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「詳しい話は、基本的には、家族にしか、しない決まりになってるんだよ」先生は、私が詰め寄る前に、予防線を張った。
「友達だけど。ごめんな敬ちゃん」
「知ってますよ」私は、はやる気持ちを抑えて、先生に微笑んだ。小さな絞りクッキーをひとつつまんで、残りのコーヒーをじっと眺めた。それを、カップごと、ゆらゆら揺らして、「すごくききたいですけどね」と軽く訴えた。ききわけが良さそうで、私はしつこい。
一秒の沈黙。
「先生、当たり障りのないところまでだけでもダメですか」
私は懇願した。
「大事な友達だから」だから、医者からの率直な見解をききたい。
先生は、しかめっ面で、何も言わず、香のカルテをその他のカルテの中に戻した。とんとんと、もう一度それらを、きれいに整頓して、そして、口を開いてくれた。
「俺から見て、布瀬さんが、今日、明日でどうにかなるっていうことは、今のところ、無いと思うよ」 全身の力が抜けた。安心からの脱力。
「布瀬さんに会った?」
「今日会ってきました、すごい、きれいなままだった」私は少し鼻をすすってから、先生に香の印象を答えた。
「うん、あれは、ほんと、珍しいと思うよ。呼吸も、正常に近いくらい安定しているし。内蔵の方もこれといって障害はないし」
「ということは、頭だけ、やられているっていうことですか」私は慎重にきいた。
「一番やっかいなところがね。昨日から、ずっと脳波を調べたんだけど」先生が言葉を止めた。私と先生の、間一メートルの空気が、すうっと冷めた。そして、ずしんと、重力が増したように、周りの空気が、私の肩にのしかかった。
「目覚める見込みが少ない」少し目を細めて、先生は言った。
私の喉が、こくりと、音を立てた。
「香の家族には?」
「さっき控室で話してきた。強いご両親だったな。『眠ったままの可能性も、目覚める可能性もあるんだから、まだ、この子を見守っていきます』って、即答したよ」
「あの家族は、私も尊敬してる」私は先生に言った。
言って、腕時計で、時間を確認した。そろそろ矢和田がこっちに着く頃だ。
「先生」ん、と先生は黒ぶちめがねの奥から、私を見た。私は微笑んで先生にきいた。
「医者の世界じゃ、香は面倒くさい?」先生は、少し右上に視線を移して、言葉を探しているようす。先生は言った。
「俺は、患者をやっかい者だと思ったことは無いよ」その言葉は本当だ。私は確信することが出来た。石詰先生は、稀にみる誠実な先生なんだから。
「ただ、今後の治療方針は、相談に応じて、どう変わるかは、俺には分からないよ。残念だけど、患者にとって、生きてる方が辛いときもあるだろう」石詰先生は、うなるように言った。私は小さく何度もうなずいた。うん、そうだね。私は言った。
「香にとって、一番いい治療をしてあげて」それが、何より大事だろう。
職員控室の前で、先生と挨拶をして別れてから、受付前に顔を向けたら、矢和田が見えた。手で「ここだよ」と、言っている。
「今の医者、香ちゃんの主治医?」矢和田がきいた。
「うん。石詰先生」私は、もうひとつ付け加えた。「それに、お父さんの生前の友達」
「へぇ。偶然だな」矢和田は、穏やかにそう言って、それ以上はきかなかった。私が、死んだお父さんの話はあまり、口にしたくないことを知っているから。私は、矢和田の気遣いに感謝しながらも、ひとつ、言えなかったことについて、少し胸を詰まらせた。