看板娘
「うう……どうしてもこれ、着なきゃダメですか……?」
更衣用の部屋の中から、扉越しに少年の声が聞こえてくる。
その扉の手前の廊下では、宿屋の若女将が期待に胸をふくらませ、少年の着替えが終わるのを待っていた。
「なに、着方が分からないの? あたしが中に入って着替えさせてあげようか」
「ち、違います! そういう問題じゃなくてっ!」
「ほれほれ~、早く着替えて出てこないと、中に入っちゃうわよ~」
「わあああっ! わ、分かりましたっ、着ます、着ますから入って来ないで!」
そんなやり取りがあって、しゅるしゅるという衣擦れの音がしばらく続いてから、更衣室の外開きの扉が、内側からわずかに押し開けられた。
そうしてできた隙間から、少年の栗色の瞳が外をのぞく。
「うう……着ましたけど……」
「はい、だったらさっさとお披露目する!」
宿の女将は、開きかけの扉を思い切り手前に引っ張った。
「うわっ、うわわっ……!」
つんのめるように廊下に飛び出した少年は、可憐なエプロンドレスとカチューシャを身に着けていた。
一般にはウェイトレスが着るような、女物の衣装である。
「うっわ、犯罪的に可愛い……! やっぱりあたしの目に狂いはなかった!」
しゃがみ込み、自分の身を抱くようにして、涙目で女将を見上げるフェルト。
その少年の両肩に手を置いて、鼻息を荒くして興奮する女将であった。
「うう……どうして僕がこんな格好……」
「大丈夫よフェルト、自信を持ちなさい。あんたならこの街で一番の──いいえ、きっと世界一の看板娘になれるわ!」
「だから何で僕が看板『娘』なんですかぁっ!」
「そりゃああんた、うちの酒場に看板娘がいないからよ。酒場って言えば看板娘。常識でしょ?」
「女将さんがやればいいじゃないですか!」
「あたしゃもう『娘』って歳でもないし。それにそもそも厨房があたしの主戦場だから、給仕ばっかりってわけにもいかないのよ」
「僕だって『娘』っていう性別じゃないです!」
「まぁま、細かいことは気にしなさんな。可愛けりゃ何だっていいのよ」
「うう……もう何を言っても無駄なんですね……」
「ん、よく分かってるじゃない♪」
宿の女将が、フェルトを雇うために出した条件──それは、フェルトにウェイトレス用の服を着て、酒場の「看板娘」をやってほしいというものだった。
フェルトは当然渋ったものの、寝食の確保というやむにやまれぬ事情と、強引に服を渡して更衣室に押し込むという女将の力技とで、結局押し切られることになってしまった。
「……はぁ。分かりました、仕事なのでやりますよ」
それでも、引き受けた以上はしっかりやろうとしてしまうのが、フェルトという少年の哀しい性だった。
彼はこの日より、酒場の看板娘として働くこととなったのである。
「フェルトちゃん、こっち、エール二つ!」
「あ、はーい!」
「オーク肉の盛り合わせとサラダをくれ」
「えっ、あっ、はい! ちょっ、ちょっと待ってくださいね!」
「ほい、肉野菜炒め上がったよ! 四番テーブル!」
「はい! すぐ持って行きます!」
エプロンドレス姿にカチューシャを付けた少年が、ぱたぱたと酒場を走り回る。
夜の酒場は戦場だった。
そして、そんな懸命に駆けずり回るフェルトを見て、酒を飲みに来た客たちは一様になごんでいた。
「ああ、フェルトちゃんいいなぁ……」
「分かる。あの一所懸命な感じがいいんだよな」
「胸がないのだけが玉に瑕だよなー」
「バッカお前、フェルトちゃんはあれでいいんだよ」
客は誰も、ウェイトレス姿のフェルトを男だとは思っていなかった。
そしてフェルトには、客の一人一人に自分が男であることを説明して回るような暇は与えられなかった。
つまり、フェルトは今、完膚なきまでに看板娘だった。
「お待たせしましたっ、肉野菜の炒めものでっひゃあ!?」
テーブルに料理を運んだフェルトのお尻が、客になでられた。
どうにか料理をこぼさずに済んだのは、料理をテーブルに置いたタイミングを、その客が見計らっていたからだ。
「な、何するんですか!?」
フェルトは涙目になって、トレーを後ろに回してお尻をガードし、触ってきた客に抗議する。
しかしその客は、驚いたことに女性だった。
しかもフェルトと同い年ぐらいの年若い美少女で、さらには黒髪から猫耳を生やした獣人族の娘だった。
「キミ、フェルトっていうんだって? 可愛いねー。どう、今夜一晩、ボクと一緒に」
「──ひぃっ!」
そう言って、今度はフェルトのガードをかいくぐり、少年の腰に腕を回してくる、
見た目は少女でも、中身は完全におっさん──しかも相当タチの悪いタイプだった。
「……やめないかアディ。困っているだろう」
「ホント、アディの女好きはどうかと思うよ」
同じテーブルで飲んでいる二人の仲間から、助け舟が出る。
その二人も、人間ではあるが、獣人の娘と同じぐらいの歳の少女だった。
片や、金髪碧眼の真面目そうな少女。
もう一方は、褐色肌で銀髪の、ボーイッシュな印象の少女だった。
「まあまあお二人さん、硬いこと言わない♪ 可愛い子がいたら愛でるのは、ボクの義務だと思うんだ」
黒髪の獣人少女は、空いているほうの手の指先で、フェルトのあごに触れる。
発言と行動はエロオヤジそのものだが、その手は白魚のように綺麗であった。
そして、若い女性とまともに触れ合ったことのないフェルトは、そんな少女のスキンシップにもドキドキしてしまう。
「あ、あの……ぼ、僕……仕事に戻らないと……。それに僕、男です……」
「「えっ」」
フェルトの性別暴露発言に、金髪の少女と銀髪褐色肌の少女がぽかんとする。
しかし当の獣人娘だけは、ニヤリと笑ってみせる。
「うん、分かってるよ~。そんなのはおしりを触れば分かる話でさ。でも安心して、ボクは両刀使いなんだ。キミが女でも男でも、そんなのは些細な問題──」
そう言いながら、獣人少女の唇が、フェルトの唇に向かってゆく。
慌てるフェルトだが、腰を取られていて逃げられない。
やがて、両者の唇が触れ合いそうになり──
「──こぉらアディ! 早速フェルトに手出ししようとしてんじゃないよ! フェルトも! 仕事溜まってるんだからさっさと戻ってきな!」
「は、はいっ!」
厨房から顔を出した女将の怒鳴り声で、フェルトはどうにか、獣人少女の魔の手から脱出した。
「……ちぇっ、いいとこだったのに。じゃあフェルト、また今度ね~」
獣人少女はひらひらと手を振り、仕事に戻るフェルトを見送った。
同じテーブルには、頭痛いという様子でうなだれた、二人の仲間の少女の姿があった。
「つ、疲れた……」
酒場の営業時間という戦争が過ぎ去り、ようやく自由を得たフェルトは、与えられた従業員用の部屋のベッドにばったりと倒れ込む。
夕食は、営業時間中に隙を見て、急いでお腹に入れていた。
「……自分の力で生きるって、大変だ。……明日も……頑張らないと……」
疲れ切っていたフェルトは、そのまますぐに寝付いてしまった。
部屋の扉が開き、すぅすぅと寝息を立てる少年の姿を見て、優しげな笑みを浮かべた女将が、扉を閉めて去ってゆく。
少年が魔女の家を出てからの最初の一日は、こうして終了したのだった。