2、長い一日―2
思い出せばあんな状況は珍しい。それとも『テンプレ』君が巡り合わせてくれたのか? 余計な真似を……! 今度見かけたら……!
あれは丁度俺が電車から降りた時だった。そんなことを呟きながらそわそわとしつつも、少しこれから起こることに興味があった。
だがそんなときに硬崋に不思議な感触が襲った。
「ぐふっ……!」
後ろに乗っていたであろう女の子の苦い声。聞いたことのない声だった。
満員電車だったからな。何かされても仕方ないだろ。あんな声は聞いたことないが……。
そのまま硬崋は改札口に向かおうとしていた。もちろん、澄ました顔で。
「――待て! 腹パンやろう!」
誰かを呼び止めた。あの女の子だ。
腹パンをしたなんて酷い奴だ。いったい誰なんだ? そんな芸当なことをする奴は……! 仮に満員電車でもしていいことと、してはいけないことがあるってものを……!
目の前からサラリーマンが歩いてきた。サラリーマンは当然ながら声をあげた彼女。普通なら次にその呼び止めた人を見るであろう。
驚くべきことだ。あのリーマンは俺をみていた。
なんで……俺なんだ? 俺がそんなことをできるわけがない。きっと人違いだ。人生で俺は女性に腹パンなんてことやろうともしたこともない。まずやったとしたとしての社会的状況を冷静に考えている。
「は、腹パンやろう? 誰のことだ」
撤回しようと硬崋は振り返った。
そこには指をこちらに指しながら腹を微かに押さえている女の子がいた。
「あんたよ、あんたっ! 裏拳を私の腹に……よりにもよって朝食を食べて、三十分以内に……! おかげでやばかったわよっ!」
「どんな意味で?」と俺は緊張のあまりか咄嗟に出た言葉で尋ねていた。
「そ、そりゃあ……吐きそうで……。中のものが色々と......――って! ともかく! これはあなたに罰が必要よ! 当然よね?」
「罰? 俺はそれだけで罰なんかと、痛い目をみないといけないのか?! それともお前はどこぞのお嬢さまで権力には自信がある感じか?」
ここでいつもの『テンプレ』が出てくる。学園生活で最初に遭遇するヒロイン。そう、いつだってその彼女は権力が大きいお嬢さまで気品があるのもいれば、気高きことをけなされて怒る奴もいる。
この銀髪の彼女は……おそらく後者だ。そしてこの罰というのは……。
「ええ、そうですとも。今更、謝っても無駄です。この礼は……!」
彼女は俺の制服をみた。
悪寒が背筋を伝った。冷水を気づかれずに後ろからぶっかけられたような感じにゾクッとした。
この感じは……悪いぞ。
「へぇ……あなた。私と同じ学園ですか……。これは、これは……」
ただならぬ雰囲気。考えたくもない。だが決まって主人公が最初に出会うヒロイン。そしてそのヒロインに何をして、何をお返しに貰うのか。
そうだ。それは――
「あなたに決闘を申し込むわ!」
決闘だ。
だがこんな何もない世界で決闘と言ったら殴り合いか? それとも銃でも彼女が取り合って「撃ち合いま しょう……!」と不気味な笑みを浮かべてウエスタン風に撃ち合う……。それはないか。
そういえば彼女は俺のことを見ていたよな……。
「出たよ、決闘。俺は飽き飽きして……それってマジ?」
彼女の様子が変わらないことからことが本当であることを硬崋は悟った。
ここで今から向かう学園でのバトルが頭に浮かんだ。考えたくもなかった。
「本当も何も――それがこの学園の規則。決闘で地位を分からせるのがこの学校の……ってあなた何しているの?」
彼女は言った。
俺は当然のことをしていた。そう普通の人間としては当たり前で、自己防衛だ。
「なにって、危なっかしいから警察に電話してるんだよ。――あ! あの警察さん。あの……いま面倒事に巻き込まれまして……はい! ……はい! ……えっ?! そのことには介入できない?! それがこの世界の法律だ?! いつからこの世界の法律になったんだっ! ふざけんな! この税金吸いますポリスッ!」
怒りに任せて警察相手に言っていた。
言い終わり電話を切ると、彼女の顔が目に入った。その顔が今では憎らしく俺の目に映っていた。なんとも人を見下した目か。このお嬢さまに痛い目を見させてやりたいと思う人の気持ちがよく理解できた。なぁ……すぐにやられるモブキャラたちよ。
「どう? わかったかしら」
硬崋に言う言葉は一つしかない。それがこの世界のルールになっているのだ。ルールを破った者はどこだろうと、罰せられる。
俺は牢獄へは行きたくなかった。無駄な時間を過ごしたくない。
「……仕方ない。受けてやる。だが、その決闘。俺にも平等にできてるんだろうな……?」
ここは聞いておきたかった。
だってこの世界のルールだろ。不公平だったらおかしいからな。
「ええ、もちろん。使うものは様々、道具は並のもの。ただ…‥違うのが、己のステータスですので……」
彼女は俺から顔を逸らすと、フッと横目でみて笑ったように見えた。
「へっ、そんなのハッタリだ! 決闘したらお前は俺に負ける……! そのビジョンが俺にはみえるぞ!」
「さぞ自信があるんですね。これは楽しみです……!」
薄く笑った。まるで勝利を確信し、哀れに挑んでくる俺を嘲るように。
スタスタと彼女は硬崋の横を通り過ぎた。
甘い匂いが鼻腔を貫いた。その長い髪が動くたびに生まれる匂いに一瞬夢中になっていた。
ハッと我に返ると、彼女は愚か人波も本来の状態に戻り、硬崋に対する目線も気えていた。
時間も時間でいつの間にか余裕がなく、硬崋は元の通学路に脚を戻した。
改札口を飛び出るようにして通り抜ける。ここから学園までおよそ十五分。おそらくそれは信号機を入れた時間ではない。まずここから学園までに信号機が三つある。
どれも見張っている先生がいる。それは少しのミスも許さないということだ。優等生だろうと、少しのミスがあるだろうと学校側が設置したずる賢い罠だ。彼らは私服で通り過ぎる人の格好をしているが異様な気配から直ぐにわかってしまう。
なんたって往復しているのだ。怪しくてたまらない。今にも持っている電話で通報したい。
だがその時間さえ惜しかった。やっといま一つ目を通過した。
あと二つ。始業式まであと二十分。時間はあるだろ、と思う人もいるかもしれないが俺にとっては五分前行動が普通なのだ。そして今の状況、これはアウトだ。
走って二つ目を通り過ぎた。運良く切り替わった。
駆け抜ける間もこの学園の生徒を数十人と抜かしていった。目立つやつもいれば普通の高校生らしいやつもいる。 外見からして目が痛くなるやつもいたりする。ここでは特例らしい。服装は限定されているが、それ以外が自由だったりする。
なんというか、上には優しく下には厳しくという、社会人体験を高校生で出来るわけだ。
素晴らしい。って、素晴らしくねぇよ! こんな早くから味わいたくないわ!
そうするといつの間にか、最後の信号機に。ここを突破すればあとは直進するのみ。
しかし切り替わらない。今さっき切り替わったばかりなのか。
ここで硬崋は思った通り、切り替わるまでの一分半の時間を取られた。
切り替わると同時にスタートアップするランナーのように駆け出した。
油断していた。
俺は誰かとぶつかってしまっていた。
気が付くと両者尻込みして倒れていた。
「す、すみません!」
立ち上がると確実に悪いであろう硬崋が手を差し出し、転ばせたことを謝った。
手を差し出して気がついたが、女の子だった。背が小さく、童顔だ。その割に大人びた顔にも見えなくはない。
初等科の人間か。か弱い女の子に悪いことをしたな。
冷静に硬崋は自分の過ちを反省すると、女の子が口をあけた。
「いえいえっ! こちらこそすみません! 横から割って入ってしまって!」
「あ……そうですか。でも、それでも悪いのはこちらの方です。どうもすみません!」
正々堂々と硬崋は謝った。
彼女の声はやはり幼い。だが顔は大人びている。なんとも不釣り合いだ。
それにしても……横から入ったって……
彼女が走ってきたであろう左側をみた。
茂みだ。ここから彼女は来たのか?
「あ! 近道なんですよ! この学園広いですからね」
「ああ……そうですか」
とはいえ、こんな少女がよくそんなことを思いつく。ギリギリの時間慌てて草道から出てくるなんて。野獣に襲われてもおかしくない年齢だぞ。
「いつも……なんですか? この道を使うのは」
「そうですよ! いつもこの時間で、このルートで来てますよ! ……それより見ない顔ですね……。何年生ですか?」
訊いてくるのか。それより彼女は何者なんだ? 外見とは裏腹な質問だぞ。
それともあれか。知能指数が高いとかで釣り合わないのか。
「俺は……なんというか、今日から転入の――」
「室星くん!」
「――へ?」
変な声が出た。俺はそんなカッコイイ名前じゃない。
「室星くん……じゃないの? この学園に今日転入するはずの……」
「多分、他の転入生じゃないですかね。俺も一様そうですけど……もしかして先生ですか?」
「うん。そうだけど……まさか気づかなかったとか!」
と彼女はどこか嬉しそうだ。
これで七十過ぎのおばあさんだったら俺はこの記憶を消したい。まず女の子だと思った自分を蔑んで、そして全ての女の子に謝りたい。俺の認識は狂い始めたと。
どうなっているんだ、と硬崋は目をこすった。
目の前の光景は願わくも変わらない。これが現実らしい。いつからこんな二次元ぽく俺の次元は乱れたんだ?
「ま、まさか……! 私に気を持ったりして……! いやよ、そんなのっ!」
だが彼女は嬉しそうだ。声と外見があっていないのが違和感だが。
「それよりも大丈夫なの? 転入生だったらもうホームルームだけど……」
「えっ?!」
デジタル化した腕時計の画面を表示した。
時刻はなんと五分前。今にも胃が破れそうだった。こんな経験は中学の遅刻ギリギリの入学式以来だ。まるで似ている。違う。全く違う。融通が利かないのだ、ここでは。
硬崋は再び走ろうとした。先生の前だった。その前に感謝をいうことにした。イメージは大事だった。落ちた時のためにも。
「ありがとうございます! 先生。お名前を聞いても……?」
「あぁそんなこと! 私の名前はフミ先生よ! よろしくね、えっと……」
「硬崋ですっ。では――」
急におばさん臭くなったな、と内心思いその場を立ち去った。
そしてなんとか硬崋は、ギリギリ約束の時刻に間に合った。
ハァハァ……、と着いた途端に疲れがどっと脚にやってきて、体が熱くなっていた。持久走をしたような感覚だった。
「硬崋くん、か……。なるほどね……」
小柄な体でフミは硬崋の背中を見送った。
目は笑っているようにもみえ、暖かくも見えた。