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お父さんの事故のニュースを見て、お母さんは入院した。
私は、そのまま、荒れた家に残った。その頃は、病院になんて、近寄りたくもなかったから。カウンセリングも、まっぴらだった。初対面のカウンセラーに、その人のお給料の為に、私の悩みを打ち明けるなんて、ばかばかしくて、やってられるか、と思っていた。仮に、医者にかかって、それで、「うん、分かるよ」なんて、言われたら、「何が分かるの」と、きき返して、患者の特権をフルに使って、カウンセラーに何をしでかすか、自分でも分からないとも思っていたし、とにかく、私は頑として、病院もカウンセリングも、拒否した。
そして、お父さんのお通夜とかお葬式とか、一通りやるべきことが終わったとき、私の緊張の糸が、ふつっと切れた。
心身が一気に、落ち込んで、前に進めなくなった。
自分でも、こうなるとは思っていなくて、何で? と、びっくりした。私はもう少し、強い人間だと思っていたから、それもショックだった。一週間、私は部屋に閉じこもって、ベッドから起きあがれなかった。悲しくて、辛くて、苦しくて、もう、誰とも会う気力がわいてこなかった。
部屋にこもりだしたその日から、香から、一日何通もメールが入った。内容は、すごく単純。
《今日、夕食に炊き込み御飯作ったで☆美味くでけたぞ!》とか、《今から犬の散歩行ってくるわ〜♪》とか、《この前借りた小説、読みきったわ☆》とか、本当、日常のことばっかり。
《大丈夫?》や、《今、何してる? ご飯は食べてる?》などの、私に問いかけるメールはなかった。部屋から出られなくても、香のメールを読んでると、外とつながってるような気がして、安心感を持ったのを今でも鮮明に覚えている。
部屋にこもって、三日目に、私は、《今、しんどくて、部屋から出られない。でも、会いたい》ってメールを送ったら、香はすぐに、私の家に、訪ねて来てくれた。オレンジと、お菓子を持って。
携帯のバイブが、ガッガガガ!と、アルミの椅子の上で、着信音以上に、大きな音を立てて、私を呼んだ。香からの電話だったので、驚いたけど、すぐ、とった。
「もしもしー、けっちゃん? 今、けっちゃんの家の前に来てるんやけど、玄関、開いてるんかなぁ? あ、開いてる? じゃあ、もう勝手に入るで〜、てか、もう入ったし」こんな風に、マイペースに、香は私のところに、やってきた。そして、私を見たとき、まず最初に、「おいおい、敬ちゃん〜」と言って、困った表情も混ぜ合わせながら、笑った。だだっこをあやす、保母さんのように。
私の心の有刺鉄線は、香には、見えてもいなかったようだ。
「香には、勝てない。ほんと」眠る香に、感謝の気持ちを込めながら、私は言った。
ほんと、香はすごい。お父さんが亡くなって、私がひきこもって、そこから抜け出して、元気になるまでの、半年間、周りの人達は、絶えず、私に「頑張って」と言った。
「……『頑張れ』って、限りなく無責任な励ましだと思わない?」私は、少し、頭を傾けて、香に尋ねてみた。「頑張れ」と、周りから言われるのは、私には、プレッシャーにしかならなかった。「頑張れ」と言われると、「私は一切関与しないし、援助もしないよ。あなた、今より努力して、何とかしなさいね」と言われているようで、孤独感と疎外感が強くなった。普段は、「頑張ってね」と言われても、「ありがとう」と言って、そこで終わっていたけれど、弱ってるときに、そう言われると―これ以上頑張れないときにそう、言われると―その言葉が、どれだけ残酷で、無責任な言葉なのかが、分かる。
香は「頑張れ」とは言わなかった。それより、
「私に何か、できることがあるなら、ゆってな」と言った。安っぽい励ましの言葉より、行動で私を助けてくれた。中途半端な同情も、表向きだけの言葉かけも、香は持ち込んでこなかった。実際、隣人より、親類より、そう誰よりも、一番私の側にいてくれたのは香だった。
あのとき、香がいなかったら、今の私はいない。あの時期を思い出すたび、いつも私はそう思う。
「お礼が言いたかったんだ、ずっと。だから、手紙を書いたんだけど」私は、手紙をとって、静かに、中身を出した。数枚の、二つ折りされている便箋を、ゆっくり開く。三年前、香に宛てた手紙。
「…………」
手紙を見ながら、私は自分を滑稽に思った。
実は、書きながら、最初から香に渡す気はなかった。香が、これを読んだら、私を嫌うかもしれないと思って。読めば、香は私を拒むかもしれない、と恐れて。そんな危険なものを、意気揚揚と、見せるわけないだろう。
だから、香に宛てていながら、これは、私の井戸になった。
何かの童話だったかな? 本音を言えない男が、家の裏の井戸の蓋を開けて、そこだけに自分の気持ちをぶちまける。そして、蓋をして、誰にも悟られず、また皆の前に、飄々と出て行く。でも、井戸の中の言葉は、井戸の中で、延々とこだまして、そこに留まり続ける。音声による言葉として、そこに残る。私も、ここなら、自分の本音を綴ってもいいだろう、と。そう思って、自分の気持ちを、正直に書いた。
でも、井戸の中の、男の本音は、誰にもきかれず、ひっそりと、静かに井戸の底で、その身を潜ませていけたのだろうか? そして、男は、実のところ、それで満足していたのだろうか? そのへんの結末は、昔の話だから、覚えてない。
私もこの手紙は、一生、香にも、他の誰にも見せないつもりだった。けど、香がこうなって、私の気持ちが、少し変わった。
後悔のないように。その言葉を内にしまいながら、私はこうやって、香と会って、今まで言えていなかったことを、ずっと香に伝えてきた。
じゃあ、この手紙の内容は? 伝えないと、私の香への思いは、まだ不充分だ。だから、今日、この手紙を持ってきた。
三年前の手紙を、三年ぶりに読み返す。自分の手から一度離れたモノは、もう、自分のモノとはなかなか思い難い。この手紙も、他人が書いたモノのような気にさえなっている。三年前の自分なら、もう、他人と思ってもいいかもしれない。そんな風に、客観的に、自分の書いた手紙を読み返すと、私の今朝の決意は、もろくも崩れ落ちた。
読みながら、私は、泣きそうになった。三年前、私は、こんなことを書いてたんだなぁ。
これは、やっぱり、無理だ。
「ごめん、ちょっと、飲み物買ってくるわ」涙が出る前に、私は、病室を出た。感情ってのは、ほんと、いつ高ぶるか分からないから、困る。
売店で、パックのジュースを飲んで、気持ちを落ち着けてから、香の病室に戻った。もう一度、椅子に座り直して、テーブルの上に置かれた手紙を見て、それを元あった場所に、丁寧にしまいながら、香に言った。
「手紙、読めるものじゃなかったわ。昔のやし。ごめんな」微笑んで、香に言った。
言いながら、何だろう、私は急に、悲しさと、やるせなさが募った。そして、何なんだろう、この、口惜しさは?
私は、どこかで、残念で仕方ない、と思っていたらしい。
井戸の男をもう一度思った。もしかしたら、井戸の男も、本当は、自分の気持ちを、周りに伝えたかったんじゃないだろうか。いつになっても良いから、きっと、本当は、自分の気持ちを、皆に伝えたかったん、だろうなぁ。きっと、そうだろう。今、そう思った。
でなきゃ、言葉として、残さないだろう?




