四話
朝は清々しくあるべきだと思っている。
ピピピ、と耳なじみのある電子音で目覚め、
「ふあぁ……」
伸びをしてソファーから体を起こす。
柔らかなウォーターベッドではないが、しばらく我慢しよう。
「このソファーも十分柔らかいけどな」
サラリーマンの頃と比べると雲泥の差なのに、慣れとは怖いものである。
時刻は午前六時。近衛の起床時間としては少し遅い。
起き上がって湯沸かし器のスイッチを入れてからタオルを取って浴室へ行く。
季節は一〇月、少し肌寒くなってきているものの、冷水を浴びて寝汗を流す。
普段ならば腰にタオルを巻いただけで出るのだが、ここは遠慮したい。
「共同生活の礼儀だと思おう」
全身の水滴を拭い、髪にドライヤー、櫛まで当ててセットする。
普段は出勤前まで洗いざらしなのだが、この辺りは紳士を気取りたい。
着替えて出てきたころには湯沸かし器からは蒸気が上っていた。
「よっと」
棚からコーヒー豆とミルを出し、ごりごりと挽いていると小さな姿が寝室から出てきた。
「おはようございます、ヘイゾウさん」
「おはよう、ノーラ。コーヒーを入れるけれど飲むかい?」
「ありがとうございます。頂きます。あの、そのまえに、シャワー使ってもいいですか?」
「構わないよ。タオルはなかにある」
「ありがとうございます」
持参したと思しきパジャマのままエレオノーレこと、ノーラが浴室へと入っていく。
気にせず挽いた粉をフレンチプレスにいれ、熱いお湯を注ぐ。
するとタイミングを見計らったようにインターホンが鳴った。
食堂から出前が届いたらしい。
「どうも、ごくろうさ……」
「ヘイお待ち!」
ドアを開ければ、そこには裂海優呼がいる。
「何してんだ?」
「出前よ! どっかのアホがいっちょ前に部屋で食べるって聞いたからおばちゃんに代わって届けに来たの!」
薄い胸を張る姿にげんなりする。
しかし、即座に胃が痛むような緊張が背中からせりあがってくるのを感じた。
これは不味い。
「す、すまないな。ちょっと勉強があって、それで時間が惜しかったんだ」
「勉強? ヘイゾーが?」
訝しむような目つきをする。
その視線は部屋の中へと向いていた。
「なんだよ、気になるのか?」
「シャワーの音がする」
鋭い。
女とはどうしてこんなに鋭いのか。
しかし、ここで慌ててはいけない。下手を口にすればそれだけで大ごとになる。
「殿下だ。今朝方いらしてな、コーヒーをこぼしたんで入ってもらっている」
「ふーん」
「なんなら確かめていくか? 少しすれば出てくると思うけど」
招き入れるようなポーズをすれば、裂海は肩を竦める。
「お邪魔したら悪いからこれだけ置いていくね。でも、なんで勉強なんて始めたの?」
「京都でいろいろあったから、できることはやっておこうと思ってね」
「……ふぅん」
じろじろ見られる。
どうでもいいからさっさと帰れ。
「悪いな。そんなわけだから、しばらく朝だけは部屋で取る」
「いいわ。そういうことにしておいてあげる」
古風な木のおかもちを手渡すと、裂海は行ってしまう。
今のは危なかった。心臓が止まるかと思った。
妙な疲労感を引きずったまま部屋に戻ると、ちょうどノーラが浴室から出てくる。
「さっぱりしました……ヘイゾウさん、どうかしたのですか?」
「……なんでもない。コーヒーも入ったから、食事にしよう」
テーブルに皿を並べ、コーヒーをカップへ移す。
食事についてノーラから特にこだわりがないと聞いたのだが、初日ということもあって欧風をリクエストした。
パンにサラダ、卵にベーコン、オリーブの酢漬けにスモークしたニシンまでついている。
これは欧風というよりは英国式だ。
「すごいです。朝から豪勢なのですね」
「食事は充実しているんだ。どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
エレオノーレは十字を切ってからスプーンを手に取る。
俺は、裂海とのやり取りだけでおなか一杯だ。
「とてもおいしいです。ヘイゾウさんは食べないのですか?」
「いや、大丈夫。食べるよ」
コーヒーを一口含み、頭をすっきりさせてからサラダを口にする。
マッシュポテトにビネガー、タマネギ、黒コショウと塩。
さすが近衛の胃袋を引き受けるおばちゃんたちだけあって味付けは申し分ない。
薄切りのトーストはカリカリになるまで焼いてあり、そこに虫歯にでもなりそうなほどジャムを付けて口にすれば、これも悪くない。
糖分が脳に行き渡る感じがする。
「このキッパーは、とても本格的ですね。しっかりとスモークの香りまでします」
「料理人の腕は確かだからね。ここで食べ慣れると外食ができなくて困るんだ」
「日本は食べ物がおいしいから嬉しいです。ヒデオの家でアジの開きを頂いたけれど、あれもおいしかったです」
「ノーラは魚に抵抗がないのか?」
「そうですね……ないといえば嘘になりますが、食べてみたら平気でした。見た目は少しびっくりしたけれど」
「……そうだろうな」
真アジの開きがでてきたら、大概の外国人は箸を付けない。
慣れない人間からしたら見た目はかなりグロテスクであり、魚には見えないからだ。
「俺は行くから、昨日説明した通り部屋からは出ないように」
「ありがとうございます。ヘイゾウさんもお仕事気を付けてくださいね」
立ち上がるとエレオノーレは律儀にも玄関まで送ろうとする。
しかし、見えてしまったら一大事だ。そのままでいいと釘を刺して立ち上がったのだが、
「Gluck」
抱き着かれ、頬に唇が当たる。
日本にはない挨拶に面を食らっていると、ノーラは気にした様子もない。
「あら、挨拶ですよ?」
「……そうか」
頬の感触を気にしながら部屋を出る。
なぜか朝から疲れてしまった。
「はぁ、プライベートがないな」
少し前の京都といい、何かしらのトラブルとアクシデントのせいで一人になる時間が少ない。
「城山先生に別荘でも無心するか」
そんなことをぼやきながら一日が始まる。
日に日に高くなる空を見上げながら、そんなことを思うしかなかった。
◆
現在日本における皇族の仕事は主に三つ。
一つは外交。
他国との交流をすることで国益に寄与したり、国家間のやりとりを緊密にしている。
日本の皇族は伝統的に同じ統治システムのあった欧州やアジアの一部、特にシャム王国との関わりが深い。
二つ目は国民とのやりとり。
季節ごとに行われる園遊会や世界中にある大使館への職員派遣でも皇族が立ち合い、接見が行われる。なんのために、といわれれば労いだ。
国家の象徴である皇族に労ってもらうことで、これまでの努力が報われたと感じる人は多い。
勿論、そう思わない人間もいるが、大人になるほど自らを褒めてくれる人などいなくなる。
そんな中で園遊会に呼ばれる、接見が許されるということは国家から努力を認めてもらったことにも通じるからだ。
そして三つめ。
この三つめこそ、皇族の仕事で大きなウエイトを占める。それが宮中行事。
今日はその宮中行事が行れる。
「はぁ、こんな場所が御所の中にあったのですね」
大都会、帝都の真ん中だというのに、地面を照らす光は薄い。
「……これからむかうのは、きゅうちゅうさんでん、です。ふだんは、あまりたちよりません」
「宮中三殿……。名称だけならば伺ったことがあります」
「賢所、皇霊殿、神殿の総称だ。覚えろ」
後ろから鷹司に殴られる。
そう、今日は重要な儀式ということもあり鷹司や伊舞、鹿山翁まで同道している。
こんなメンツで固めていれば、俺なんて必要ないだろうに。
「なんだ、お前さん三殿は初めてか?」
「初めてもなにも、御所の中をこうして歩き回る機会なんてありませんからね」
「その割には日桜の部屋には出入りしてるって噂だけど」
比較的寛容な鹿山翁と、言い方にトゲがある伊舞の存在は頭が痛い。
二人とも実力者であり、近衛顧問の立場にある。いくら大隊長になっても頭が上がらない。
「あのですね、殿下の部屋に出入りしているのだって、休日にこのちんちくりん殿下が勝手に私の部屋までいらしたので、お送りして差し上げたまでです」
振り返り、緋色の袴と白い筒袖、それに黒い烏帽子姿という殿下の鼻をつまむ。
「殿下、どうしてくれるんですか? 私がまるで変質者扱いですよ」
「……ひはははりまふぇん」
と、ちび殿下は眉根を寄せる。
なんだそのリアクションは。まるで俺が原因であるかのようだ。
「それもこれも、完全休日にどこかのお花畑副長殿が殿下に部屋の鍵を渡すからです。お返しいただけますか?」
「……?」
文句を言ったはずなのに、ちび殿下が不思議そうな顔をしている。
そして、あろうことか俺の服に顔を埋めた。
「殿下?」
「……あまい、におい。さかきのと、すこしちがいます」
背筋が凍る。
いや、まさか匂いなんてしないはずだ。
そこで今朝方、ノーラに抱き着かれたのを思い出す。
「で、殿下、お行儀が悪いですよ。そんなことでは、将来は副長のようになってしまいます。部屋はとっ散らかって、部屋の隅には下着の山を積み上げるようになったらどうし……」
破砕音がした方を向けば、地面に大穴が空いている。
振動で揺れた梢からは鳥たちが一斉に羽ばたき、空を埋める。
「榊、貴様は腐敗毒素でも死ななかったそうだな。どうだ、私の拳で命のもろさを体感してみるか?」
「いえ、滅相も、副長殿」
話は誤魔化せたのだが、鷹司が八重歯をむき出しで笑っている。
その形相は地獄の鬼でも裸足で逃げ出すだろう。
現にこの世の鬼である伊舞と鹿山翁ですら引き笑いを浮かべている。殿下の後ろにいた職員たちも青い顔をしていた。
「……さかき、きりひめもたいへんなのです。むりをいってはいけません」
めっ、とばかりに殿下が俺を諫めようとする。
いや、それでは何も解決しないのだが、きっとこのちび殿下は気づいてない。
「……きりひめにごめんなさい、してください」
「いえ、根本的な原因は……」
「……さかき」
「申し訳ありませんでした」
すべてが面倒になって鷹司に頭を下げる。
これで解決するなら、もはやそれでいい。
「頭を垂れろ、そして敬え新米が」
「はぁ、なるべく肝に命じるよう心掛けたいと熟慮したい気分です」
「二人とも意味が分からんぞ」
鷹司との子供のようなやりとりを鹿山翁に諭されつつ、鬱蒼とした森を進む。
すると、木々の合間に銅板葺きの屋根が見えた。
「それで、私たちはこれからどうするのですか。まさか、神事まで一緒というわけではありませんよね?」
「お前さんはこれからの勉強だと思え。副長は息抜きだ」
「あんまり根を詰めているものだから、少しくらいはいいでしょう」
「はぁ、お優しいのですね」
「……おしごと、してきます」
妙に気合の入った殿下が三殿の中へ入っていき、鹿山翁や伊舞、職員たちが続く。
入り口に副長と二人で残されてしまった。
「貴様、昨日の夜はどこへ行っていた?」
「……ご存じだったのですか?」
石畳に座った鷹司がこちらを睨め付けてくる。
俺が京都から戻って以降、鹿山翁と伊舞はこうして鷹司まで休ませるらしい。
「ご存じもなにも、記録が残っている。どこに行って、なにをしてきたかくらいは報告しろ」
「城山先生に呼ばれました」
「……厄介な。それで?」
さっさと話せ、とばかりに催促される。
ノーラのことも頭に浮かんだのだが、話したところでこの人の心労が増えるだけだろう。
「京都での事です。協力していただいた事業の推移や、朱膳寺家の方々について伺いました」
「それならば鷹司本体からも報告書が来ている。特に問題もなく、順調な推移をしている。なんの問題もない」
鷹司の本家も先の京都で起こった事件の尻拭いをしてもらっている。
京丹波でのタングステン鉱脈を含む掘削事業は鷹司家主導となり、城山英雄の後ろ盾が重なって今や関西経済界では台風の目となりつつある。
「帝都に戻った途端、連絡がなくなったといわれまして。やむなく馳せ参じた次第です。先に一報を入れた方がよろしかったですか?」
「いや、いい。それにしてもあの人らしい言葉だ。それで、何かあったのか?」
あった、とは言えない。
雉も鳴かずば撃たれまい。
「確認でしょう。私には貸しがある、それを忘れるなという警告に近いものでした。あとは……そうですね、来年の総裁選に出られるようです」
「なるほど、少し合点がいった。総裁選か」
鷹司が眉根を寄せる。
まぁ、嘘は言っていない。
「あのタングステン鉱脈は思った以上に量がある。収益の分配は本体に任せてあるが、それでも相当な金が城山先生のところに流れることになる。首相への具体的な道筋ができたといったところなのだろうな」
「そのようです。夏にお会いした時よりも体調は良さそうでした」
「本気だな」
鷹司が疲れた笑みを浮かべる。
近衛は相変わらず忙しい。
そして、それを統括する鷹司も相変わらずだ。鹿山翁や伊舞が気を遣うのも分かる。
「そら」
鷹司が懐から取り出した封筒を手渡してくる。
差出人は朱膳寺広重となっていた。
「宛名が貴様では届かない。巡り巡って私のところにきた」
「まぁ、死人に手紙は届かないですからね。見てもいいですか?」
「検閲はさせてもらったぞ」
「構いませんよ」
すでに開いている部分から便箋を取り出す。
そこには丁寧な字で感謝の言葉が綴られている。
どうなったのかと心配していたが、こうして手紙を貰うと自分がしてきたことが無駄ではなかったのだと思わせてくれる。
「退院……できたのか」
広重氏は退院し、今は千景と二人の生活に戻っているらしい。
タングステン事業は順調に進み、忙しくしていることが書かれていた。
体の不調はなく、むしろ以前よりも元気であることは俺にとっても嬉しい。
「……後遺症はなかったのが救いだな」
手紙には二学期の始まった千景のこともある。
以前はどこか斜に構え、あまり積極的ではなかった千景が様々なことに取り組み、そのなかで賞を得たことも触れている。
写真もあり、京都府知事とのツーショット写真もあったことは喜ばしい。
便箋を読み進め、最後の一枚に気になる記述を見つけた。
千景は夜中になると、思い出したかのように泣くことがあるらしい。
そして、俺の名前を呼ぶ、ともある。
「貴様、京都で何をしてきた?」
手紙を読んだであろう鷹司の言葉に、胃が締め付けられる。
別段、やましいことはしていない。
やましいことは――――。
「いえ、別に、何も……」
笑いながら便箋を封筒へ戻し、懐にしまう。
鷹司の視線は気にしないことにする。