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見多氏は、ガラス越しから、香をじっと見ていた。今日はもう、集中治療室の中に入ることはできない。私は、見多氏の後ろ五メートルくらいから、見多氏の背中を黙って見続けた。香の婚約者は、黙って、ガラスに手を添えて、香をずっと見ている。少し猫背で、いたずらをして、お母さんにしかられて、しょんぼりしている子供のよう。声をかけようか少しためらったけれど、後ろにずっといたことを不信がられては困るから、向こうが気づく前に、私から声をかけた。
「やあ、……朝来さん」見多氏は、確認しながら、私に返事を返した。軽い会話を織り交ぜながら、私達は、家族控室に向かった。
控室には、おばさんと、おじさんと、そして香の弟の晃君が居た。おじさんが私に気づいて、「お、敬ちゃん」と、疲れた顔で笑ってみせた。おじさんの声で、顔を下に向けていた晃君が、顔をゆっくり上げて、「敬ちゃん」と、ぼんやり言った。晃君の目がすごく赤い。陸上部で、がっしりした体つきだけど、今にも倒れそうな、もろい雰囲気。見多氏が、おじさんとおばさんに挨拶をして、「今、香に会ってきました」と話を始めた。
ここに居ない方がいいかな。私はそう思って、「何か飲み物でも買ってきますけど、何かいりますか?」と、皆に尋ねた。
「お母さん、俺、何か飲んでくる」晃君が不意にそう言って、私に、行こう、と、目で促した。
「しばらくここに居るから」おばさんは微笑んで、そう言った。私はうなずいた。
控室の扉を閉めて、私は晃君と並んで、売店の方に向かった。病院の隅に、ちょこんと添えられているような、人気の少ない売店で、私はコーヒー、晃君にはパンとコーヒーを渡した。
「お金、払うよ」晃君は遠慮したけれど、払わせてよ、と私は笑って、晃君の財布をポケットにしまわせた。晃君はありがとう、と言って、疲れた顔で小さく微笑んだ。
「ここ、息苦しくない?」晃君が小さく言った。
「そうだね、私も。ちょっと外に出ようか」売店の裏のドアから外に出ると、そこは、病院の精神患者病棟の入り口近くだった。
あ。どこかで私の頭が、くらり、と揺れるのを感じた。
すぐ側に、ベンチがあったので、二人でそこに座った。木製で、鉄の脚がモダンな造りになっている、ちょっとおしゃれなベンチ。建物から出ると、はく息が白くなる。冬の名残が残る京都の空は、私の頭をきーんとさせる。でも病院の中より、ずっと居心地はいい。晃君はぼんやりと黙ったまま、熱いコーヒーをゆっくり飲んだ。私もコーヒーを少し口に含んで、右に居る晃君を眺めた。
「それ、ミルク入り?」私はきいた。
「え。ううん、ブラック。砂糖は入ってるけど」晃君が下を向いたまま答える。淡々と。
「こっちはミルク入りで、砂糖なし」私は微笑んで、「おいしいコーヒーの店、最近見つけたんだけど、今度一緒に行かない」と言って、あいてる右手で、晃君の背中に二回、ぽんぽんと触れた。晃君がぴくりと揺れた。
「勉強しないと」晃君が声を少し震わせて、言った。
「そうか、今年、晃君受験なんよねぇ」
「うん、うん、」晃君の背中が縮まった。晃君は、言葉にならない声で、うう、と言って、顔を下にうずめて、コーヒーの紙コップを握りつぶした。ボクサーが、しっかりガードを固めるときのような姿勢。晃君は何かに必死で耐えるみたいに、うう、と、かすかにつぶやきながら、身体を縮めて、身体全体を小刻みに揺らした。下唇を噛みしめて、私は右腕で、晃君を引き寄せた。晃君の肩幅は広いけど、今日はすっぽり、私の腕に収まる。晃君の後頭部に、私の右頬を付けて、左手で晃君の頭を包んだ。
「大丈夫」私は言った。自分にも言いきかせながら。
「きっと全部上手くいくよ」晃君を抱きしめたまま、目に涙を浮かべたまま、私は空を仰いだ。うっすらと、白と水色の層を織りなす薄雲が、空全体をおおっていて、私がはいた白い息も、視界に入ってくる。大丈夫だ、きっと全部上手くいく。私は願った。信じなくちゃ、希望はない。