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手につながる、香の白い手首を見る。
以前より、ずっと白く、細くなった手首。でも、手にはまだ、ぬくもりはあるし、脈は、心電図がぴっぴっという機械音で、「まだ続いていますよ」と、垂れ流しにその情報を伝えてくれる。まだ、ここにある。いつまで続くかは分からない、命の証拠は、まだここにある。儚いけれど、まだちゃんとここにいてくれている。
香が生きているという実感だけで、涙がにじんできた。でも、言いたいことを、ちゃんと言うまで、ぐすぐす泣いてるワケにはいかない。ちゃんと言わないと。
「うちらさ」私は香に話す。「なんだかんだ言っても、別々の人間だから、ほら、いつかは、どっちかが先に死ぬときがくるよ、なぁ?」
香は、穏やかな表情のままだ。
「で、もしな。香が私より先に死んだら? って、考えたんだ」思ってるままを言おう。私は決心した。
綺麗ごとも、誤魔化しもやめよう、と。
「もし、香が、今死んだとして、私がこの後、何十年も生きることになったら……私は、少しずつだとしても、香を、忘れていって、しまうかも、しれない」香の左手を握る右手に、力が入ってしまった。こわばって、次は、震えが襲ってきた。
「もちろん、忘れたくないから。色んなことで、香を思い出して、思いつづけて、いくで。写真とか、思い出の場所とか、香の好きだった物とかで……でも、ここに香が居ない限り、きっと、多分、そう、限界はくると思うんよ。私の現実の生活が、きっと昔の記憶を、少しずつ追いやっていくと思うんよ。そやって、香が押しやられて……そうなるんじゃないかって思って…」眉間にしわが寄った。下唇を噛んで、泣きそうになるのをこらえて、私は、そのまま、やりきれない気持ちに包まれた。
現実って、どうしてこうも残酷なんだろう。
「そんなことない、違うよ」と、否定したい。でも、多分これが将来起ることだろう、と、今は思えて仕方ない。まだ起きてないから、確証なんてないけど、否定される可能性より、そうなる予感の方が、大きい気がして仕方ないんだ。
何を冷静に。親友のことなのに、何冷静にそんなこと考えてるんだ。
「世界で一番、ひどい、友達やろ」
一生ものだと誓う親友を、忘れていくだろうと予感する自分。私って、一体何なんだ。
気付かない方がよかったのかな。何度もそう思った。でも、こう思えてしまった。そうなるだろうと思うようになってしまったんだ。思ってしまった以上、じゃあ、そこから私はどんな風に生きていけばいいのか。そう考えるようになった。悲観するだけじゃ終われない。そんな人生、人生として、どこか歪んでいる気がする。
どんな風になっても、人生って、人が幸せになるためのものだって、そう信じてる。大切な人が死んでも、幸せにはなれないのかな。
私は、背中を少し曲げて、前かがみの姿勢になって、香の左手を、私の両手でとった。香のひじを曲げて、ひじから手までを浮かせて、私の顔の前まで、持ってきた。ひじはちゃんと曲がることは知っていた。だからここなら、動かしても、香は痛がらないだろう。私の両手に支えられて、左腕はベッドから浮いていても、香の顔は、天井に向いたままだ。
香は決して動かない。その香の、眠る顔を、斜め上から少しの間、私は眺めた。眺めて、またすぐ、私は、香の左手に目線を戻した。私の両手にすっぽり収まる、香の小さな左手。
「何か、ミサでの、お祈りみたいだな」私は、少し笑って、香に言った。でも、ほんとに、祈りに近い気がした。祈りと、そして懺悔。香への懺悔を、香に告げるんだ。
愛しい人を忘れていく中で、人はどうやって生きていく? こんな予想における、仮定から導いた、私の結論は、こうだ。
「もし、本当に、香を忘れていってしまっても……香、これだけは、今、確信してる」私は、目を閉じた。「段々、思い出す回数は減っても、その都度思い出す、香の記憶は、全部、世界で一番、綺麗な記憶ってことよ。記憶からこぼれ落ちる、その一瞬間前まで、香の記憶は、何よりもあったかくて、いいものに決まってる。それで、うちは、それを思い出すたびに、きっと、そのあったかさのせいで、泣くに決まってるんよ。『香効果』は、スゴイんよ、だから」
言いながら、勝手に涙があふれてるのに気付いた。涙は、香の左手を握る、私の両手の甲に零れ落ちる。泣くほどに、頭がはっきりしてくる。私はまた切なくなって、やりきれなくなって、今まで生きてて、一番、香の存在を感じるのは、今だ。と、確信した。一度深呼吸して、しばらく流れるままに、私は涙をそのままにしておいた。でも、何で泣いているのか、よく分からない。とにかく、涙が、ほとほとと落ちて、落ちた分だけ気持ちが洗われていく感覚だ。
「香」香の左手に、私の右頬をつけて、もう一度、私は香を、呼んだ。「香」
「愛していくから」言って、言葉は、私の一生の、誓いになった。私は、香を愛してる。そして、愛していく。
だから―『だから』の次は、もうない。
ただ、愛していく。
香がこの先、眠ったままでも、目覚めたとしても、目覚めて半身不随になっていても、記憶喪失になってても、また新しい彼氏をつくっても、もう、どんな風になっても、香が私を受け入れてくれるのなら、私はそのときの香をそのまま愛して、そして、記憶の果てまで香を思い続ける。そうすると、決めた。
愛するって、決断するものなんだなぁ。私は目を瞑って、閉じられた視界に広がる細かな砂金のような光をずっと見ていた。
もちろん、私にとって、香は「愛せて当然」の人だ。
「だから、もう覚悟しろよ、香。香は、うちに一生、愛されて死ぬんだ」私は、はにかんで、香と一緒に泣き笑いした。