エピローグ
「俺の彼女はレズビアン」
「何かの映画?」
「ノンフィクション」がやがやとやかましい居酒屋で、俺は同僚の笹地を、テーブルの下で、ガツンと蹴った。
「おいおい」
「う、すまん」こんなに酔って、態度が荒々しくなるのは、何年ぶりだろう? 笹地も驚いていた。
彼女の危機は、俺の危機。
こういった考えは、どの彼女に対しても、以前から持っていた。自分の彼女が困っていたら、精一杯助ける。彼女の愚痴も、弱音も、全部きいて、俺なりにできることをやる。今まで付き合ってきた彼女に対して、それが当たり前だった。
彼女の親友の危機は、俺の危機。
そうなってしまう彼女は、敬だけだろうと思う。
敬ほど、人付き合いに不器用で、敏感で、優しい女の子はいないと思う。
付き合い始めた頃は、社交的で、快活で、賢い女学生だなぁと思っていた。
恋をして、恋人になって、ゆっくりと近づいて、「敬は普通の女の子じゃない」と、やっと気付いた。
いつ、誰と話すときでも、最大限の気を使って、言葉を選んで、毒をはかない。どれだけ仲良くなっても、一線引いて付き合う感覚。それは友人でも恋人でも変わらないようだった。
恋人に対して、そんな付き合い方をするなんて、そんな感覚、俺には無くて、最初はとても戸惑った。
だから、俺は戸惑いを隠すためにも、頑張って頑張って頑張って、ある種の紳士を装っていたのだ(敬は、あれが俺なのだと思っているかもしれない)。
あんまりくだけてくれないから、俺は、敬は実は誰も信用していないんじゃないかな、なんて思ってしまうときも(少しだけ!)あった。
でも、今はそうは思わない。敬は全面的に人を信頼できる子だ。信頼するだけに、相手から、何か嘘をつかれたときとか、誤魔化しをされたときの反動はきつくて、それに耐えている感じだ。
敬は繊細なのに、頑なに鈍感になろうとしない。
俺は、敬の気持ちを、もっと知りたかった。親友に、あそこまでかけられるのは、実はとんでもなくすごいことだと思えてきた。
「俺はお前と親友か?」
笹地が気持ち悪そうな顔で、俺を見た。
「いまさら、何を言ってんだ?」俺はビールジョッキ越しに笹地を見て、ふふっと笑った。
あ、今、俺、ほっとした。
友人ってのは、ラクな関係だけど、あいまいな関係でもある。
「お友達になりましょう。今日からあなたと私は親友です」
といって友達になった(と仮定した)って、それは「お友達ごっこ」であって、「友達」ではない。
俺は今まで、そんなに、「友人の定義」なんて考えたりはしなかった。
でも、最近は考えて考えて、考えすぎて頭が痛い。法律に、「友人とは法律でこれこれと決まっております」なんて定義しておいてもらいたい。
俺には、敬ほど自分なりに物事を深く考えるような習慣が無かった。
敬は、隠れ哲学者だ。自分で「哲学してるのよ」なんて言わないし、自覚も薄いみたいだけれど、少しじっくり話をしたら、すぐに分かる。
敬は一般の常識を知っていても、それを鵜呑みにして自分の行動の指針にしたりはしない。自分で考えて、思考の底に根を下ろして、自分の意見ってものを、がっちり持っている。で、 今回は、俺との関係を崩してまで、意見を言ってくれたわけだ。
言われてよかったと、今なら思える。あのとき、その場限りの繕いで、「誰よりもあなたが大事」なんて言われていたら、きっと俺はもっとショックが大きかった。
敬は正直だから、すぐに雰囲気で分かる。俺は、敬の真正直さが大好きだったから、真正直に言ってもらえてよかった。それに、敬がどれだけ言うために、ためらっていたかも知っていた。
言いたくないことをききだしているのも、分かってた。
それだけで、俺は充分に、そっぽ向かれたっていい男だったと思う。
俺は、少し酔いの回った頭で、これからの指針をうんうん考えた。
「……ばあちゃんのところに行こう」
言葉は言霊になって、俺を衝き動かしてくれた。
「久しぶり、ばあちゃん」
「あんれまぁ、また来たのかい」
「ふふっ。来たよ、ばあちゃん」俺は笑いながら、ばあちゃんの好きな京漬物のお土産を手渡す。
福岡のばあちゃんは、俺の「大好きなばあちゃん」で。以前から俺は仕事の合間、暇を見つけて帰っては、ばあちゃんに、敬の自慢話をしていた。
ばあちゃんは結構、ぼけているから、俺の彼女を時々、俺の妹に勘違いしたり、俺の子供に勘違いしたりして。でも、「敬」って名前はちゃんと覚えてくれるようになった。
ばあちゃんは今、大正時代に作られた大きな屋敷に、ひっそりと独りで住んでいる。部屋の維持はどうしているかときいたら、週に一回は、家政婦さんが来てくれて、掃除と、おばあちゃんの話し相手になってくれているそうだ。それをきいて俺は安心した。
ばあちゃんは飄々として、「別に寂しい思いはしてない」と言って、俺の実家への同居を、断固拒否した。
「おじいさんとの思い出の中がいいんですわ」そう言うばあちゃんは、すごく純粋できれいだった。
「ばあちゃん、敬のことなんだけどさ」縁側で、お茶と柿の種をつまみながら、俺は話す。
「ああ、敬さん。どうしたに、最近はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。多分」
「なんじゃ?」
「しばらく会ってないんだよ、ばあちゃん、きいてよ、今、すごい大変なんだからさ」
「なあにさ」
「彼女の親友の危機は、俺の危機なの」
「ふっふ、ほら、庭に植えた朝顔の種が、少しだけど芽を出したよ」ばあちゃんは、あっさりと会話を変える。
「まじめに話そうぜ。ばあちゃん、俺の彼女はレズビアンなのかもしれないんだよ」
「れずびあん」
「そうなんだよ、どうするばあちゃん」話なんて、通じてないのは分かってた。でも、とりあえず俺は何でも、ばあちゃんに報告してしまう、おばあちゃんっこなんだ。
「俺の彼女、綺麗なんだぜー。しかも喧嘩強いんだ、知らなかったけど」
「ほうほう、おなごも強くなければねぇ」
「ふっ飛ばすんだぜ、親友の彼氏を」
「からし? からしせんべいの方が食べたいのかい、困った子だねぇ」
「彼氏だって。……ばあちゃん、俺は敬の彼氏なのかな」
「どれ、とってきてあげようか」俺は笑って、立ち上がろうとするばあちゃんを座らせた。
「ここに居てよ」
俺は、どこまで、ばあちゃんが、ぼけているかなんて、別にどうでもよかった。「ばあちゃんは、ぼけている」と、俺以外の家族は信じてる。だから、ばあちゃんを独り、大きな屋敷に住まわせるのは、結構心配で、反対していた。でも、汚い話、ばあちゃんがもらった、じいちゃんからの莫大な遺産を、自分達の家のローンにちょこっと使いたがってるのも、俺はまざまざと知っていた。
本当にぼけた老人が、週に一度の家政婦の面倒だけで、ちゃんと生活できているなんて、少し冷静に考えれば、「おかしいな」と分かる。でも、ばあちゃんは、とりあえずぼけている。
俺と話しているときでも、他の家族と話しているときでも、とりあえずぼけているんだ。とりわけ、遺産と土地の話になると、大昔の話しかしなくなる。
「俺が、法律事務所に入ったから、よけいに警戒したの? ばあちゃん」俺は、本音が返ってこないと分かったうえで、ばあちゃんにきく。
「…………」
「俺は、ばあちゃんっ子だよ。ばあちゃん」俺は、ばあちゃんの背中をパンパンと叩いて、「孫の俺」に戻った。
「きいてよ、ばあちゃん、俺はこれからどうするのがいいと思う?」
俺は、ばあちゃんに尋ねながら、自問自答する。
「敬のために、何ができると思う、ばあちゃん……」