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「矢和田」階段を降りようとしていた男性の、後姿。矢和田は、ほんとに、グレーが似合うなぁ、と思った。矢和田が、こっちを振り向いて、「何で分かるのかな」と言いたげな、軽く、悲しそうな笑みを浮かべた。そのまま、黙ってる。
動いた距離は五メートル? たったそれだけで、私の息は、八百メートル走の直後のように、乱れていた。このまま別れたら、絶対、一生、後悔してやる。私はもう、半分意地になっていた。
「矢和田、うまく伝わらないことは、もう分かってる。でも、言わせて欲しい」私は、荒れた息を抑えて、精一杯の懇願を込めて、矢和田に言った。矢和田は目で「いいよ」と、私を促した。私は、少し、ほっと息を小さくはいて、そして、思いを伝えた。
「手紙は、三年前のままで、止まってるのよ」矢和田が、不意をつかれたときのような、そんな顔を一瞬見せた。
「うちは、世の中で、変わらないものなんてないって、そう、思ってる」私はゆっくり言った。感情が、高ぶってくると、私は早口になってくる。それに、涙腺が、ゆるんでしまう。でも、泣くもんか。泣いて、感情で矢和田に訴えるなんて、嫌だ。
「香への気持ちだって、三年前とは、確実に変わったよ。今は三年前より、香のことが、好き」正直に言った。そう、私は三年前より、確実に香が好きで、大事になった。
もちろん、変わったのは香だけじゃない。
「矢和田に対しても、三年間でかなり変わった」声が震えた。「一緒にいて、あんなに楽しかったのに、三年前から、矢和田への気持ちが同じだなんて、ありえない。そんなんだったら、じゃあ、私と矢和田のあの三年間は何だったんだ、って話でしょ」
言って、一層実感がわいてきた。そう、そうなんだ。知り合ってから、三年間。矢和田は、私にとって、確実に近い人になって、とても大事な人になっていった。香への気持ちとは、少し違った『恋人』の矢和田への気持ち。香への愛情と並行して、矢和田への愛情も、着実に大きくなっていった。
そう、そうなんよ、矢和田。
「一生ものだと、思える友達は、香。最高の恋人だと思えるのは、矢和田なん」今、はっきりした。
「もう、二人を比べるなんて、無理!」
身勝手な発言だと思った。私、この前まで「香が一番大事だ」って、矢和田に豪語したクセに。どうなんよ、おい。でも、今は、本当に二人とも同等に大好きで、大事なの。
矢和田が一度私から離れて、また戻ってきてくれてから、私は、矢和田に、今まで以上に、心をゆるすようになった。矢和田が、心ゆるしても、大丈夫な人になった。私は、矢和田がもっと好きになった。
私はどこまで、この人を好きになるんだろう。以前、そんなことを考えて、私は、独り、怖がっていた。人を好きになりすぎると、なぜかどこかで、怖くなる。香だけに抱いていた、この感覚。矢和田にも抱くようになった。
「香と十五年、一緒に生きて、三年前に矢和田と出会って、一緒に、過ごして」
言葉が詰まる。
「人生において、本当に愛しいと思える人は、何も一人じゃないって、思えるようになった」
もう、声は大きくなって、涙がこぼれる。ああ、もう!これ以上のうまい言葉が見つからない。もっともっと、言いたいことが、伝えたいことがあるのに。全部、矢和田に理解してもらいたいのに。もどかしくて、悔しくなる。
「敬、敬。あとひとつだけ、教えてくれ」矢和田がつぶやいた。目が赤い。
私は矢和田の質問を待った。
「敬は、それでも、叶うなら、誰の側に一番居たいと、思ってるんだ?」私の涙がするすると退いた。矢和田が言わんとしていることが、よく分かった。確かに、今の私の話だけじゃ、それはハッキリしていない。私は、ありったけの気持ちを込めて言った。
「矢和田と結婚したい」
「本当にそう思ってる?」矢和田が、さらりときき返した。矢和田の返事が、胸に、さくりと、ささった。うぅ、矢和田の前じゃ、誤魔化しなんて、無意味だ。
「敬、正直でいいんだ」矢和田は、もう、覚悟を決めているみたいだった。どんな表情とも言えない、読みとれない表情で、私の返事を待っている。
私は、適切だと思える言葉を頭の中で必死に探しながら、もう、矢和田の言うように、素直に告白しようと思った。矢和田は、本当に私を理解してる。さっきの答え、私の本音を語るには、不充分だった。言おう。私は覚悟して、かすかに、こくりと唾を飲んだ。
矢和田と、私の目線は、お互いに交わっている。私は、目をそらさず、矢和田に言った。
「ごめん。両方と結婚したい」言えた!
感激と同時に、私は「?」と思った。矢和田が、キョトンとしている。
やっちゃった!私は、もっと良い言い方はなかったのか、と今更、後悔しだした。
「……つまり?」矢和田が、ゆっくり、きき返した。明らかに動揺してる。
「形式的な形としては、まず、香とは、養子縁組を組んで。その後、矢和田と結婚したいと、思ってた」ちょっと女の子らしく、言ってみた。「えへ♪」みたいなジェスチャー、込みで。
矢和田は全然、動かない。
「夢があったのよ」私は続けた。これだけだと、誤解されそうだから包み隠さず、全部伝えようと思った。




