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見多氏は返事をしない。そうと思ってはいたけれど。
「関東の方で、一時、はやった詐欺ですね。友達もかかって、多額の借金を負ったから、よく知ってるんですよ」私は、言って、見多氏の前に広げた、数枚のチラシと、契約書に目を落とす。これを見多氏の部屋で見つけたときの衝撃は、忘れられない。
チラシには『ポスティングスタッフ募集!』と書いてある。そして、化粧品の広告チラシ。これを、各家に、ポスティングしていくバイトの募集。ピザのポスティングと、仕事内容は変わらない。
ただ、給料のシステムが違う。契約書にその内容が、詳細に書いてある。給料は、歩合制と、出来高制の両方から、支払われる。ポスティングするだけで、一枚につき、三円支払われる。そして、その商品が注文されて、売れれば、褒賞金が出る。褒賞金は、注文一件につき、四千円。つまり、一度ポスティングしておけば、後は、チラシを見た人からの、注文が入る毎に、自分の懐に、お金が舞い込んでくるという、オイシイ、バイトだ。
巧妙な詐欺だ。
ここまでは、バイトする側に有利なことしかない。でも、このバイトを始めるにあたって、研修料が必要になる。チラシなどの諸経費も、最初は、本人負担でなければならない、そう契約書に書かれてる。研修と、諸経費の為に、まず始めに、十万円、銀行の指定口座に振り込むよう、指示される。このバイトを選ぶ人全員が、現金振り込みは出来ない。小銭を稼ぎたい、お金のない人がこのバイトを選んでいることを、「向こう」はよく分かっている。
「バイトを始めたら、借りた分なんて、すぐに返せますよ」と、向こうが『信頼できる』という、ローン会社から、十万円借りるように、促す。
信頼? 信頼じゃなくて、それは信用というんだ。それに、借りる会社は、信用も何もない、サラ金会社だ。借りた瞬間、利子は韋駄天よりも速く、膨れ上がって、気付いた頃には、三桁だ。
その、振り込み先の口座番号が、見多氏の銀行の口座番号だ。私はこっち方面、詳しくないから、どうやったらこんなことができるのか、不思議で、ただもう、奇妙な感じしか持てない。ポスティングバイトの指定口座の銀行名は、見多氏の銀行とは、全く違う名前にしてある。見多氏の銀行は、このあたりじゃ、特別信用がないわけでもなく、一般的な利率でお金を貸す、普通の信用金庫だ。
表向きは、ご近所に優しい『MT信用金庫』。一方で、サラ金会社。ひとつの建物の中で、天と地ほども変わる利率で、金が動いていた。
いつから、見多氏はこんな商売をしていたのだろう。香は、いつ頃から、これに気付いたのだろうか。
あの夜、口論の内容は、結婚のことじゃなかったんだ。
私は、暗く、鈍い光を反射させるテーブルから、目線を変えて、震える見多氏を見た。
「だから香をつきとばしたんですか?」私は静かに問いかけた。
「違う。香は自分で落ちたんだ!」見多氏が、大声で反論した。知ってる。香は自分で落ちたのは、もう分かってた。
「じゃあ?」私はきく。もう逃げれないんだ、言ってしまえ。見多氏の体は震えたままだ。言いたそうで、でも、言えば、もう終わりだという顔。でも、見多氏も、多分、分かってきている。もう言うしかないことを。
「あの日」
見多氏の口が一気に滑り出した!
「香は、僕に、話があると僕が帰るのをひきとめて、それで、二階で、言われた。この話を言われて、僕は否定したのに。したのに香は逆上して、隣の部屋にこもって、出てこなかった。待ったけど、出てこないから、鍵を使って、開けて、香は、あいつは電話をかけてた」銀行からの留守電。かけたのは香だったんだ。
「香を廊下に引っ張って、『警察にかけたのか』ってきいても、あいつは『警察にはかけてない』って嘘を言い張るんだ」
見多氏の歯がカチカチと鳴り出して、顔には、憎しみのようなものが浮き出てきた。私は、何も言わないで、そんな見多氏の言う、話の続きを待った。
「怖かった。怖くなって、じゃあ誰にかけたんだって、香にきいた。香は、僕からどんどん離れて、離れるから、僕は近寄った。そしたら、香ががくっと倒れ込んで、あいつ、廊下のアルミ棚まで倒して、そのまま、階段を落ちてった」
私は、耐え切れなくなって、目を瞑った。見多氏と、香のやりとりが、気持ち悪いほどリアルに頭の中に映し出される。
見多氏の詐欺に気付いて、見多氏に問いただしている香。香、少しパニック状態になってる。見多氏も、指摘されて、あからさまに、言い返す。その反応で、香は、もっと確信を持っただろう。そして、隣の部屋に、逃げ込んで、内側から鍵をかける。しばらく出てこない。六畳位の、四角い箱の中で、香は何を考えていたんだろう。きっと、香なりに色々考えて、たくさん考えて、泣いていただろう。そして、私に電話をかける。でも、私はいなくて、留守電に言葉を入れるつもりだったのか、そうでなかったのか。電話をかけてすぐに、見多氏がマスターキーで鍵を開けて入ってきたから、それは、分からない。見多氏も、相当焦ってたんだな。電話が切れているか、確認しないで、まず香を部屋から引っ張り出した。そして、廊下で香に問い詰める。見多氏の言葉と雰囲気に、香は圧されて、圧されて、階段の前で足を獲られた。こらえようと、近くのモノに手を引っかけたけど、香の落下を止められるだけのシロモノじゃなかった。香と一緒に、アルミの棚も落ちて、大きな金属音を立てる。
見多氏が、案外抜け目ないと思うのはここだ。後になったけれど、彼女を階段の下に残しておきながら、もう一度、部屋に入って、電話を確認する。そして、まだつながっていたことに気付いて、思いっきり、受話器を定位置に、押し込む。そして、私の留守電は切れる。
それで、その先は?
まだ、私の疑問は全部解けていなかった。
「それで」私はきいた。
「香をどうしたんです?」見多氏が、また黙りこくった。こいつは。その先は私に言って欲しいのか?
下唇を噛んで、私は言った。
「香の、二度目の頭の強打。あなたが、やったんでしょう」見多氏が、あからさまに顔を背けた。言葉を使うより、分かり易い答え方って、あるもんなんだな。当たり前だけど、分かっても全然、嬉しくない。
見多氏は、香を殺そうとした。事故死に見せかけて、自分の罪を隠すために、香を殺そうとしたんだ。
香が、階段の上から、一番下に落ちるまでに、頭を打ったのは一度だけ。そのときは、もしかしたら、意識があったのかもしれない。でも、きっと、逃げるだけの元気は無かったんだろう。電話を切って、降りてきた見多氏は、香を観察して、どう思って、ああしたんだろう。『念には念を』? 彼は、香の首から下は、なるべく動かないようにして、自分の指紋が階段につかないように、注意して、香の髪をつかむ。
香は、抵抗できなかった。
私の表情は、見多氏が応接室に入ってきたときのままを保っている。私が崩れたら、見多氏はそこに付け込んでくる。私は、見多氏を見て、言葉を続けた。
「香は冷静な子です」そう、香は、私より、ずっとずっと冷静だ。
「特に、お金に関しては。自分の職場で、そんなことが起っていたのを知ったら、香はすぐに警察に連絡できる子です」見多氏の顔が真っ青になった。
そんな見多氏を見て、私は、どうしようもなく、悲しくなった。悲しくて、やりきれなくて、胸がきしむ。
「どうして、香を信じなかったんですか」見多氏が、少しだけ、私の方に顔を向けた。さっきより、眼の下が、一気に落ち窪んでる。
「香がかけてた、電話の相手は私です。香は、ずっと部屋で考えてたんです。どうやったら、あんたを助けられるか、ずっと考えてたんです。だから、私にも相談しようと、電話をかけたんです」矢和田は法学部教授だ。それは香も、もちろん知っていた。
「どうして、香を信じきれなかったんですか」私の声が、さっきよりも震えてる。見多氏は、私から、ぱっと目を反らした。見多氏の肩が、がくがくと揺れてて、横顔から見える眼は、今にも涙がこぼれそうで、潤んでいる。私も、ずっと目元が熱いままだ。でも、冷静さは保つ。
「もう、香には近づかないで下さい。あなたに香を会わせるわけにはいかない。二度と病院には現れないで下さい」私は見多氏に言った。
「そうする」見多氏が、すんなりと、あっさりと、そう、言ってのけた。
私の目から、一気に涙があふれた。こいつ、これだけ、腐った男だったんだ。
私はぎゅっと、もう一度、強く下唇を噛んだ。でも、これで終わるわけにはいかない。
私は、小さく深呼吸して、見多氏を見た。冷静に、彼を促すために、私は言葉をはいた。
「自首しましょう」にがさない。
線が切れたようで、とたんに見多氏が、ぼろぼろと涙をこぼしだした。涙をこぼすだけで、何も言わない。何も言ってこない。
「見多さん。悪事は遅かれ早かれ、いつかは必ず、ばれるんです」私は言った。「あなたは、今がそのときだ」冷静に話すことは、ののしるより、ずっと難しい。全身が重たくて、頭がぐらぐらし始めているのが分かる。もう一度、今度は深く、大きく息を吐いて、私は、もう一歩、彼に踏み込んだ。
「けじめをつけてください。私から警察に連絡したくないんです」決して認めたくないけれど、こいつには、これは言ってやらないと。
崩れ落ちる見多氏を見て、私は言った。「あなたは、香が、結婚しようとまで思えた人なんだから」
応接室から、銀行を出るまで、誰も私を不審そうに見る人はいなかった。銀行を出ると、もう外は薄暗くて、私の表情も、暗がりのおかげで、周りの通行人には分からないようだ。
銀行から、香の病院まで、案外近かった。病院に着いたときは、午後七時前で、一般面接の時間ぎりぎりだった。約束は四時までだったのに、今日はそれを破って、もう一度、香に会いに行った。今日、二度目の面会。夜の香の病室は、電気は点いていなくて、心電図の白い光だけが、病室で仄かに光っている。私は、ドア付近の、電灯のスイッチを入れた。蛍光灯は点かないで、オレンジ色の豆電球だけが点いた。今はこの方が、いい。
ゆっくり、私は、香の側に近寄った。仄かな光の中で、眠る香の表情は、本当に、穏やかだ。本当に穏やかな顔。全てを知ってからだと、いっそう、香の穏やかな顔に、驚かされて、切なくなる。
階段から落ちる瞬間、香は何を思ったのだろう。何を思いながら、階段を落ちていったのだろう。そして、何を思いながら、意識を遠のかせていったのだろう。見多氏を恐怖して、恨みながらで意識が切れたなら、こんなに穏やかな顔には、ならないだろう。
私は、立ったまま、手を伸ばして、香のおでこに触れた。そしてゆっくりなでた。ねこっ毛の、さらさらした髪が、私の手の甲に、少しかかる。
ばっか。私は心の中で、香に言った。
「ばっかだよなぁ」口に出して言うと、声が震えてるのに、気付いた。
でも、そんなバカな香が、大好きだ。最後まで、見多氏をかばった香が、本当に、好きだ。
もうここなら、存分に泣いていい。私はもう、我慢しなかった。
「今度はもっと、いい男、選べよなぁ。矢和田みたいな人をな」私はずっと香に触れたまま、気の済むまで、香の分まで泣きつづけた。