六話
白いワンピース姿の千景が泣いている。
「平蔵は、帝都に戻ったら私のことなんて忘れてしまったのね」
そんなことはない。
君のことは大事に思っている。
広重さんも心配だし、京都には心残りもある。
「本当?」
本当だ。
頷けば涙を拭いた千景が駆け寄ってくる。
「平蔵、私のこと、大事にしてくれる?」
ん? 大事にする?
なぜか話の趣旨が少し違う気がするが、まぁ、頷いておこう。
「嬉しい。私たちずっと一緒ね。朝も昼も夜も、それから朝までだって……」
千景の体が光り、白いワンピースがほどけていく。
腕の中には温もり、そして柔らかな感触。
「平蔵、ああ、嬉しい」
い、いや、それはまだ聊か早い気がする。
それに、俺が千景に手を出したら犯罪だ。
はやまってはいけない、と押し留めようと手を伸ばしかけたところで、千景がうつむいた。
髪の毛が明るい色から漆黒へと変貌していく。
そしてーーーー。
小さな顔がもう一度上を向いたとき、千景だと思っていた姿はいつの間にかちんちくりんのちび殿下へと変わっていた。
いつもは垂れている瞳が吊り上り、まなじりに涙が溢れ
「……ばか」
心臓が跳ねる。
◆
「はっ!?」
備え付けの電話から聞こえる電子音で目が覚めた。
辺りを見渡しても、ここが自室であることが分かる。
枕もとの携帯電話に手を伸ばせば、時刻は午前三時。夜とも朝とも言い難い時間だ。
「……なんて夢だよ」
はっきりと覚えているだけタチが悪い。
よりにもよって、あの二人の夢を見るなんて。
「ん?」
腹部に重みを感じ、シーツを引っぺがせばノーラがいる。
せっかく寝室を貸しているのに、こっちに潜り込まれたのでは意味がない。
「勘弁してくれ」
殿下、千景ときて、今はノーラ。
ここ数か月でミニマムの面倒ばかり見ている気がする。
小さな体を起こさないようにソファーを抜け出し、鳴り続ける受話器を耳に当てた。
「榊です」
『中尉、お休みのところ申し訳ありません。島根県沖三〇〇キロの日本海で第六大隊が国籍不明の潜水艦を捕捉しました。対馬に駐留する空軍機も緊急展開しています。至急副長室まで出頭してください』
知らせてくれたのは当直の職員。
覚めたものではないが彼らの尽力なくして近衛は立ち行かない。
「ありがとうございます。今行きます」
受話器を置いて冷蔵庫を開ける。
取り出したのはカフェインたっぷりのエナジードリンク。コーヒーを沸かす暇がないので、今はこれで代用だ。
こうした夜討ち朝駆けは珍しくない。近衛の弊害といえばそれまでだ。今嘆いても仕方ない。
美味くもないドリンクを飲み下し、近衛服を着る。最後に上着を引っ掛けて鷹司の執務室へと向かった。
◆
夜も明けない朝なのに、緊急の入電によって施設内がざわめいている。
俺以外にも関係各所へと連絡が入り、職員が起き始めていることだろう。
「おはようございます」
執務室へと入ると、この部屋の主はすでにいた。
「ああ、おはよう」
近衛隊副長、鷹司霧姫は近衛服こそ着ているが、前のボタンがズレている。
隙間から肌色が見えたが、言わない。それくらいのデリカシーはあるつもりだ。
モニターを操作して回線を現地とつなげる。第六大隊が捕捉とあったから、現地には直虎さんがいるはずだ。
ノイズの後に荒れる海が映し出される。数秒遅れの間延びした映像に、凛々しい横顔が見えた。
『……榊殿、お久しぶりです』
「直虎さんこそ、お元気そうでなによりです」
立花直虎さんは京都での件もあり、俺にとっては恩人といっていい。
『副長、夜分に申し訳ないとは存じましたが……』
「直虎、ご苦労だ。状況の説明をしてくれ」
鷹司は挨拶もそこそこに説明を促す。
『はっ、〇二二四、海軍より潜航音を捉えたという一報が入り急行致しました。場所は島根県沖約三〇〇キロ、領海ギリギリです。船籍は不明ですが、スクリュー音から共和国の可能性が高いと考えられます』
「むぅ」
直虎さんの報告に鷹司が思案顔をする。
領海侵犯は重大な懸念事項だ。
侵犯されたら軍はすぐさま警戒行動にでるだろう。それでも、
「厄介な」
近衛の頭脳そのものである女傑が難しい顔をする。
領海侵犯をしてきたら、軍は警告をするだろう。そして、その警告も無視するようなら撃つはずだ。
しかし、撃てば最悪の場合、局地的な紛争へと突入する。
融和政策をとっている現政権は難色を示すだろう。
『今現在も領海侵犯はおこなっていません。しかし、対馬近海には共和国の艦艇が展開しています。潜水艦と艦艇、何かあれば数十分以内に向こうの空軍もやってくるでしょう』
「一触即発じゃないですか……!」
直虎さんの報告に絶句してしまう。
下手をすれば、どころではない。一発でも撃てば即座に戦争へと突入してしまいそうだ。
「ど、どうするんですか?」
「そんなに狼狽えるな」
「しかし……」
日本海で、それも狭い水域を挟んで両軍がにらみ合う。
自分が現場にいたら、緊張で胃が痛くなるだろう。
「榊、貴様は初めてだろうが、こうした事態は常に想定しておかなければならない」
「想定といわれましても、まさか副長は紛争や戦争のことまでお考えなのですか?」
「なくはない、といったところか」
柄にもなく笑う鷹司。
こんな状況にあっても、女傑の不敵さは頼もしい。
「共和国も現在は外貨不足だ。あまり考えたくはないが、軍部が暴走でもしない限り撃ってはこない。ならば、目的は何か」
「……警告か脅し、でしょうか」
「三〇点、正解は疲弊だ」
「疲弊、ですか?」
鸚鵡返しに問いつつ、思い当たる節があった。
俺が近衛に入ったばかりの頃、奥尻で同じようなことがあったのを思い出したからだ。
「ふっ、分かったような顔をするではないか。そう、北海道での雷帝との小競り合いを覚えているな。共和国も同じことをしてくる。今考えれば、北海道に意識が集中することで日本海側が手薄になった」
「つまり、我々を日本海に釘づけにして、尚且つ疲弊を狙う。別の目的がありそうですね」
「その通りだ。問題は、その目的が見えないことだな」
鷹司が腕組みをする。
眼差しが見つめるのは未来か、それとも共和国の思惑なのか。
「色々と講釈をしてやりたいが、状況が状況だ。展開する帝国海軍にも負担を強いるわけにはいかない。まずはお引き取り願おう。直虎、回線を開け」
『はっ!』
直虎さんが直立不動で敬礼をし、鷹司は傲然と胸を張る。
「日本領海付近を航行している所属不明の潜水艦および共和国船籍へ告げる。私は近衛軍、鷹司霧姫である」
マイクに向かって名乗りを上げる鷹司。
その姿は凛々しく、雄々しい。
「貴艦らは日本国の主権を著しく脅かしている。我ら近衛は、貴艦らの行為を断じて許さない。早々に立ち去れ。さもなくば銀の波濤が落ちることになろう」
鷹司の圧力を込めた宣言が響く。
普通はこんな脅し、効果はない。しかし、声の主は鷹司霧姫だ。
共和国なら思い知るはずだ、つい数か月前も潜水艦を一隻沈められたばかりなのだから。
数秒、数分と過ぎ、
『潜水艦、並びに船舶が反転していきます』
「はぁ……」
直虎さんの言葉に体中の力が抜ける。
どうなるかと思ったが、どうにかなったらしい。
さすが、鷹司霧姫。潜水艦を沈めるだけはある。
『副長、お疲れ様です』
「ああ、あとは任せる。しばらく来られないよう尻に火でもつけてやれ」
『承知しました。榊殿も早くから失礼をしました。あとはお任せください』
「直虎さんもお疲れ様です。ご無理をされないように」
『心得まして』
微笑、敬礼と共に回線が切れる。
結局何もなかったが、疲れた。
「……凄いですね」
「褒めているのか? まぁ、あまり嬉しくはないがな」
「心の底から尊敬いたします。前のボタンがズレてなければ完璧なのですが」
「……? っ! う、うるさい、早く言え馬鹿が!」
鷹司は胸元を見てからボタンを直し始める。
ズボラで大雑把、細かいことが苦手な人だがこの時ばかりは頼もしく、格好よく見えたのだが――――。
「榊、見るな!」
「頼まれたって見ませんよ。それとも見てほしいんですか?」
「だから、こっちを見るな馬鹿者。減俸にするぞ!」
今は胸の内にしまっておくことにしよう。
◆
早朝の呼び出しから事後処理までを終える。
急な呼び出しだったので午前休をもらって本部を出た頃には朝日が昇り、空は青々と高い。
「疲れた……」
気疲れ、とでもいうのだろうか。
緊迫した状況に気を揉み、神経をすり減らしてしまったように思う。
身体を引きずるように寮へ戻り、ドアを開ければエプロン姿のノーラがいる。
「……ただいま」
「ヘイゾウさん!」
小さな体が胸の中に飛び込んでくる。
胸元への突進に息が詰まった。
「とても早いお出かけだったので驚きました。起きたらいらっしゃらなかったので、少し寂しかったです」
「すまない、仕事だったんだ」
「はい。さぁ、朝食の準備ができていますから、こちらへどうぞ」
「……ありがとう」
袖を引っ張られるように部屋の中へと連れ込まれ、椅子に座らされる。
テーブルの上にはコーヒー。
一口含めば自分で淹れたものより美味い。
「コーヒーは少し抽出温度を低くして、それを湯煎で温めてみました。どうですか?」
「あ、ああ、美味しいよ」
「よかったです」
疲れて帰ってきてから飲むコーヒーは至福といえる。が、違和感を覚えずにはいられない。
何かがおかしい……のだが、そのおかしさを考えるだけの余裕がない。
「食事はインターホンが鳴って……」
「出たのか?」
思わず前のめりになる。
しかし、見つかっていたらそれこそ騒ぎどころではないはずだ。
「いいえ。でも何回かインターホンが鳴って、ドアが開いたみたいでした」
「裂海だな」
反応がなかったので入ってみたのだろう。
さすがに寝室までは見なかったらしいが、危なかった。
「これをおいて、すぐに行ってしまったみたいです」
ノーラが指さす先にはルームサービスにでも使いそうな銀色のワゴンがある。
見つからなくて良かった。
朝から二重、三重に気を使い、夜のような倦怠感と疲れが押し寄せてくる。
「ヘイゾウさん、今日の朝食はフランスみたいです。クロワッサンにカフェオレ、ハーブがたくさん入ったオムレツもありますよ」
よくよく見れば、ノーラはごく短いショートパンツに半袖のシャツを着ている。
活動的なスタイルなのだが、エプロンが大きすぎて見方によってはエプロン以外着けていないように見えなくもない。
「? どうかしましたか?」
「…………いや、なんでもない。食べよう」
殿下は論外だが、ノーラは千景よりも大きいか。ついでにいえば、裂海よりもだ。
未発達の手足と胸部とのバランスがとれていない、気がする。
倫理に反しそうなのでなにが、とはいえない。
「いただきます」
合掌してからまずはクロワッサンを手にする。
少し千切ってから断面にバターを乗せ、マーマレードジャムを乗せてから口に含む。
バターの香りとマーマレードの酸味と苦みが混然と混じり合い、とてもおいしい。追いかけるコーヒーの余韻がまた至福だ。
「ヘイゾウさん、あーんして」
「んぐ!?」
ぼんやりしたまま言葉につられて口を開けば、スプーンを押し込まれる。
口の中に置かれたのは生ハムと、いちじくだ。
「どうですか? 私の国ではとてもポピュラー食べ方なのですよ」
「美味しい。少し意外な組み合わせではあるけれど」
「気に入っていただけて嬉しいです。アンドゥイエットとベリーの組み合わせもおいしいですよ」
「アンドゥ……?」
ノーラが差し出してきたのは見た目は普通のソーセイジ、口にすればやや癖がある。
独特の臭気、野趣ともいえる。そこに酸味のきいたベリーが加わって悪くない。
「初めての組み合わせだけれど美味しいよ」
「よかった。じゃあ、次は……」
次々と口元へ差し出される。
断りたいのだが、目を輝かせるノーラを前にするとできないのが実情だ。
「……やれやれ」
聞こえないようにつぶやき、口を開く。
大変な食事はしばらく続きそうだった。