切り札
それは、フェルトが魔女の家で生活していた頃の、ある日のことだった。
老婆と少年は、山の一角の崖下、大岩がたくさん転がっている場所の前に来ていた。
「──さてフェルトや、あたしたち人間には、魔法を使う際には常にリミッターが掛かっているって話をしたのは覚えているかい?」
杖をつき、腰を曲げた老婆が少年に問いかけると、少年はこくりとうなずく。
「はい。確か、体内の魔力を操る『魔法』という技術は元々危険なもので、そのリミッターが掛かっていない状態で魔法を使うと、魔力が暴走して術者の身体や精神に甚大な悪影響を及ぼす恐れがある──なので、僕たちの体は、自動的にリミッターがかかるようにできている……とかでしたよね?」
「そうだ。あたしらは普段、そのリミッターがかかっているせいで、自身の潜在能力の三割の魔力だけで魔法を使っているわけだが──さて、これからあんたに教えるのは、そのリミッターを一時的に『外す』魔法だ。もっと安直に言えば、自身の魔力を一時的に爆発的に向上させる魔法ってことになるかね」
そう言って老婆は、たくさんの岩が転がっているほうへと、ゆっくり歩いてゆく。
その動きを目で追っていた少年が、素朴な疑問を口にする。
「でもお師匠様、そのリミッターって、外してしまって大丈夫なものなんですか?」
老婆はしかし、そんな弟子を振り向きもせずに、鼻で笑った。
「はんっ、大丈夫なもんかい。あたしゃこの魔法のせいで破滅した魔術師を、これまでに何人も見てきたよ。──だからねフェルト、この魔法を使うのは、本当に必要なときだけだ。それにこの魔法を使っていいのは、一日に一回だけだ。いいね?」
「は、はい!」
「よし。……まあ、この岩が手頃かね。これを火炎弾の魔法でどろどろに溶かすことができたら、合格だよ。日が暮れるまでにできなかったら、晩飯は抜きだ」
「ええーっ!?」
少年の悲鳴が、山に響き渡った。
「なっ……何だこの力……フェルトの力なのか……?」
リザレットは、杖を掲げ呪文を唱える少年から、恐ろしいまでの力の波動を感じていた。
少年はその栗色の髪と、身にまとう濃緑色のローブの裾をバサバサとはためかせ、肉眼で見えるほどの魔力の輝きを、その身から溢れさせている。
「──我が裡に眠りし魔の力……全てを解き、我が意に依りて集え……其は只ひと時の泡沫なれど、現世に与うるは真の理……」
「ギャオオオオオオオッ!」
フェルトの存在を危険と感じて、毒竜が咆える。
毒の吐息を受けて弱った眼下の二人の少女を、もはや見向きもせずに、わき目もふれずに少年へと襲い掛かってゆく。
その竜の動きは暴力的に速く──少年の呪文が完成するよりも早く、竜の鉤爪が振り下ろされた。
「──フェルトォッ!」
リザレットが叫ぶ。
竜の巨大な前肢が、少年の小さな体をずたずたに引き裂く未来を想像した。
だが──竜が振り下ろした鉤爪は、すんでのところで弾かれた。
それがフェルトの体に触れようとした矢先、何か不可視の障壁のようなものに撥ね飛ばされたのである。
そしてそれは、溢れんばかりの魔力が生み出す『余波』の仕業にすぎなかった。
そうして生み出されたわずかな時間で、フェルトの呪文が完成する。
「──灼熱の炎、紅蓮の矢となりて我が敵を討て──ファイアボルト!」
フェルトが掲げた杖の先に、燃え盛る炎の塊が生まれる。
その径はフェルトの顔の大きさと同じぐらいで、色は赤と黄色が入り混じったもの。
それは魔術師が使う、もっとも基礎的な攻撃魔法──火炎弾の魔法であった。
だがそこに、フェルトの魔力の本命が注ぎ込まれる。
「──リミット、ブレイクッ!」
ゴゥという音を立てて、炎の色が変わった。
赤と黄色の混合色であった炎は、中央部からより明るい白へと変わり、炎というよりもより純粋な力の塊のような姿になった。
燃え盛るのは火球の外延部ばかりで、本体はもはや、真っ白い輝きを放つエネルギーの球体である。
「うっ……ぐぅぅ……!」
フェルトはそのとき、自分の内側で暴れる魔力の奔流に自らがかき消されてしまわないよう、必死に制御をしていた。
暴れ狂う全開の魔力は、今にもフェルトの肉体を内側から食い破らんとしているようで、一瞬たりとも気が抜くことができなかった。
フェルトはその荒れ狂う魔力を、すべて目の前の火球に注ぎ込み──
「うああああああっ! いっけぇえええええええっ!!」
その火球が、毒竜に向けて発射された。
それは周囲のあらゆる音を巻き込み、かき消し──その一瞬、静寂が訪れたかのように思えた。
火球が、フェルトに咬みつこうとしていた毒竜の頭に着弾した。
竜の鱗が、肉が、触れた場所からただちに融けてゆく。
火球はそこに何らの障害もないかのごとく、竜の肉と頭蓋骨を溶かしながらまっすぐに進んでゆき──
ボッという音とともに、火球は毒竜の頭部を完全に消し飛ばし、そのまま空に消え去った。
残った竜の胴体は、三つ数えるうちにどうと倒れた。
「はぁっ……はぁっ……や、やった……?」
事を成し終えたフェルトは、いまだ自分の体の中でくすぶる魔力を持て余しつつも、ぺたんと座り込む。
「お……終わったん、だよね……」
そう茫然と呟くフェルト。
そこに、歓喜したリザレットが駆け寄ってくる。
「すっげぇえええええよっ! 何だよフェルト今の、お前!?」
「あはは……何とかなってよかったです。それより、ウィンディさんとアディーラさん、大丈夫でしょうか」
「そ、そうだ。──おいアディ、ウィンディ、大丈夫か!?」
そう言ってリザレットが二人の少女へと駆け寄る。
そこには、倒れた獣人の少女の前に座り、懸命に治癒魔法をかけるウィンディの姿があった。
「ああ……私は問題ない。アディーラのほうも、かなり危ないが、治癒はどうにか間に合いそうだ」
一時は膝をついていたウィンディだったが、彼女は竜の注意がフェルトに向いた瞬間から、全力で治癒に力を注いでいた。
ウィンディ自身の毒はすでに除去されていたし、アディーラも解毒は済み、今は失われた生命力の回復と負傷の治癒を行なっている最中だった。
「よかったぁ……。オレ、一時はどうなることかと……」
リザレットが、治癒を行なっている少女の前でへたり込む。
その瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
──そうして、この場にいる誰もが、この冒険がこれで終わりだと信じていた。
そのとき、ずちゃっと、何かの音がした。
リザレットが、ウィンディが──そしてフェルトが、音がしたほうへと振り向く。
フェルトはその絶望の光景を目にして、どくんと、心臓を跳ねさせた。
最初に毒竜が現れた沼の中から、もう一体の毒竜が姿を現し、陸地へと這い上がってきていた。