて国の重要機密組織である近衛の本部もあることから人が集まる様な商業施設もない。


「悪くないもんだ」


 近衛寮、自室の窓から外を眺めれば、暗く静まり返る御所の向こうに新宿の明かりが見える。世界最大級の歓楽街、新宿歌舞伎町の喧騒は光とともにここまで聞こえてきそうだ。


「ふう」


 景色を楽しんでから手元にあるカップに口を付ける。

 夜なので中身は薄めの煎茶。悪くない。


「次の手は決まった?」

「うぅ」


 テーブルを挟んだ先にはノーラが眉間に皺を寄せている。

 彼女が凝視しているのはチェス盤と駒。

 就寝までの間、暇つぶしにと始めた。娯楽は言葉がいらないから楽だ。


「降参かな?」

「ま、まだ、もう少し」


 ノーラは盤面を前にしてしかめっ面。

 手遊びに、と持ってきたチェス盤は大当たりだった。


「白のナイトをh4へ」

「黒のルークをe8、チェック」


 チェックは将棋でいう王手。

 先ほどから四つ角の一つ、h8に陣取るノーラのキングへ刃を向ける。


「っ!」


 ノーラの顔にさらなる苦悩が浮かぶ。

 ちなみに、このルークを取ってしまうと黒のクィーンが強襲を仕掛けることになる。

 専門用語でいうとルアーリングである。


「ヘ、ヘイゾウさんは……」

「ん?」

「どうして、こんなにチェスが強いんですか?」

「学生の頃に少し覚えたんだ。元々将棋とかチェスとか、こういう遊びは得意でね」


 手の中ではすでに獲得した白のルーク、ビショップを弄ぶ。

 趣味の範囲ではあるが知人友人には負けたことがない。


「お、お父様にだって負けたことないのに」


 ノーラが親指の爪を噛む。

 穴が開くほど盤面を見つめる姿は本当に悔しそうだ。

 この子は案外、気が強いのかもしれない。


「ノーラ、もう明日にしないか?」

「っ、でも、まだ終わっていません」


 もう一〇手ほどでチェックメイトなのだが、やめる気はないらしい。

 ここからの逆転はほぼ不可能。あとは負けを認めるか認めないか、だ。


「ノーラ、君はとても優れたプレイヤーだ。でも今日は俺の方が少し上手だった。そう思ってくれないかな?」


 優しく諭せば名残惜しそうに顔を上げる。

 負けず嫌い、というよりは日本人の俺が予想以上に強かったことへの戸惑いだろうか。

 チェスの本場は欧州。日本人で有名なプレイヤーなんていないので面を食らったのだろう。


「……ん?」


 ここで携帯電話が震える。

 表示されているのは京都のご主人様の名前。


「ノーラ、少しいいかな?」

「構いません。存分にどうぞ」


 長考の機会を得たノーラの承諾を待って画面をスライドさせる。


「榊です」

『っ!』


 電話の向こうで息をのむ音が聞こえる。

 ややあってから、


『平蔵……なの?』

「私以外の誰がいますか。そこまで不忠ではないつもりです」


『そう? 私のことなんて、もう忘れてしまったと思っていたわ。だって、帝都に戻ってから連絡一つ寄越さないんだから』

「不義をお許しください。少し忙しくしていまして。しかしながら、千景様はご活躍のようですね。県知事賞、私も嬉しく思っていますよ」


『……! 耳が早いのね。褒め言葉も嫌いではないわ』

「広重さんからお手紙を頂きましたから」


 懐かしい声に耳を傾けると、思わず軽口が出る。

 良かった、元気そうだ。


「その後、お身体は如何ですか? 近辺で不審なことは起こっていませんか?」

『大丈夫よ。体は何ともないし、護衛は近衛と大阪府警がしてくれているわ』


 千景が話す間に、ノーラがナイトを動かす。

 しかし、思い通りにはさせない。ポーンで道を塞ぐとノーラの顔が曇る。


「政治家、警察、それに国家権力。三つを敵に回して派手に立ち回る度胸のある人間はいないということでしょう。ようやく一安心ですね」

『そうね、ストーカーにも悩まされず夜も静かよ。……少し寂しいけれど」


「また中庭にでも潜みましょうか?」

『馬鹿をいいなさい。貴方の部屋、そのままなんだから使えばいいでしょう?』

「有り難過ぎて涙が出そうですよ」


 悩みに悩んだノーラがナイトでポーンを取る。

 再びポーンを配して布石を打てば嫌そうな顔をする。


「それで、ご主人様はこんな夜更けにどんなご用件ですか? まさか、世間話がしたかったわけではありませんよね」

『あら、いけないかしら。それともお楽しみ中?』


 千景の声が低くなる。

 電話の向こうでは不機嫌そうな顔をしていそうだ。


「冗談です。お気を悪くされたら謝ります」

『いいわ。家臣の妄言を許すのも務めの一つだもの。今日は相談、私、中学受験をそっちで受けようと思うの。だから、帝都の下見がしたいわ』

「千景様が帝都で、ですか?」

『ダメ……なの?』


 今度は眉根を寄せている光景が目に浮かぶ。

 あまり不機嫌になられても困るのでフォロー方針に転換しよう。


「いえ、反対などということはありません。私も応援させていただきます」

『本当? 良かった、嬉しいわ』


 ふう、なんとかセーフ。

 人が脂汗を拭っていると、ノーラはクィーンを動かし、こちらへ反撃を試みている。

 

 なるほど、防御は捨ててこちらの駒を狙いパーペチュアルチェックを目指すことにしたらしい。

 しかし、そう簡単にはやらせない。

 こちらのクィーンを動かし、ノーラのキングを詰ませにいく。


「もう広重さんには相談されたのですか?」

『ええ、お爺様も平蔵がいてくれるなら安心だって言ってくれたわ。城山先生にもご挨拶したいし、一度そちらに行ってみたいのだけれど、どうかしら?』


 どうやら外堀は埋めているらしい。

 それにしても、中学生で一人暮らしはできないだろう。

 寮のある学校を受験するのだろうか。


「ご案内することに問題はありませんが、先ほども申し上げた通り少し忙しくしています。そうですね、年末年始、学校の冬休みあたりで如何でしょうか」

『わかったわ。平蔵、楽しみにしているわね』


「私もです。ですから、くれぐれも風邪などひかないようお過ごしください」

『……うん』

「結構です。広重さんにもよろしくお伝えください」


 素直な返事に安堵する。


『……平蔵、あのね、また……電話してもいい?』

「構いませんよ。出られるかは分かりませんが、着信が入っていればかけなおします。お気軽にどうぞ」

『うれしい』


 声が柔らかくなる。

 この甘え癖をどうにかしなくては。


「では千景様、今夜はこの辺りに致しましょう。あまり遅いとお体に障ります」

『わかったわ。平蔵、おやすみなさい』

「はい、おやすみなさい」


 通話を切る。どっと疲れた。

 携帯電話を置いて顔を上げれば膨れっ面のノーラと目が合った。


「ヘイゾウさんって、意地悪ですね。こんな配置、聞いたことがありません」

「そろそろ負けを認めてくれると有り難い。明日も早いからね」


 実はもうほとんど詰んでいる。

 ノーラ側、白のキングを人差し指でいじる。


「君はクィーンを取りたい。でも取ったら最後だ」

「……わかりました。今日はお譲りします」

「ありがとう。いい勝負だったよ」

「こちらこそ、ありがとうございました」


 本当の試合さながらにソファーから立ち、握手をする。ノーラは強く俺の手を強く握っている。

 息抜きのつもりが長丁場になってしまった。


「ヘイゾウさん、これ借りてもいいかしら」


 ノーラがチェス盤と駒を指す。

 よほど悔しかったらしい。


「構わないよ。好きなだけ使えばいいさ」

「あの、参考までに伺いたいのです。戦術はどのように覚えたのですか? オープニングから中盤まではフィッシャーに似ていますけれど」


「ああ、チェスの本はルールブック以外は読んだことがない」

「えっ?」

「戦術は将棋のアレンジだから、君には少し難しいかな」


 これは嘘。

 実際にはノーラの指摘通り、半世紀ほど前に活躍した米国の天才チェスプレイヤー、フィッシャーの戦術を採用していることが多い。

 勝率が高い戦術を採るのは当然といえる。ついでに、子供に手の内を見せるほど耄碌はしていない。


「分かりました。私も勉強しなおします」

「あまり夜更かしをしないように」


 ノーラが駒をもって寝室に引っ込む。きっと、これから戦術について練り直すに違いない。

 まぁ、一日中暇を持て余しているのだろうからやることができて退屈も少しは紛れるはずだ。

 次に挑まれたときはフィッシャーのライバルだったスパスキーの戦術で翻弄するとしよう。


「ふぁ……」


 時計の針は零時を回っている。

 程よい疲れを感じながらソファーに寝ころび、目を閉じる。

 寝室から聞こえる盤と駒が奏でる、騒々しいまでの小夜曲を聴きながら眠りに落ちた。



一度出したものを修正するというのはあまりやらないんですが、今回あまりに酷かったのでご容赦頂きたく思います。

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