三話
秋の虫が鳴く夜、殿下を寝かしつけて御所を出たのは二〇時を過ぎていた。
本部に戻り、車に乗り込んでから渋谷区松濤まで向かう。
遅れるわけではないが、ずいぶんぎりぎりになってしまった。
城山の邸宅に着いたのは時計の針が二一時を少し過ぎたあたり。着替える暇がなかったので私服だが、構いはしないだろう。
門の前には以前見た和装の女性が待っていた。
「九段より参りました榊です」
「……伺っております。どうぞ」
「恐縮です」
周囲を見渡せば門の前だけでなく、屋敷の塀に沿って人が置かれている。それもかなりの密度。
城山の邸宅は敷地がほぼ正方形をしており、一辺は五〇メートルほどある。間に立つのは一〇人は見て取れた。
「こちらです」
「ああ、はい。どうも」
警戒している。それもかなりのものだ。
敷地内を進めば、立派な中庭にも人影。ここまでくると尋常ではない。警戒どころか厳戒態勢に見える。
一瞬頭を過ったのは城山身辺でのトラブル。
政治家ともなれば敵も多い。政敵、暴力団や海外のマフィアも考えられる。
「どうぞ」
「失礼します」
数か月前と同じように廊下を抜けて奥まった座敷へと案内された。
そこには以前と変わらぬ姿の城山英雄その人がいる。
「ああ、榊君。ご苦労だったね」
「少し遅れてしまいました。ご容赦ください」
「構わないよ。無理を言ったのは私だ」
鷹揚に頷いて見せる。
鹿威しの音と虫の音以外聞こえない。そんな静寂の中で違和感を覚えた。
視線を感じる。それにわずかな息遣いも。
誰かが息を殺してこちらを見ている。
「少し顔色が良くなられたようですね」
「わかるかい? 君に言われてから酒を控えるようにしたんだ。来年には総裁選もある。私ももう一花くらい咲かせたくてね」
「出られるのですか?」
「これはまだ君しか知らない情報だ。話してはダメだよ?」
「め、滅相もありません」
いい歳のジジイが悪戯っぽく笑のは気味が悪い。
総裁選に出るとは、つまり首相を狙いにいくことになる。
城山はすでに七〇を越え、政治家としても高齢の部類。勝負に違いない。
「酒を控えたおかげで、この通り体調もいい。それに、京都の件で随分と手が伸ばせるようになった。これも君のおかげかな?」
確かに城山の顔色は良くなっている。
頬にあった黒ずみは消え、首の蚯蚓腫れもない。
高齢故に劇的な変化は少ないが、それでも健康状態は悪くないように思える。
そして、手が伸ばせるように、というのは関西方面における影響力だろう。
想像でしかないが、城山を阻んでいたのは京都三家を含む関西財界だとすると、一時的とはいえその影響力が落ちている今は好機ともいえる。
「僭越ながら、出馬される際は応援させていただきます」
「はっはっは。選挙権がなくても近衛第九大隊長の後押しは嬉しいものだ」
「……恐縮です」
時折混じる皮肉が強烈に響く。
先だっての意趣返しのつもりか、はたまたなにか思惑があるのか、これだから政治家は厄介この上ない。
「それで、本日はどのような御用向きでしょうか」
「うん、以前、君は私でできることならなんでもお手伝いします、といってくれたね?」
「……はい、申し上げました」
言った。確かに言ってしまった。
あの時の不安が今、現実になろうとしている。
外を見る限りでは護衛か、はたまた用心棒か。
まさか荒事か、と想像が行き来する。
「回りくどいのは好きではないんだ。君も気付いていると思うが……ノーラ」
「ノーラ?」
城山の声に導かれるように、座敷の奥、暗がりから小さな人影が浮かび上がる。
視線の正体、押し殺すような息遣いの本人だろう。
「……」
現れたのは紺色のスラックスに襟の付いたシャツ、帽子をかぶった子供、いや女の子。
驚いたのは帽子から覗く眼と髪の色だ。瞳の色は日本人のように真っ黒ではなくブラウン。
灰色がかり、先端にいくほど緑がかっている。かなり特徴的といえる。
パッと思い浮かんだのは北欧系のサーミ人。ラップランド地方に住む人たちは、たしかこんな灰や白の髪色をしていたが、彼らは碧眼だったはずだ。
であるのならば寒い地方に住む人種で該当する東欧系か、そこに近い人種だろう。
「この子はエレオノーレといってね。古い知人の孫にあたる。エレオノーレ、ご挨拶をしなさい」
「はじめ、まして。エレオノーレ……です」
身長は殿下と千景のちょうど中間、一四五センチくらいだろうか。
発音は拙いが、十分に聞き取れた。
「こちらこそ、私は榊平蔵と申します」
「さか……き、へいぞう?」
「ええ」
「とても、ひびきの良い名前、ね」
そこでエレオノーレは笑顔を見せる。
一つ分かったことは、エレオノーレと名乗る子が高い教養を持っていること。
欧米の上流階級では初対面でも名前を褒める。その方が印象が良くなるからだ。
褒められた方も悪い気はしない。リスクも少なく、リターンが大きい。
こうしたこを自然とできるくらい身についているのは相当といえる。
「ありがとうございます。エレオノーレも良い名前ですね」
「! Danke schon」
ドイツ系。しかし、アーリア人にしては色素が濃い。
やはり混血なのか。
「互いに第一印象は悪くなさそうだ。うん、よかったよかった」
城山の笑みにこちらとしては不信感が出てくる。
この人は一体何をさせたいのか。
「実は榊君にお願いがある。ノーラを少しばかり預かってくれないかな?」
「預かる? わ、私がですか?」
唐突な、それも無警戒の方向からの言葉に面を食らってしまった。
「君も屋敷の警備を見ただろう? あれもノーラのためなんだが、こうも物々しくすると今度は私の周辺が騒がしくなってしまう。しかし、彼女は大事な大事な友人の孫だ。無下にもできない」
「それでしたら私でなくとも他に方法があると存じますが……」
「君がいいんだ。信頼できるし、何よりも安全が保証されている。この国で近衛に喧嘩を売れる輩はいないだろう? 私としては最も安全な場所に置きたいと思ってね」
「お待ちください。まず私が預かることの難しさは城山先生もご存じのはずです。その上でも……なのですか?」
「その通りだ」
政治家の宣言に眩暈すら覚える。
城山英雄は保守派の政治家、それも皇族支持の筆頭。
当然、近衛についての重要性や機密性も熟知している。
なのに、無理を押し通そうとするというのはよほど、と考えていい。
「理由をお聞かせ願えますか?」
「聞かない方がいい。聞けば、ただ匿うだけではなくってしまうよ?」
「……無理を仰るのですね」
思わず歯噛みをする。
「君はただ引き受けて、近衛寮に匿ってくれるだけで構わない」
「私が伺わず首を縦に振るとお思いですか?」
「思っていない。だからこうして頼んでいるんだ。君の部屋はたいそう広いそうじゃないか」
「…………よく、ご存じで」
城山は引いてくれない。
妙な話だ。友人の孫を匿うのに、これだけの警備を敷いているのは重大な何かがある。しかし、
「……」
エレオノーレが不安そうな眼で俺と城山を交互に見ている。
当然といえば当然か、自分の身の振り方が決まるのだから、気が気ではないだろう。
「……一つ、質問をさせてください」
「なんだね?」
「彼女のご家族は? どこの国かはわかりませんが、異国の地に一人にするというのはいただけません」
「ふむ……そうだね。どこまで話すべきか」
城山が顎をさする。
どこまで、というあたりで問題が根深そうだ。
「数か月前から東欧を中心に、中央アジアで民主化運動が起こっているのは知っているね?」
「ええ。今日もニュースで放映されていました。夜明け、と呼ばれているらしいですね」
「彼女はそうした民主化運動のさなかに国を追われたんだ。彼女のご両親は国の要職にあってね。父君は国に残られたが、母君と彼女で隣国に逃れた」
「……難民というわけですか。母君は?」
「心労が祟ったのか、体を悪くされてね。しかし、それが良くなかった。今は……いらっしゃらない」
「……そう、ですか」
城山の口調は真摯であり、哀愁を誘う。しかし、相手は政治家だ。
親族が没した夜にだって献金パーティーを開くような人種、油断はできない。
「君も知ってのとおり、我が国は難民を受け入れない。そこで私の伝手を使って米国への難民申請を行っている。匿うのはその間だけで構わない」
「……先ほども申しましたが、私である必要性がありません。私も大隊長となりました。相応の責任もあります」
「京都での件もあるのにかね?」
城山が目を細める。
それを持ち出されると苦しい。
「千景君は元気でやっているよ。広重さんもだ。二人の将来も心配だとは思わんのかね?」
「先生ともあろうお人が脅しですか?」
「いやいや、真摯なお願いだ。それに」
城山がエレオノーレに目をやる。
「国をでて一人、少しは可哀想だと思わないかな?」
政治家の圧力と、なによりエレオノーレの寂しげな瞳が刺さる。
殿下や千景を見てきた身としては、この年頃の視線は痛い。
「…………わかりました」
「おお、引き受けてくれるか。ノーラ、よかったな」
「はい!」
こうなれば折れるしかない。
根負けもいいところだ。
どちらにせよ千景を出された以上、断ることはできない。
「匿うのは承知しました。ですが、いくつか条件を付けさせていただきます。ご存じのとおり、近衛は施設全体が高い機密性を有しています。違反すれば私も相応の覚悟が必要です」
「分かっている。万が一の時は私からも口添えしよう。勿論、責任も取る」
「……結構です」
ため息が出る。なぜかどっと疲れた。
「榊さん」
「ん?」
気が付けばエレオノーレが傍にいた。
正座している俺の顔を覗き込むようにして眉根を寄せている。
「ごめんなさい。でも、いい子にしますから」
「平蔵で結構ですよ」
「っ! ありがとう、ヘイゾウさん!」
抱き着かれる。子供にされても嬉しくない。
どうやら平穏な日々はまた遠ざかってしまったようだ。
◆
「早まったか……」
安易に了承したのは失敗だったかもしれない。せめて一晩くらいは考えればよかった。
そんな現実に気付いたのは、エレオノーレを伴って近衛寮まで戻ってきた頃。
入り口と寮、二つの検問をくぐり抜けたあとだった。
「……ぷは、もういいのですか?」
「ドアを閉めてからにしてください」
二人羽織りよろしく、背中から顔を出したエレオノーレを咎めつつ、部屋のドアを閉めて鍵を掛け、ついでにチェーンロックまでする。
これで不用意に忍び込まれることなどないはずだ。
「もう結構ですよ」
「ん……しょっ、と」
身じろぎをしてエレオノーレが床に立つ。
「ここがヘイゾウさんのお部屋? とてもステキですね」
「お褒め頂き恐縮です」
言葉だけで返しつつ、固まった背中をばきばきと鳴らす。
車の検問だけならばまだしも、近衛の敷地内を歩くにはかなり厳重な検問が待っている。
それを大隊長権限だけでやり過ごすのはさすがに気が引けた。
「どこでも好きなところへお掛けください。今、飲み物をご用意しますから」
「ありがとうございます」
エレオノーレは素直に返事をするとリビングの椅子に座る。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、グラスを指に引っ掛けてエレオノーレの前に座った。
ボトルのキャップを捻れば音が鳴る。グラスに注ぎ、目の前に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきますね」
エレオノーレは両手で受け取ると、躊躇いもなく口に含む。
「おいしいです」
必ず礼と感想を口にする。
やはり、かなりの教養と知性を伺わせる。
身分卑しからず、といったところか。
「あの……」
「なにか?」
「わたし、本当にここにいていいのでしょうか。ヘイゾウさんの迷惑にならないですか?」
「良くはありませんし、正直申し上げれば迷惑です」
「っ!」
本心を隠さず率直に答えると、小さな眼に大粒に涙が溜まっていく。
話は最後まで聞いてほしい。
「ですが、一度お約束をした以上、反故……つまり約束を違えることはありませんので、ご安心ください」
「……でも、今、迷惑と……」
「少し考えればお分かりになるかと存じますが、それも含めて承知いたしました。ですので、ここからは私の言葉に従って頂きます。よろしいですね?」
そこでエレオノーレは大きな深呼吸をする。
お子様相手に気を使いすぎてもなんなので、ここは最初に主導権を取らせてもらう。
これでお転婆だと手が付けられない。
「ヘイゾウさんは……とても誠実な人なのですね」
「変に納得していただいても困りますが、おおむねそのようにご理解ください」
嘘は言ってない、嘘は。真実とも言い難くはあるが。
「貴女をここに匿うにあたり、問題がいくつか存在します。さしあたり、私が思う問題と貴女が感じる問題、このすり合わせを行っていきます」
「わかりました。どうぞ進めてください」
「結構です」
エレオノーレの首が縦に動くのを見届けてから、咳払いをして切り替える。
「一つ目の問題です。城山先生からある程度は伺っていると思いますが、近衛の存在をどこまでご存知ですか?」
「皇族専門の護衛組織。欧州における聖ジョージの様な存在と伺いました。表向きは尊敬される騎士であり貴族。でも裏の顔は人を超越したものである、と」
「知識としては問題ありませんが、その聖ジョージとは、聖ゲオルギウスですか。そんな高貴な存在と同列にされても困りますが……」
「えっと、そちらではなくて、現欧州の安全保障担当官であるニールセン卿です」
「ニールセン?」
「ヘイゾウさんはジョルジオ・エミリウス・ニールセンを知らないのですか?」
互いに認識がちぐはぐだ。
どうにも俺の方がものを知らないらしい。
「失礼しました。私はそちらの方は詳しくありませんので、ご教授頂けると幸いです」
「……」
そこでエレオノーレにまじまじと見られてしまう。
早くも付け焼刃が露呈してしまったが、これはこれで仕方ない。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということで自らの戒めとしよう。
「えっと……アレクサンドル・メドヴェージェフのことはご存じですか?」
「アレクサンドル……雷帝のことですね」
雷帝はロマノフ連邦の守護者にして絶対の破壊者、雷を操る存在。
過去には鷹司と引き分け、数か月前には鹿山翁とぶつかっている。
そこでようやくピンと来た。
名前までは知らなかったが、欧州連合にも海外版覚めたものがいたことを思い出す。
それ例のジョルジオ・エミリウス・ニールセンなのだろう。
「話を戻しましょう。近衛への認識は聖ジョージ卿と同じで構いません」
「私こそ紛らわしい言葉を使ってしまいました。ごめんなさい」
「いえ、私の知識不足ですので、お気になさらず」
互いに頭を下げあう。あとでニールセン卿のことも詳しく調べよう。
気遣いができるという点では今のところ合格点だ。あまりに突飛だったらどうしようかと思ったが、そういう危険性も薄そうではある。
「私を含めた近衛は、日本の最重要機密を扱う人間です。城山先生も仰っていましたが、そういった意味ではこの寮は非常に高いレベルでの機密性が保たれています。侵入できる人間や組織は皆無といっていいでしょう。そういった意味では安心してください」
「ええ、世界中、どの宮殿や王宮よりも頼もしいと伺いました」
「しかし、裏を返せば貴女という存在は異物です。注意していただかなければ私を含めていくつもの首が飛ぶでしょう」
手を首に充て、二~三度叩いて見せる。
欧州も断首文化があるので意味は通じるだろう。
バレたら城山に泣きつく以外、方法がない。
「ごめんなさい」
エレオノーレが頭を下げる。
「いえ、先ほども申し上げた通り、それを承知で引き受けたのです。この部屋に限っては自由にしていただいて構いません」
「ありがとうございます。とても助かります」
はにかむように笑う姿は髪の毛の色と相まって真夜中に咲く白百合を思わせる。
実に可憐だ。
「続いての問題点となってくるのは貴女の身の回りです。この寮には衣類専門のクリーニング業者が出入りしているので、洗濯機や乾燥機がありません。必然的に手洗いをしていただくことになります」
「心配しないでください。家事は得意なんです」
「結構です。あとは、食事ですが……」
しばらく回収業者には気を使わなければならない。
なにせ、いつもは勝手に部屋に入ってもらっている。
明日からは廊下に出しておくことにしよう。
食料品を買ってもいいのだが、これまで近衛食堂を利用してきた手前、急に切り替えると怪しまれる。いや、万が一にも怪しむ奴なんていないのだろうが、ここは念を入れたい。
「毎朝、食堂から出前を取ることにします。食べたいものをリクエストすれば大概のものは作ってくれるでしょう。朝多めにとって、昼はあまりものとなります。夜は極力間に合わせます」
「あなたはそれで大丈夫なのですか?」
「近衛となれば食べる量が増えますので、貴女一人分くらい増えても問題ありません」
エレオノーレが驚いたようにこちらをみている。
引き受けた以上は不自由はさせない。
なにもこれはエレオノーレのためだけではなく、城山を介して朱膳寺千景や広重氏の存在があるだからだ。
「一つ聞いていいですか?」
「お答えできる範囲でしたら、なんなりと」
「あなたとヒデオとは、どういった関係なのですか?」
幼女の真剣ともいえる言葉に、少し困る。
あの政治家との関係を問われるのは、とても難しい。
打算と口にするのは簡単だが、恩も義理も、少なからず弱みも握っている。
今件も城山にとっては弱みでしかない。
「……志を同じくするもの、でしょうか」
「こころざし、ですか?」
「おそらく、になりますが。私も判断しかねるところです」
曖昧に笑う。
国を憂い、人の行く末を案じる。俺の場合は大勢の人というよりは殿下や千景の、だが。
城山はかつて欲しいものは信頼である、といった。
ならば信頼とは、なにをするものか。
上に立つ、それもお山の大将ではなく一国を統べるものにとって不可欠な要素である。
信じて用立てるは容易い。
しかし、信じ、頼ることは自らの一部を任せることになる。
一部、とは金や物質的なものではなく、時には命までを含むことになるだろう。
「ヒデオとあなたは互いを信頼をしているのですね」
「……ええ」
少し難しい言葉だが、そういうことになるだろう。
城山英雄が真に欲しているのは自らの信を確定的にする皇族という存在、すなわち陛下や殿下ということになる。
そういう意味では、信頼に足る存在といえる。現時点では。
「エレオノーレ、私からも一つ質問があります」
「? なんでしょうか」
「貴女と城山先生の関係です。あの方は貴女を友人の孫だとおっしゃられた。しかし、それだけであのような厳重な警備を配し、あまつさえ亡命の手助けまで行うのは度を越している」
「ごめんなさい。それは、私にもわかりません。でも、ヒデオからはとても良くして頂いているわ。私も、お父様も、お母様も。お爺様は私が生まれる前に亡くなっているから、詳しくは……」
「そう……ですか。でしたら結構です」
何か事情があるといったところなのだろう。
そのあたりは追々か。
「それではエレオノーレ、しばしご不便をおかけしますが、御辛抱を」
「お世話になるのだから、私のことはノーラと呼んでください。あなたの方が年上なのだから敬語も嫌ですよ?」
「分かったよ、ノーラ。俺のことも平蔵で構わない」
「はい、ヘイゾウさん」
ノーラが笑う。
不安だらけの隠蔽生活ではあるが、仕方ないと思うことにした。