5
今日は、5月のわりに少し肌寒くて、上着を羽織って香に会いに行こうかどうか、少し考えながら、私は朝のコーヒーを飲んでいた。
十時頃、テーブルの上に置いてあった携帯が、震えているのに気付いた。私はもう着替えて、化粧もして、朝食の食器を洗っているところだった。三回以上バイブがつづいたから、着信だと分かって、すぐ側にかけてあった、タオルで手をふいて携帯をとった。携帯電話は、水気にほんと、弱いから。
矢和田からの着信。めずらしいと思った。
「もしもし」私は電話にでた。
「おはよう、起きてたか?」矢和田の声。いつも通り……?
「うん、もう起きてたよ。どしたの」
「……ごめん、敬。電話ってのも、悪いと思ったけど」矢和田の前置きは、フォローになってもいない。私は、部屋の温度が、三度下がったような感覚を持った。矢和田、耐えられなくなったんだ。
矢和田が続けた。
「香ちゃんへの手紙、読んだ」予想外の内容に、私はほんとに、安堵感を持った。でも、そんなものは、一瞬にして、次に来たショックに打ち消されて、そのまま、恐怖と恥辱が、ずどんと両肩に、落ちてきた。あの手紙!
そして、さらに、追い討ちが。「香ちゃんにも、読んできかせた」
「何で」私は、思わず叫んでしまった。何で、何で矢和田があの手紙を?
「あの日、敬が面会に行ってるの、知っていたから、俺も香ちゃんに会いに行こうと思ったんだ」私の頭は、急激に醒めだした。
あの日。
そうだ、確かに矢和田は、昨日、「あの日」と、言った。手紙を読めなかった、あの日。共通の話題として、私は無意識に了解して、矢和田と会話を続けてた。手紙の話、矢和田には言ってなかったじゃないか!
「俺が思ってたより、敬の気持ちは、すごい深くて、大きかったんだな」矢和田が淡々と言う。感情がよみとれない。
私の頭と全身が、一瞬にして冷めだした。5月じゃないぞ、ここは。
「矢和田、矢和田。切らないで。お願い、きいて欲しいの」私は焦って、矢和田に懇願した。嫌、これだけは止めて。誤解されたまま、別れるのは、それだけは絶対嫌。
「うん、大丈夫。きいてるよ」矢和田はゆっくり、言った。
「私は、香と、手紙にあった、希望通りの関係になれなかったから、矢和田の側にいたんじゃない。そんなんで、矢和田と付き合ってたんじゃ、ない」
「うん。それは分かってる」矢和田が静かに言った。やっぱり、電話だけじゃ、矢和田をしっかり理解できない。会って話せない気持ちも分かるけど。
「敬がそんな性格だっていうのは、もう、よく分かってるよ」矢和田が言った。「俺だけに対してじゃなくて、他の誰に対しても。誰かの『代わり』として、人付き合いすることを嫌ってることも、分かってる。それって、すごい難しいのに、敬は優しいから、それで孤独になっても、それに耐えてるんだよなぁ」
―何で?
言葉は詰まって、視界が潤んできた。部屋が、水槽の中みたいに、揺らめいて見える。
何で、矢和田はそんなに、私のことが分かるの。
「矢和田、矢和田がすごく大事。大事なん、絶対」
「うん」矢和田がうなずく。
「誰の代わりでもない」
「だから、俺はお前の一番になれない」言葉が、空気ごと、私の心を、刺した。刺された。息が、止まった。矢和田の言葉が消えるのと、同じ位に、電話もぷつり、と、切れた。
そして、玄関のドアから、遠ざかる足音がきこえた。かつーん、という、冴えた音。私は矢和田だと分かった。矢和田としか思えなかった。矢和田じゃないと、ダメだ。
思ったと同時に、脚は、もう玄関に向かって、何も考えないでも足はサンダルを捕まえて、手はチェーンを外して、鍵を横に回した。ドアを開いて、私は叫んだ。