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香を前にして、今日は全然、話しかける元気が出ない。私は、香の隣で丸椅子に座って、ただじっとしていた。三十分くらい、ただ、そこで香を見て、頭の中で、見多氏のことをぐるぐる考えてた。
でも、もう煮詰まりかけているのが分かった。私がこの先の考えを広げるには、今のままじゃ無理だ。他の情報が要る。
実はもう、香に会いに行く前から、決心してた。
私は香を眺めて、謝罪の気持ちを込めながら、椅子を立った。病室の小さなクローゼットを開く。そこには、病院のパジャマの替えと、香の私服が、何枚かハンガーにかけられていた。香のマンションは、もう引き渡されて、香の私物は実家に戻された。確かに、いつ目を覚ますか、分からないのに、マンションの家賃を払うのは大変だもんなぁ。おばさんが、香の私服を何枚か、ここにおいていったのには、願かけの意味も込めてあるのだろう。
「突然起きたとき、着る物がないとかわいそうよね」とおばさんは、切なそうに微笑んで、そう言っていた。私は、その中の、トレンチコートに手を伸ばした。コートの小さな内ポケットを、手探りで探す。
あった。その空洞への入り口のジッパーを、じりじりと横に滑らせた。去年の年末のバーゲンに、香と一緒に行ったときの光景を、私は昨日、改めて思い出した。
香は、このトレンチコートを着て、ベージュのマフラーをしてた。
京都の冬は、雪が降らないのに、信じられないくらい、寒い冬で。芯から冷えて、骨に沁みるほどの寒さを放つ。二人で、手袋をこすりながら、「寒い〜」と文句を言ってばかりだった。買い物をすませて、カフェで、熱いココアとシナモンチャイを頼んで、シフォンケーキも食べた。飲みながら、話は、「鍵」になった。
「恋人の部屋の合い鍵って、自分の部屋の鍵とか、車の鍵と一緒につないで持ってる?」私がきくと、香は、「持ってないよ」と言った。
「もし、自分の鍵を落としちゃったとき、見多さんの部屋に駆け込めるように」香は、はにかんで、トレンチコートの一部分を、人差し指で、とんとんと叩いた。「これは絶対落ちないところに、しまっとかないと、ね」
そう言っていた。
確信はなかった。「そこ」にないのなら、「これ以上首を突っ込むな」ということだろう。私は、そう思いながら、ジッパーの開いた、その奥を、三本の指でかき回した。
かちゃりと、私の爪に、硬いものが、触れた。大き目の鍵は、そこにあった。
私は、香を直視しないで、そのまま、ゆっくり、病室を出た。