未来
毒竜の肝の一部を預かった老婆は、しばらくして、緑色の液体が入ったガラスの小瓶を持ってきた。
「これが解毒薬だよ。嬢ちゃんたちは山を下りて、すぐにこれを患者に飲ませてやりな。──ただし、フェルトはここに残るんだよ」
その老婆の言葉に、三人の冒険者の少女たちは不服の色を見せたが、やがてリザレットがぶんどるように解毒薬を奪うと、彼女たちは魔女の家を出て行った。
残されたのは、フェルトと魔女の二人だけ。
椅子に座ったフェルトと向かい合う場所にある椅子に、老婆が難儀そうに腰掛けると、ゆっくりとその口を開いた。
「さて……フェルトや、お前とこうしてゆっくり話すのも、いつぶりかね……。つい先日まで一緒にいたはずなのに、ずいぶんと前のことのように感じるよ」
「僕もです、お師匠様。この家を出てから十日ぐらいしかたっていないはずなのに、何だかすごくいろんなことがあって……」
「大きくなったよ、お前は。見違えるぐらいにね」
「……そうでしょうか?」
「犬みたいにあたしに尻尾振ってた頃とは、まるで違うよ。今はお前、どっしりして、自分っていうものがあるだろう。お前自身が、自分で生きるようになった証拠だよ」
「……はい」
「これからもツライことはあるだろうし、そのたびにお前は揺れるだろうけど、それでもきっと乗り越えられるさ。これだけの苦難を乗り切れたんだ、お前はそのことを誇っていい」
「──はい。……でも、まだ乗り越えられたわけではない、と思います」
「……その脚のことかい?」
老婆の質問に、少年がうなずく。
「はい。自分の選択の結果として、受け入れはしたんです。……でも、この体でこれから先、どうやって生きていったらいいか……僕にはまだ、想像できません」
「安心しな。さっきはああ言ったけどね──その脚は、治せるよ」
「えっ……?」
この老婆の言葉には、フェルトも意表を突かれた。
「治すって言っちまうのは、正確じゃないがね。譲渡、あるいは交換って言うほうが妥当か。いずれにせよ、限界解除の魔法を二度使ってその程度で済んだのは、不幸中の幸いだったよ。……フェルト、魔法をかけるよ、力を抜きな」
「……はあ」
フェルトは、狐につままれたような心持ちだった。
もう二度と自分の脚で歩けることはないと思っていて、その現実を受け入れようとしていたから、その覚悟がどこかに浮ついてしまった感じだ。
そんなフェルトに構わず、老婆は呪文を唱え始める。
「──我が持ちし全きものの一片を、彼の者へと──」
老婆が呪文を完成させると、彼女の体を魔力の輝きが覆い、その輝きがゆっくりと、フェルトの体へと移ってゆく。
それはやがてフェルトの全身を覆い、染み込むように少年の体の中に消えてゆく。
「……どうだい? 動けるようになってると思うよ」
老婆からそう言われて、フェルトは椅子から立ち上がる。
「……あれ?」
そう、立ち上がった。
何の気なしに、当たり前のように、自らの意思で脚が動いた。
「うわっ、うわぁっ!」
フェルトはその場でぴょんぴょんと跳ねる。
先ほどまでの状態がまるで嘘のように、まったく異常なく、少年の体は機能した。
「なんだもう、お師匠様! びっくりさせないでくださいよ! 一生歩けないだなんて、もう、もう~!」
「……ま、その状態を、あたしが引き継いだだけなんだがね」
浮かれていたフェルトが、ぴたりと動きを止めた。
少年の表情が凍り付く。
「えっ……? 今、何て……?」
「今使ったのは、健常なあたしの脚の状態を、お前に譲渡する魔法だってことだよ。あいにくと、代償なしに治癒するような魔法は、あたしの領分じゃないんでね」
それを聞いたフェルトは、表情を顔に張り付けたまま固まってしまう。
「な、何でそんなこと!? それじゃお師匠様は……!」
「……そんな顔するんじゃないよ。今回の件は、元々あたしが蒔いた種でもあるから、その分のツケを払っただけだよ」
「で、でも……」
「それにそもそもあたしゃ、もう長くないんだ。自分の死期はだいたい分かっていてね、あと一週ももてば上出来ってところさ」
「へ……?」
寝耳に水な言葉が、二度続いた。
師匠であり、自分を育ててくれた親でもある老婆の二重の告白に、フェルトの思考までもが停止しそうになる。
「というわけだ、そんな死に損ないのババァの脚と、先があるお前の未来とを交換できるなら、こんなに安い買い物もないってものだろう」
「嘘……お師匠様、もうすぐ死ぬの……?」
フェルトは、信じられないという面持ちで茫然とする。
しかし、その内容がイメージとして染み込んでゆくにつれて、少年の顔がふにゃふにゃに歪んでゆく。
「嘘……そんなの、そんなの……ひぐっ」
「ああもう、男がすぐにピーピー泣くんじゃないよ! そういう所はまだまだガキだね!」
「だって……だって……」
「ちっ、湿っぽいねぇ。……じゃあそうだね、一つだけ、あたしからお前に我がままを言っていいかい?」
その老婆の言葉に、フェルトは首を、外れてしまいそうなぐらいの勢いで縦に振る。
「あたしが死ぬまでの間だけ、あたしの面倒を見てもらえるかい。それで死に目を看取ってくれりゃあ、ババァとしてそんなに嬉しいことはないよ」
「うっ……そんなの、そんなの、やるに決まってるじゃないですかあああああっ!」
そんな泣きじゃくるフェルトを見て、やれやれと肩をすくめる老婆であった。
フェルトの師匠が作った解毒薬により、宿の女将の容体は急速に回復した。
薬を飲んだ翌日の朝には快癒しており、失った体力回復のためもあってもう二日ほど休んだが、それからは病床に臥せっていたのが嘘であったかのように、またバリバリと働き始めた。
ただ、フェルトはしばらく、宿で働くことはしなかった。
少年は、山の魔女の家で、彼女を助けながら暮らした。
そして、事件の日から一週間が経とうという頃に、老婆は静かに息を引き取った。
その日には、三人の冒険者の少女や、宿の女将とマスターも、一緒に老婆の最後を看取った。
「騒がしい見送りだよ」というのが、老婆が最後に残した言葉だった。
フェルトはその後、自らの手で、山の一角に魔女の墓をつくった。
それからまた数日が経った。
フェルトは再び宿で働き始めていた。
「フェルトちゃーん、こっち、ワイン二つね」
「はーい!」
「オーク肉のソテーをくれ」
「はい、かしこまりました! オーク肉のソテーですね」
「フェルト、シチューあがったよ! 四番テーブル!」
「はいっ、今持って行きます!」
エプロンドレスとカチューシャを身につけた少年が、酒場の中をバタバタと駆けずり回る。
フェルトが戻ってきてから客足が伸びていて、相変わらず目の回るような忙しさだった。
「お待たせいたしましたっ、たっぷりビーフシチューでっひゃあ!?」
テーブルにシチューを配膳したところで、お尻をなでられた。
フェルトはお盆でお尻をガードしながら、涙目で猫耳の少女を睨む。
「アディーラさん! いつもやめてって言ってるでしょう!? ただでさえ忙しいのにっ!」
「にゃははははっ、そこにフェルトのお尻があったら、なでずにはいられないんだ。ごめんね」
「ごめんね、じゃなああああい! まったくもう~!」
ぷんぷんと怒るフェルト。
だがアディーラはその少年の腰に腕を回して引き寄せ、少年の顎に手を当てる。
「わっ、うわっ」
「そんなことよりさ、どう、今夜一晩? ボクとくんずほぐれつのオールナイトを……」
「や、やめっ……」
同じテーブルでは、ウィンディとリザレットが、頭痛いというようにうなだれている。
そこに、厨房から顔を出した女将の怒鳴り声が響いた。
「こぉらアディ! フェルトに手出しするなって、何度言ったら分かんのよ! いい加減にしないと鍋にぶち込んで猫鍋にするよ! あとフェルトも、仕事溜まってる! すぐに戻ってきな!」
「は、はいっ!」
アディーラの魔の手から抜け出して、フェルトが仕事に戻ってゆく。
それを見守る、三人の少女たち、そして女将とマスター。
フェルトの汗が、酒場に散る。
ウェイトレス姿の少年の顔は、営業スマイルだけではない、爽やかな笑顔で満たされている。
そうして今日が終われば、明日が来て、明後日が来る。
少年の生きる道は、未来へと続いていた。