二話
千代田区九段にある近衛本部から電車を乗り継ぎ、やってきたのは板橋区。
車を出してもよかったのだが、そこは社会勉強である。
自動改札もSuicaも初めてだった殿下は終始ご満悦だった。
大隊長拝命から権限が増え、こうして自由に外出ができるようになったのは有り難い。
殿下も一緒なので周囲には護衛を配してあるが、なにもないだろう。
「……ゆうえんち、ゆうえんち」
目深にかぶらせた帽子、カジュアルな格好もあって周囲に殿下とバレた様子もない。
俺の服装も筒袖から京都で買った私服に戻した。これで普通の兄弟くらいには見えるだろう。
「お手をどうぞ」
「……はい!」
いきなり走り出されても困るので手をつなぎ、地下鉄を降りてからは住宅街を歩く。
殿下はきょろきょろしっ放しだ。
板橋区は帝都の北西部に位置し、隣接する埼玉県とともに古くから住宅地。
平日ではあるが道を歩く人の多さに、普段は御所の外へ出ることのない殿下は興味を隠せない。
「……ここにゆうえんち、ありますか?」
「ご心配なさらず。もう少しですよ」
歩くこと数分。
大きな道から逸れ、住宅地の間、細い道を入ると目的の場所が見えた。
「着きましたよ」
「……? ……こども? ……どうぶつ?」
殿下が首を傾げ、そしてこちらを見上げる。
こんな住宅街に遊園地などない。着いたのは板橋こども動物園。
「……ゆうえんちは?」
「遊園地の定義は遊具を備えた施設です。この場所は東板橋公園も併設されていますから滑り台やブランコ、砂場もありますよ」
「……にかいも、だまされました!」
「心外です」
殿下が頬を膨らませる。
鷹司からのオーダーは周囲から気づかれないこと、そして安全であること。
必然的に人があまり多くない方がいい。
殿下が想像していたテーマパークも平日は人が少ないことの方が多い。
しかし、人が少ないということは目立ってしまう。
俺が出した結論は大人が少なく、子供が多い場所。木を隠すなら森の中。殿下を隠すなら子供の中。
「……ゆう、えんち……」
「ほら、行きますよ」
俯く殿下を引っ張って園内に入れば、出迎えてくれるのは羊や山羊。小型ながら馬もいる。
「……ほ、ほんもの?」
「馬を見るのは初めてですか?」
殿下は惚けたように首を振る。
「……いいえ、ばしゃに、のったことがあります」
「では触ったことは?」
「……ありません」
板橋こども動物園には入場料はかからない。しかし、区が運営する施設なので職員がいる。
園内には柵が設けられ、園内には羊や山羊、馬のほかにフラミンゴもいる。
区の施設としては充実している。
「触れますか?」
「ええ。こちらをどうぞ」
柵の前にいた職員から餌付けのためのキャベツを受け取り、
「こちらをもって……そうです」
「……」
殿下がキャベツの葉を柵の間から出せば、たちまち動物たちが寄ってくる。
「咥えたら手を放してください」
「……」
自分の眼の高さと同じ位置で、めりめりと音を立ててキャベツが馬の口に収まっていく。
俺からすれば若干気持ち悪いくらいなのだが、
「……ほんもの」
「可愛くはないですね」
キャベツを咀嚼する間、首元をわしわしと撫でてみる。
俺に倣い、殿下も同じように毛に触れる。
「……もわもわ、します」
「そうですね」
近くで見ると馬の大きさ、毛並み、独特の臭気まで感じることができる。
殿下をここに連れてきた目的の一つは実物をみてもらうこと。
知識先行の頭でっかちは俺も含めてそれだけで実物を知っていると勘違いしてしまう。
ばふ、と馬が呼吸すれば鼻息で殿下の髪が散る。
瞳を大きくする殿下は、今まさに知識と実物のすり合わせをしていることだろう。
「……どうぶつの、におい」
「臭いですね。まぁ、生きていますし、まだ暑いですから」
季節は一〇月。朝晩は涼しいが、日中はまだ汗ばむ。
しばし動物たちに餌をやり、都内では珍しいフラミンゴに殿下は目を輝かせる。
板橋区は住宅地であり、保育園の数が都内でも群を抜いている。
同時に、情操教育にも力を入れており、こうしたこども動物園が区内に二、三ある。
他にも屋外の運動施設、屋内向けのスポーツセンター、図書館も多く、広い場所が確保できず、外で遊ぶことのできない園児たちを集めている。
今日もこのこども動物園には近隣から来たと思しき園児たちが引率の先生と大はしゃぎの真っ最中だ。
聴覚まで過敏になる覚めた状態には園児たちの超音波攻撃はなかなかきつい。
「さぁ、ここからが本番ですよ」
「……ほんばん、ですか?」
殿下の手を引いて建物の中に入る。
「……っ!」
殿下が息をのむ。
用意されているのは小動物とのふれあいができるスペース。
「どうぞ」
殿下を促せば職員のもとに駆け寄る。
簡単な説明を受けてから部屋の中に動物たちが放たれた。
悲鳴にも似た歓声、我らがちび殿下も瞳をまん丸くしている。
「……すごい、ふわふわ……です」
足元にすり寄ってきたウサギを殿下が撫でる。
小さな手には柔らかな毛の感触があることだろう。
「……かわいい、です。いいこ、です」
「あまり喉元ばかりを触ると齧られますよ」
「……さかき、すごく、かわいいです」
「私はここで結構ですから、存分にどうぞ」
ちなみに、俺は小動物の類があまり好きではない。
特にげっ歯類は嫌いだ。
なぜなら幼少期、友人の家で飼っていたモルモットに指を齧られ盛大に血を噴いた記憶がある。
「……うさぎさん、かわいい、ですね」
殿下とちびっ子たちは小動物を取り囲み、撫でまわしている。
動物たちも慣れたもので、餌をもらう限りは身じろぎしない。動くのは頬袋だけだ。
「どっちが観察されてるんだかわかったもんじゃないな」
ここまでくると冷静なのは動物たちではなかろうかと思ってしまう。
小一時間のふれあいを終えて、殿下は満面の笑みを浮かべている。
最初の不満などもう忘れてしまったらしい。
「さぁ、手を洗って食事にしましょう」
「……はい!」
時刻は夕方に近い。
殿下の手を引き、再び歩く。
◆
こども動物園を後にして隣接する公園の水道で手を洗う。
食事はコンビニで調達した。味は期待できないが、小腹を満たすには十分だ。
「……さかきは」
「はい?」
「……さかきは、どうしてこのばしょ、しっていますか?」
「サラリーマンだった頃、この近くに得意先がありました。このあたり一帯は公園が多いですからね。休憩にはちょうど良かったんですよ」
「……それで、ですか」
殿下はこくこくと頷く。
公園のベンチに腰掛け、コンビニで買ったサンドイッチをウサギのように食べながら、時折ペットボトルのお茶を飲む。
市販のお茶は外出時によく口にするが、食べ物は初めてだったらしくしきりに感心していた。
まぁ、皇族がコンビニで買い食いしようものならイメージダウンは免れないだろう。
バレれば、の話だが。
「……さかきは、それでたりますか?」
「いいえ、まったく。ですが、さほど必要ではありません」
俺も殿下と同じくコンビニで買ったおにぎりを食べている。
ちなみにまだ二つ目だ。護身用にと短刀を一振り隠し持ってきているので燃費は悪いのだが、護衛もいるので心配はしていない。
「遊園地ではありませんが、お楽しみいただけましたか?」
「……はい。うさぎさん、かわいかった、です。でも……」
「でも、なんです?」
「……さかきと……」
「私と、なんですか?」
殿下がもじもじし始める。トイレだろうか。
「……かんらんしゃ、のりたかったです」
「観覧車? ああ、あれですか」
「……はい」
殿下は残念そうにな顔で頷く。
それにしても、なぜ突然観覧車なのだろうか。
相変わらずドラマの影響かと疑っていると、
「……でーとには、かんらんしゃ、です」
「はぁ……、そういうものですか?」
小首を傾げる。
「……ちがいますか?」
「答えに困る質問ですね。一般的か、といわれると……うーん」
明確に答えることなんてできない。そんなの相手と場合による。
ドラマや映画、小説では題材として取り上げられるので、普遍的ではあるのか。
「……さかきは、ちかげちゃんと……でーとしましたか?」
「していません。買い物には行きましたが、色々ありましたから、それどころではありませんでした」
本当に京都では色々あった。
最初なんてストーカー紛いだったし、千景だって協力的ではなかった。
デートなんて余裕はない。
「……すこし、おこっています」
「今度はなんですか?」
頬を膨らませた殿下が俺の左手を取る。
「……さかきは、きょうとで……なにがありましたか?」
「前にお話しした通りです。朱膳寺千景様の護衛ですよ」
「……でも、さっき、おじいちゃんが……」
なるほど、道場でのやり取りを気にしているらしい。
まぁ、鹿山のジジイとの会話や、今の色々あった、という言葉から殿下なり推察したのだろう。
一つ分かったのは、鷹司は京都での報告書を殿下には見せていない。
読んでいてあまり楽しくはないものではある。俺としても読んでほしいものではない。
「色々とあったのは事実ですが、特筆してお話しすべきことではありません」
「……ちかげちゃんと……なにしましたか?」
「なに、とは?」
「……しつもんに、しつもんでこたえるのは、ずるいです」
「殿下の質問があまりに抽象的でしたので。私がお子様相手に何かするとお思いですか。それこそ心外です」
両手を広げて見せる。
しかし、殿下は先ほどのウサギのように頬を膨らませたままだ。
「……うそっぽい、です」
「嘆かわしい。人を疑ってはならないと仰ったのは殿下ですよ」
「……おとしめてはいけない、です。きょっかい、しないでください」
「今日はなかなか騙されませんね」
「……はなしたく、ないですか?」
一転、心配そうな瞳をする。
あまり隠し続けるもの無理はあるか。今は難しくても折を見て、少しずつ話そう。
清濁併せ呑むにはまだ早すぎる。
「もう少ししたらお話します。ですから、今は……」
「……わかりました。しんじます」
「ありがとうございます」
頭を下げると、小さな主君は頷いてくれた。
安心したのもつかの間、殿下はベンチの上で姿勢を正し、履いていたスニーカーを脱いで正座をすると、
「……ごほうび、です」
「何のですか? と、毎回聞くのが億劫になってきました」
素直に従う。
小さな太ももに頭を乗せ、ベンチでごろ寝状態だ。
殿下に気付かれないよう配置してある護衛たちからは顰蹙を買うだろう。
「……いいこです」
「左様で」
頭を撫でられながら真っ青な空と殿下の顔を見る。
暦の上では中秋を過ぎて空が高い。
このまま少し寝てしまおうか。ぼんやりと考えていると胸のポケットで携帯電話が震えた。
「殿下、よろしいですか?」
「……かまいません」
緊急の呼び出しであることも考えられるので、殿下も文句は言わない。
ごそごそと胸元を探り、取り出すと画面には知らない番号が表示されている。
ちなみにこの携帯電話は最新のスマートフォンである。
大隊長になってからは権限が増えてこうした電子機器も解禁となった。
もう必要とは感じなかったが、勧誘されるがままに買ってしまった。
「はい、榊です」
『城山です』
「っ!」
思わず言葉に詰まる。
まさか、この人からかかってくるとは思わない。
「お、お久しぶりです。先生」
『なかなか連れないじゃないか。偉くなると恩は忘れてしまうのかな?』
「ご冗談を」
膝枕をされながらも背筋が伸びる。
そんな俺の様子を殿下は不思議そうな顔で見ている。
さすがに聞き耳を立てるようなことはしないが、興味深そうではある。
『榊君、忙しいとは思うが、今夜あたり時間を作れないかな?』
「ええっと……」
ちらり、と殿下を見る。
この後、夜は殿下と近衛食堂で取ろうと思っていた。そうなると、少し遅くなる。
殿下がこちらの顔色を不安そうに伺っている。仕事だと思っているのだろう。
頭の上でころころと表情を変えられてもこちらが疲れるので自由になる右手を殿下の脇腹に当てる。
「……?」
訝しむ前にわしゃわしゃと手を動かし、殿下の脇腹を擽れば、小さな体がのけぞる様に動く。
「……っ! さ、さか……」
小さな手が抵抗しようとしても力の差は歴然、構わずわしゃわしゃする。
「先生、少し遅くなっても構いませんか?」
『構わないよ。無理を頼んでいるのはこちらだ。合わせるのが道理だろう』
「ありがとうございます。では、二一時前後にお伺いするかと思います。私に直接、ということは副長には話さない方がよさそうですね」
『君の長所は察しがいいところだ。鷹司君は生真面目だからね、あまり気を使わせると可哀想だろう?」
電話越しに城山が笑う。
確かに、あの人なら気苦労と気遣いで眉間の皺が増えそうだ。
「承知しました。ではお伺いいたします」
『ああ、待っているよ』
通話が切れる。
予定外だが仕方ない。殿下には少し早くお休みいただくことにしよう。
「……さ、さか……き」
「ああ、そうでした」
ずっと擽り続けていた手を止めれば、殿下がぐったりと背もたれに体を預けている。
やり過ぎたらしい。
「大丈夫ですか?」
「……わ、わるい……こ、です」
体を起こせば殿下は塩揉みされた野菜のようだ。
まぁ、疲れていただくにはちょうどよかったか。
「殿下、戻りましょうか。……殿下?」
「……」
返事はない。
苦笑いしつつ、今度は殿下を俺の膝に乗せる。
気軽なはずの休日だったのに、明日が妙に遠くなってしまった気がした。