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院内に戻って、二人で、控室につながる廊下をゆっくり歩いた。晃君は、目がまた赤くなったけれど、さっきより、すっきりした雰囲気になっている。
「ぼろ泣きしちゃった」晃君が恥ずかしそうに言った。
「うちもさっき、香の前でぼろ泣きしたよ」私も晃君に告白した。おんなし、おんなし。晃君は下向き加減に少し笑った。
「今日は、姉ちゃんには、会わなかったんだ。明日は会って、励ますよ」
「うん、いいね」私は、晃君の肩をぽんぽんと叩いた。家族があんな姿になったら、直視するのも辛いだろう。
控室に戻ると、見多氏はもういなかった。
「見多さんは、今日はもう帰ったわ。お仕事の合間に来てくださったから」おばさんは微笑んで、晃君を手招きして、「何か、食べれた?」と尋ねていた。
「敬ちゃん、今日はこれからどうするんだ?」おじさんが私に尋ねた。
「この後、矢和田さんが、こっちに来てくれるので、まだ病院にはいます」
「私たちも、今日は一日、ここにいるわ。でも、今日はもう、香に会えないし、また明日、ゆっくり話ししない」おばさんは、申し訳なさそうに言った。おばさんを見て、確かに、今日はもう詳しい話はきかない方がいいなと思った。みんな精神的に、ぼろぼろになってる。私も多分、相当疲れてるみたいだし。承知して、明日の午後一時にまた会う約束をして、私は控室を出た。
控室を出て、矢和田との待ち合わせ場所の、病院の受付前に行こうと廊下を曲がった。曲がってすぐ、左の壁から扉が出っ張った。ドアから、白衣の、見覚えのある医師が私に横顔を見せた。そして、こちらに顔を向けて、私に気づいた。
「敬ちゃん?」
「石詰先生」私の方からも、先生に近づいた。
「久しぶりだね」
「ええ、お久しぶりです。先生、お元気でした」
「医者が病気してたら、見本にならないだろう、え」先生は笑って、きれいな歯並びの歯をにかっと出して、そして「今は暇? むこうでコーヒーでも飲まないか」ときいた。
矢和田のメールを思い出して、矢和田が来るのに、あと一時間くらいかかるなぁ、と確認してから、「三十分くらいなら」と石詰先生に答えた。医者は予約時間をあっさり延長する。
「じゃあ、向こうで」石詰先生はにっこり笑った。
職員控室に入ると、中には誰もいなかった。
「適当にかけていいよ」先生は、奥の給湯室に行って、「コーヒーでいいかなぁ」と叫んだ。
控室は、何となく落ち着かない。それでいて、なぜか、どこか懐かしい。懐かしいのは、昔、よくここで一人遊びをしていたからだ。落ち着かないのは、今はもう、できれば来たくない場所だから。かすかに医師達が醸し出す、インテリ系の雰囲気と、消毒液の醒めた清潔感が漂うこの場所。一時間が限界だなと思った。先生は、両手に、紙コップのおさまったプラスチックのコーヒーカップを持ってきた。
「熱いよ」と言って、湯気の立つコーヒーを、私にひとつ手渡して、先生は、椅子に座りながら、コーヒーを一口すすった。
「今もお忙しいんですか」私は少し微笑んで、先生にきいた。熱いコーヒーの香りが、少し私の緊張をほぐした。
「そうだねぇ。うん、忙しいねぇ」先生は、うーんとうなって、めがねをかけ直した。医者にしては派手な黒ぶちめがね。石詰先生は、自分の近況や、医学界の話をして、私はそれを、うなずきながらきいた。
「敬ちゃんのほう、最近どうだい?」先生が、つるりときいてきた。
「元気ですよ。お母さんも。元気でやってます」私は微笑んで答えた。
「そうかぁ」先生は椅子の背もたれを少し傾けて、ほっとしたように、小さく「よかった。いらぬお世話だけど、心配だったんだ」と言った。私は、今度はほんとに、顔をほころばせて、先生にお礼を言った。
「色々お世話になりました」
「じゃあ、今日は、どうしてここに?」先生は近くの棚の引き出しを開けて、クッキー缶を出して、私にすすめた。
「友達が、昨日ここのICUに入ったんです」私は、少し目を伏せて言った。
「昨日? それって布瀬 香さん?」先生がコーヒーをごくりと飲んで、言った。
「せんせ」私は、先生の手元に置いてある、患者のカルテに、ぱっと目を落とした。
「そうかぁ。彼女、敬ちゃんの友達か」石詰先生は、脳外科医担当だ。先生はたくさんのカルテから、香の名前の入ったカルテを見せて、「俺の担当の患者だ」と真顔で言った。