毒の湿地
フェルトたちが住んでいる街の西、数時間ほど歩いたところにある湿原地帯──通称『毒の湿地』と呼ばれるそこは、まるで別世界のようだった。
薄暗く、紫色の霧に覆われた広大な湿地帯。
草木は奇妙にねじくれており、ところどころにある紫と茶と灰色を混ぜたような色の水たまりは、ごぽごぽと気泡を吐き出し、瘴気のような色づいた気体を次々と生み出していた。
それまでは普通の湿原地帯であったのに、まるで境界線があるかのように、ある一線から急に景色の色合いが変わっている。
フェルトたちはその光景を、境界線を越える直前の場所から眺めていた。
「……たまんないね、これは。ボクたち本当に、ここを進んでいくの? なんか歩いてるだけで命が捥がれそうな雰囲気なんだけど」
さすがのアディーラも尻込みをしているようで、猫耳と尻尾をぴくぴくと震わせながら、そこに踏み入るのを躊躇していた。
「実際にも、そうだろうな。おそらくはこの霧、吸うだけで体に毒が回る……。かと言って、踏み込まないわけにもいかないが」
ウィンディがそう言って、白い重装鎧を鳴らしながら、先頭を切って霧の中に進もうとする。
聖騎士見習いのウィンディは、三人の冒険者少女たちの中では一番の耐久力の持ち主で、危険が予想される場所に足を踏み入れるときには、常に彼女が先陣を切るというのが、彼女らのパーティの半ば決まり事だった。
しかしそれを、彼女らの雇い主である少年が止めにかかる。
「待ってください。それだったら──」
フェルトはそう言って、杖を掲げ、呪文の詠唱を始めた。
「──穢れある大気、我が領域を侵すこと能わず、其は清浄なれ──ピューリファイ・エアー!」
フェルトの詠唱が完成すると同時に、掲げた杖の先から淡い光が落ちてきて、少年魔術師の全身を覆う。
そして、その光は徐々に周囲へと拡散していって、やがて霧散し消え去った──ように見えた。
それからフェルトは、紫色の霧が覆う地帯へと、歩を進めて行く。
すると、フェルトがそこに近付くにつれ、紫色の霧が部分的に、かき消されるように消滅していった。
フェルトが進むごとに、まるで彼の周囲数メートルほどの空間が不可侵の絶対領域であるかのごとく、霧が消えてゆく。
その様子を、三人の少女たちがぽかんと口をあけながら見ていた。
「うっわぁ……。フェルトってひょっとして、大魔術師だったりすんのか?」
銀髪褐色肌の弓使いが、フェルトの後ろを恐る恐るついて行きつつ、そう口にする。
「いえ、術者の周囲の空気を浄化するだけの魔法で、どちらかというと初歩的な魔法だってお師匠様は言ってましたけど……皆さん、あまり僕の周りから離れないでくださいね」
「お、おう」
フェルトの言葉に従って、リザレットは歩く少年の横にぴったりと寄り添うように、少年と肌を合わせる。
しかしそれに、少年は赤くなって、戸惑いの声を上げた。
「はっ、えっ……? あ、いえ、そこまで近くでなくても……」
「えっ、あれっ、そうなのか?」
「……はあ、始まったよ、リザの天然が」
慌ててフェルトの元を離れたリザレットに向け、獣人の少女がやれやれと肩をすくめる。
「……な、何だよ天然って。離れるなって言われたら、なるべく寄るだろ普通」
「いや、この状況見ればわかるじゃない? フェルトから五メートル以内ぐらいが安全圏だって。あ、それとも天然じゃないなら、可愛い可愛いフェルトに抱きつきたくって、わざとやっちゃった?」
「はあっ!? そんなわけねぇだろ! だいたい抱きついてはいねぇ! ……ちょ、ちょっと触っただけだ」
そう言って頬を赤らめるリザレットに、アディーラは獲物を捕獲しようとする肉食獣のような動きでにじり寄る。
「おやおやぁ? その言い草、ひょっとして図星かにゃあ? どうだった、フェルトの匂いとか、肌の感触とか? うりうり、愛いのう愛いのう──ふにゃっ!?」
「……あのなぁ、冒険中は少し緊張感というものを持てと、いつも言っているだろう」
リザレットに絡むアディーラを、聖騎士見習いの少女が首根っこを引っつかんで引きずってゆく。
しかし、そのウィンディの動きが途中でぴたりと止まった。
彼女は視線をしっかりと前に向け、アディーラを解放する。
「それに、お前たちがあまり騒ぐから、お客様のおでましのようだ。お相手するぞ」
「ようやくボクたちの出番ってわけだね」
「オレのせいじゃねぇ。アディが悪いんだからな」
ウィンディが大盾を体の前に構え、腰から剣を抜く。
アディーラは腰から二本の剣を引き抜き、左右の手にそれぞれ一振りずつ構える。
リザレットも、背から左手で弓を取り、右手では背の矢筒から矢を抜き取る。
フェルトが杖を構え、注意深く周囲を見渡すと──霧で覆われた薄暗い視界に、二つ一組の赤く輝く「目」が、何対も浮かび上がってくるのが見えた。