決戦
濃い霧の晴れた、『毒の湿地』の最深部。
冒険者たちは各々に、毒竜へと戦いを挑んでいた。
「一度こういう強敵と、戦ってみたかったんだよね!」
アディーラは左右の手に双剣を引っ提げ、沼から這い出したばかりの毒竜に向かって疾駆してゆく。
自らの何十倍もあろうという巨体を前にしても、怯む様子もなく、果敢と呼ぶには不似合いな不敵な面持ちである。
「──っとぉ!」
そのアディーラ目掛けて、巨体がその鉤爪を振るった。
獣人の少女は横っ飛びに転がって、上から降ってきた巨大な死の一撃を回避する。
湿地の地面はしっとりと濡れており、地面を転がった少女の全身はあっという間に泥だらけになった。
「……ちっと足場が悪いね。けどそんな言い訳、聞いてくれる相手でもなさそうだし」
泥んこになった少女は、しかしすぐさま、再スタートを切る。
ぬめる足場を強く素早く蹴り、三歩で最高速に乗った。
再び巨大な鉤爪が振り下ろされる。
しかしこれは、少女が体を横に流すことで、紙一重ながら余裕を持って回避した。
アディーラの眼前を、恐ろしい一撃が唸りをあげて過ぎ去ってゆき、さしものアディーラも額に薄っすらと冷や汗を浮かべる。
だが、二回の攻撃をかいくぐったアディーラは、今や竜の懐にもぐりこむことに成功していた。
「さあ、こっちの番だね──行くよ!」
アディーラは竜の足元に潜り込みながら、自らが目の前の怪物を倒す未来をイメージする。
一撃は重くなくていい。
小さくとも一撃ごとに切り傷を負わせ、血を流させる。
自身は竜の周囲を翻弄するように駆けずり回り、竜の全身を切り刻んでゆく。
あとは体力と、集中力の勝負だ。
血を流し過ぎた竜が力尽きるのが早いか、それとも自分が疲労で動けなくなるか、もしくは敵の攻撃を避けそこなって潰される早いか。
アディーラは一瞬、竜の牙に背中からかみ砕かれる自身を想像して、ゾッとする。
しかし、その悪い想像を、すぐに振り捨てる。
リザレットからの援護射撃もあるはずだから──きっとやれるはず。
少女は勝てるイメージを前面に押し出しつつ、竜の左の前肢に向け、双剣による攻撃を仕掛けた。
だが──
「んなっ……!?」
自らの剣の刃が竜の肉を食い破るというイメージは、あっさりと打ち砕かれた。
ギャリッという嫌な音がして、アディーラの振るった双剣は、ともに竜の鱗の上を滑ったのである。
アディーラの双剣はともに、魔力の宿った武器でこそないが、高名な職人が鍛えた高品質の剣である。
アディーラ自身の技量とも相まって、騎士の甲冑ですら断ち切りうると自負していた。
「くぅっ……!」
竜の前肢が持ち上がり、猛烈な速度で振り下ろされる。
アディーラは慌ててその場から飛び退き、再び泥の地面を転がる。
そこにさらに、小さな虫を踏み潰そうとするかのごとく、大木のような竜の肢による踏みつけが、次々と降り注ぐ。
アディーラはほうほうの態で、地面を転がりながらどうにかこの攻撃から逃れてゆく。
そうしてようやく竜の足元から逃れ出たと思い、一度後退して体勢を整えようと思ったところで、今度は背を向けた竜の太い尻尾が、横薙ぎにアディーラを襲った。
ぶんと唸りをあげ、地面すれすれを薙ぎ払うそれから、獣人の少女は持ち前の脚力で逃げようとして──
「あっ……」
ずる、と足元が滑った。
次の瞬間、アディーラの横胴を、竜の尻尾が薙いだ。
「がっ……!」
めきめきぼぎっ、と骨がへし折れる音がして、いったん『く』の字に折れ曲がったアディーラの小柄な体が、あまりにもあっさりと宙を舞った。
それは緩やかな放物線を描いて落下し、ごろごろと転がる。
「あぐっ……あっ……!」
獣人の少女は、地べたで苦痛にもがき、のたうち、吐血する。
「──アディ!」
フェルトを守るため、彼の前で防御姿勢をとっていたウィンディが、彼女の少し前方まで転がってきた親しき獣人の少女の姿を見て、たまらずに駆け寄った。
フェルトの切り札となる魔法は、呪文詠唱にかなりの時間がかかるということで、ウィンディはその警護役を買って出ていた。
しかし彼女にとって、目の前に起こった事態はそれ以上に、見逃せない重大事であった。
だが、回復魔法をかけようと駆け寄った聖騎士見習いの少女の前に、竜が巨体を揺らして迫る。
そして竜はおもむろに、その巨大な鉤爪を振るった。
ウィンディは、その白き大盾を身の前に掲げる。
竜の鉤爪がその大盾を襲い、ガィンという音ともに、全鋼鉄製の大盾に三条の大きな亀裂が走った。
「ぐぅ……っ!」
大盾を掲げたウィンディに、竜の爪によるさらなる猛攻が、立て続けに襲い掛かる。
ウィンディは的確に大盾を動かし攻撃を防いでゆくが、その五発目の攻撃を受けたときに、盾がバラバラに砕け、さらに盾を支えていた左腕が逝った。
「ぐっ……! ──はぁ……はぁ……」
ウィンディは、腕甲に覆われた左腕をだらりと力なく落とし、しかし右手の剣を構えて竜を見上げ、気丈に睨みつける。
早くアディーラを治癒してやりたいが、そのための回復魔法を使う余裕などは、与えられない。
竜から少しでも注意を逸らせば、ウィンディ自身がアディーラの二の舞になるのは明白だった。
──そのとき、その竜の首筋に、ドスッと矢が突き刺さった。
見ればほかにも幾本の矢が、竜の顔や上半身の付近に突き刺さっている。
「くそっ、動きを止めたときになら、中てなきゃいけねぇってのに……!」
少し離れた場所で、褐色肌の少女が悪態をつく。
リザレットは霧が晴れたのち、初手の矢からずっと、竜の目を狙って矢を放っていた。
しかし、不規則に動き回る竜の眼球をピンポイントで狙撃することは、一流の弓の使い手であるリザレットの手腕をもってしても、困難な仕事であった。
彼女がこれまで放った五つの矢はすべて、わずかに狙いを逸れ、竜の顔や首筋などに命中していた。
リザレットの剛弓は、毒竜の硬い鱗を貫いてその肉に突き立っていたが、いずれも浅く、それだけで十分な負傷を与えるにはまったく至っていなかった。
「ちっ、せめてこっちに注意を引き寄せられれば──こっちだっつってんだよ、デカブツ!」
リザレットは素早く次の矢を放つ。
しかしその矢も思い通りには的中せず、竜の頬とでもいうべき場所に突き刺さる。
そのとき毒竜の目が、リザレットのほうへと向いた。
リザレットは、しめたと思い、周囲を見渡して逃走の段取りを考える。
自分の足ならば、竜の標的と定められたとしても、すぐに捕まることは少なくともないだろう。
その間にウィンディの回復魔法で、アディーラの治癒が行なえれば、まだ状況の立て直しができると考えた。
しかし──竜はまるで、そのリザレットの考えを知ってあざ笑うかのように、再び眼下の負傷した二人の少女へと向き直った。
そして竜は、大きく息を吸い込む動作をする。
火竜であれば、灼熱の炎を吐く前の予備動作。
毒竜であれば、それは──毒霧を吐き出すためのそれであった。
湿地帯を覆っていたのとは比べ物にならないほどの濃厚な毒霧が、竜の口から吐きだされ、それは地べたで苦しむアディーラと、その前に立ちふさがるウィンディに襲い掛かった。
「あっ……あぐっ……か、はっ……」
「うっ、しまっ……げほっ、げほっ……!」
アディーラはさらに苦しみを増し、ウィンディはたまらず膝をつく。
「ふざけんなっ! こんな、こんなことで──!」
焦るリザレットが矢をつがえ、放つ。
しかし冷静さを欠いた射手の狙撃は、竜の胴に浅く突き刺さっただけに終わる。
竜の注意が、今度こそリザレットへと向いた。
そのとき──
──ぶわっと、周囲の大気が巻き上がった。
「なっ……!」
リザレットは、とてつもない『力』の波動を感じて、そちらを見た。
竜すらも、わずかに一歩後ずさり、波動の起点へと顔を向ける。
そこには──杖を掲げて呪文を唱える、一人の小さな少年の姿があった。