意志
「えっ……そんな、どういうこと……?」
フェルトは、目の前の光景が信じられなかった。
フェルトが与えた薬草を飲んだ直後に、女将が吐血した。
フェルトが茫然と見ていると、女将はさらに、血ばかりでなく、胃の中のものまで床に吐き出してゆく。
びちゃびちゃびちゃっという水音とともに、汚物が床に広がってゆく。
「おい、大丈夫か、おい! ──フェルト! お前、何飲ませたんだ!」
熊のような体躯を持ったマスターが、のしのしと駆け寄ってきて、フェルトの襟元をつかみあげ、壁に押し付けた。
「あぐっ……こ、こんなはず……ないのに……」
宙に浮かされたフェルトの、その怯えるような瞳を見て、マスターははたと我に返る。
「すまん、取り乱した」と言って、フェルトを解放した。
フェルトは、けほけほと呼吸を取り戻しながら、しかし真っ青な顔をしていた。
フェルトが怯えていたのは、マスターに対してではない。
今起こっているわけのわからない事態に、彼は怯えていた。
「おいフェルト、これは一体、どういうことなんだ……」
マスターは女将に寄り添い、その背中をさすりながら、フェルトに視線を向ける。
フェルトを責めるような、しかし責めても仕方がないと理解はしているという、迷いに揺れた目だった。
「わ、分かりません……。僕、こんなこと……」
フェルトは首を横に振り、ただただ怯えた目で、苦しむ女将を見ていた。
逃げ場を探して後ずさり、しかし背中が扉にぶつかり、腰を抜かしてへたり込んでしまう。
「……くそっ! お前が分からないなら、誰か分かる奴はいないのか!? お前の師匠とか──」
「そ、そうだ! お師匠様なら、何か分かるかも……!」
「だったら頼む、早く聞いてきてくれ!」
「は、はいっ!」
フェルトは悲鳴を上げるように返事をして、慌てて部屋から出て行った。
そのまま宿を出て、街の入口の門へと走ってゆく。
「なんでっ……なんでなんでなんでっ……!」
フェルトは街中を人にぶつかりながら、あるいは惰性でよけながら、闇雲に走る。
その上空では、灰色の暗雲が太陽を隠し、世界を昏く染めあげてゆく。
──ダンダンダン、ダンダン。
山の中腹にある魔女の家の扉を、フェルトは必死に叩いていた。
「お師匠様! お師匠様、いないんですか!? お師匠様!」
「……なんだい、うるさいねぇ」
家の中から、くぐもった魔女の声が聞こえてくる。
フェルトが弾かれるように扉の前から跳びのくと、それから少しして、家の扉がゆっくりと開かれた。
そして中から、杖をつき歩く腰の曲がった老婆が現れる。
老婆はフェルトの姿を見て、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
「フェルト、あんたを送り出すとき、あたしが何て言ったか覚えてるかい。『一人前になるまで戻ってくるな』だよ」
「お師匠様、今はそれどころじゃないんです! 女将さんが……!」
「それどころも何も、あたしの知ったことじゃないよ。その甘ったれを直してから出直してきな」
「お師匠様っ! お願いします!」
「……ちっ、しょうがない、話だけは聞こうか。とりあえず中に入りな」
悲鳴のごときフェルトの叫びに、老婆のほうが折れた。
彼女はゆっくりと家の中に歩み入り、その後を少年が、まどろっこしそうについてゆく。
居間にたどり着くと、老婆はゆっくりと、椅子に腰かける。
フェルトは老婆が座り終えるのを待てずに、性急な様子で、事の次第を老婆に説明してゆく。
話を聞き終えた老婆は、一つ、大きくため息をついた。
「あの薬草はね、普段から少量ずつ摂取して、耐性ができている者に対してのみ薬になるんだよ。お前やあたしは、普段から料理に混ぜてあの薬草を体に入れていた。──でも、そうじゃない普通の人間には、ありゃ猛毒だよ。宿の女将だったかい? その女、二、三日で死ぬよ」
「そんな……じゃあ、どうしたら……」
「知るかい。お前がやったことだよ」
救いの方法を求めるフェルトを、老婆はしかし、冷たく突き放した。
それを聞いたフェルトは、今にも壊れそうな表情で、首を横に振る。
「でも……僕は、女将さんに元気になってもらいたくて……それで、あの薬草を取って来たんです……なのに……」
「なのに、何だい? それなのにこんな事態になるのはおかしい、かい? それとも、良かれと思ってやったんだから、それでどんな結果になっても、自分は悪くないって?」
「…………」
「なに、そう思いたいなら、思えばいいさ。あたしゃ止めやしないよ。これからもお前は、良かれと思うことをやって、結果に対する無責任を貫けばいい。ただし、その尻拭いにあたしを巻き込まないでおくれ。──さ、わかったら出て行きな」
「…………」
フェルトは生ける屍のようになって、ふらふらと魔女の家を出た。
扉を閉め、一歩、二歩と歩み──
「うっ──うわああああああああああああ!」
少年は、その場で大口を開けて泣いた。
空から雨粒がぽつりぽつりと降ってきて──その雨はやがてどしゃ降りとなり、少年の全身を容赦なくずぶ濡れにしてゆく。
フェルトは大雨の中、濡れるも構わずとぼとぼと山道を下りながら、考えていた。
──師匠が答えをくれるものだと期待していた。
自分が何をすればいいのか、師匠が教えてくれると思っていた。
見捨てられた。
その気持ちが、フェルトの感情を支配する。
けれど一方で、冷めた考えもあった。
このままどこか、誰一人知っている人のいない場所に逃げてしまおうか。
そうすれば、また最初からやり直せる。
どうせ師匠からは見捨てられたのだし、もう失うものなんて──
「……ひぐっ。どうして、どうして僕は……」
そこまで思考を回して、フェルトは自己嫌悪する。
自分のやったことで女将があんなことになったというのに、そんなことは知らぬふりで逃げようとしている。
自分だけ良ければそれでいいと思っている。
醜い。
自分の醜さに、うちのめされそうになる。
「……ううん、違う、まだ……」
フェルトは首を振る。
全部を捨てるには、まだ早い。
師匠は、女将は二、三日で死ぬと言っていた。
師匠がそう言ったのなら、きっと今日や明日はまだ生きているのだと思う。
まだ、すべてを諦めるには早い。
何かできることがあるかもしれない。
でも、何かってなんだ?
師匠すら知らない何かを、どうやって見つける?
──いや。
師匠は、その術を知らないとは言っていないのではないか。
『そんな……じゃあ、どうしたら……』
『知るかい。お前がやったことだよ』
知っているなら、教えてくれたってよかったと思う。
だからやっぱり、師匠は何も解決策を知らないのかもしれない。
でも、本当は知っているかもしれない。
師匠が解決策を知らないということを、はっきりと確認したわけじゃない。
それに、師匠はあれを猛毒だと言っていた。
毒であるならば、神官が使う神聖術に、たしか解毒の魔法があったはずだと思い出す。
寄進というのがどれだけかかるのか分からないが、お金の問題であるなら、やりようはあるように思える。
そうだ。
今日と明日、思いつく範囲でまだ何か、やれること、やっていないことがあるなら──
「……やろう。諦めるのは、それからだってできる」
まずは師匠に確認して、それでダメなら街に戻って神殿にあたる。
時間が惜しい。
すぐにでも行動しないと。
山道を下っていたフェルトは、立ち止まり、山の上を見上げる。
そして、魔女の家までの道のりを、再びのぼり始めた。
本降りだった雨は、いつしかやみ、葉からしずくが落ちるばかりになっていた。
空を見上げれば、雲の隙間から太陽の姿が垣間見えていた。
「お師匠様! お師匠様、聞きたいことがあります!」
フェルトが魔女の家の扉をバンバンと叩くと、やがて扉が開き、老婆が姿を現した。
老婆はフェルトの顔を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「いい面になったじゃないか。中に入んな。話を聞こう」
老婆はそう言って、家の奥に入って行った。