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やっぱり疲れてたんだ。病院を出ると、急に体がぐったりしてきた。何だか気持ち悪くなってきて、吐き気を感じた。
「具合悪い?」矢和田が私の顔を覗きこんだ。
「少し」
「車で来たけど、敬、送ろうか」私は矢和田のコートの袖をつまんだ。
「嫌。一緒に居て欲しい」自覚してなかったけれど、私も相当、精神的に参っていたらしい。悲しみとか、疲労とかって、大きいほど後にくるんだった。
矢和田のマンションまで、車で三十分。矢和田の隣の助手席で、私は、ぼんやり、外の景色と矢和田を交互に眺めた。外は、大分薄暗くなっていて、いろんなお店のネオンライトが目立ち始めている。赤やオレンジの暖色系のネオンライトも、京都の寒い街中じゃ、寒色系のネオンライトと、何ら変わり無く見える。今は、何色の光も、みんな寒く見える。
こんな気分のせいだ。私はぼんやりそう思った。
矢和田のマンションの駐車場に着いた。ガレージは暗い。何台か、他の住人の車が停めてある。矢和田は丁寧に、バックで矢和田の駐車スペースに車を収めた。エンジンが止まると、辺りはしんとなった。
ドアを開けずに、矢和田が私の方を見た。無言。
「どしたの」と、私がちょっと笑って、きいた。
「今日はお疲れな一日だったな」矢和田がぽんぽんと頭に触れた。私の緊張の糸は、矢和田にあっけなく切られた。私はそのまま、矢和田の方に傾いて、矢和田の胸に顔をうずめて、声を出して泣いた。 そのまま、咳き込みながらでも、私は泣き続けた。矢和田はずっと無言で、私の隣に居てくれた。車のヒーターは、もう止まっていたけれど、全然寒くなかった。
矢和田の部屋は、ほっとする雰囲気で、好き。玄関の靴箱の上には、ひそやかに観葉植物が飾られている。奥の部屋で、私は灰色のチェアに座り、矢和田が着替えてくるのを待った。少し離れた机の上には、六法全書が一冊と、民法の本が何冊かあった。そういえば、今月は、民法を教えるって言ってたなぁ。大学教授も予習は大変だ。矢和田が、きめこまやかな模様が編まれたグレーのセーターと、深い蒼色のジーンズで帰ってきた。手に二つのマグカップを持って。レモンの穏やかで、さわやかな香りがした。矢和田はハチミツレモンをいれるのが上手。
「ありがとう」
「暖房、入れたばっかりだから、寒くないか」矢和田が隣に座る。
「あったまる、おいしい」ゆっくり飲みながら、大丈夫、と矢和田に返事した。
私は、香がどうして、ああなったのか、矢和田に話した。
おばさんからきいた説明は、こんな感じだ。
香が病院に運ばれたのは、昨日の夜中の十一時頃。病院に運ばれたときには、もう意識は無かったらしい。十二時頃、おばさんの家に、病院から電話がかかってきた。見多氏から、「香が今、救急センターで、措置を受けている」との電話が。香を病院まで運んだのも、見多氏。その日は、朝から一日中、雨だった。その夜、香と見多氏は、銀行で残業していたらしい。見多氏は一階で、精算額の確認を。香は二階で、書類の整理をしていたらしい。二階から、何か大きな音と一緒に、階段から、「何か」が転げ落ちる音がきこえたそうだ。すぐに音がした方へ行って、落ちた香を見つけた見多氏は、すぐに香を抱き起こしたが、香は、ぐったりして意識が無かったらしい。彼は、すぐに病院の救急センターに電話して、そのまま自分の車で香を運んだ。そして、病院に着いてから、おばさんに電話をした。
その夜、階段は雨の湿気で、ずいぶん滑りやすくなっていたらしい。
見多氏の銀行の階段は、かなり急だ。閉店した銀行は、使っている部屋以外、ライトは付かない。薄暗いオレンジ色の豆電球だけ。香は、薄暗い廊下で、ぬれた床に足をとられて、階段を落ちた。そして今、ICUに入っている。
「落ちながら、頭を強く打ったんだって」私は淡々と話した。
「そっか」矢和田がゆっくり返事する。
やりきれない。口には出さないけれど、私の頭の中は、それでいっぱいだった。
「今日は、もう、ゆっくり休もう」矢和田が言う。
「うん」私はうなずいた。今日はもう、これ以上考えても仕方ない。明日、またおばさんに会って、色々話もするし。
「泊まってく?」矢和田がきいた。
「いい? 明日朝イチでマンションに戻るから」
「いいよ、着替えはでかいけど」私はぷぷっと笑った。今日は、もう何も考えないで休もう。また明日だ。