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香と面会できるようになってから、三週間目に入った。香には、週に三回ペースで会いに行く。今までも香とは、それくらいのペースで連絡をとり合っていたから、香が入院していても、それを崩さない方がいいと思った。
会えない時間が、次、会ったときの時間を、より充実させると、私は思ってる。矢和田とも、そうやって、今まで付き合ってきた。メールは用事のときくらいにしか使わない。《今、何してる?》のような、何となくメールは、窮屈とさえ感じる。もともとメールが、あまり好きじゃないというのも、大きいのかもしれない。だって、メールは二次的コミュニケーションにすぎないから。
文字だけが相手とのコミュニケーション方法。メールだけで、相手の心境を適切に解釈するのは難しい。面と向かって話していても、理解のくい違いはあるのだから。それに嫌な話、メールで甘い言葉を打ちながら、隣で他の女性と浮気していたりだって、ありえない話じゃない(もちろん、矢和田はそんな男じゃありません)。
色んな意味で、メールだけで相手が分かるなんて、ありえない。電話なら声のトーンや抑揚で、相手の気持ちがメールよりかは分かる。会って話せば、当然、もっと分かる。表情やしぐさや雰囲気や、相手を理解するための要素がたくさんある。
私は、矢和田とは、メールより電話。電話より会って話がしたい。
メール先の矢和田が信じられないからじゃなくて、矢和田と会って話すとき、矢和田と話せることへの感謝を忘れたくないから。毎日メールをしていると、矢和田のありがたみが、薄れてしまいそうだから。
そして、私は矢和田と、適度な距離を保ちたいと思って、必要以上の連絡を避ける。
きっと、私は人との距離のとり方が不器用なんだ。多分私は、一般の人達よりも、周りとの距離を広くとっている。それが、私の中での、適度な距離感で、それ以上入ってこられると、私は、ひゅっと退いてしまう。不当介入されるのは大嫌いだ。
距離のとり方。そう、私は、お母さんとの距離のとり方も変えた。
あのとき、お父さんの事故のニュースをきいたとき、お母さんの心は、ぱちんとはじけて、カラカラと崩れた。
鬱から抜け出すのに、半年。そこから日常生活ができる程の安定に、持ち込むまでに一年間。回復はとても早い例だったと、石詰先生は言っていた。そして、今の元気になったお母さんは、何というか、深みをおびた人になった。暗いんじゃなくって、半透明の色フィルムを、何枚も重ねていって、だんだんと、深みのある層ができていくような。そんな、落ち着いた人になった。
私は、お母さんが元気になった頃から、もう、お母さんを「母親」とは見なくなっていた。親じゃなく、むしろ、「人」として見るようになっていた。母親も、普通の人なんだ。子供にあたるときもあるし、傷つくし、心が壊れることもある。私と同じ。同等で一個人だったことを、あの日を境に、実感し始めた。
そんな実感が積もる程に、「あそこ」は、もう私の帰る処じゃない、と思い始めた。私の「家族」は、お父さんと、お母さんと、私の三人で居た頃が「家族」だった。お父さんは帰らなくなった。お母さんは変わった。そして、私は自立したいと思い始めた。もう、形だけの家庭は、窮屈なだけだと思った。お母さんを嫌いになったんじゃない。今も好きだし、尊敬している。ただ、私達には、もうあまり意味のない、「とらわれ」からはもう、離れたいと思っただけだ。
私は、家から一キロ離れた所の、学生マンションに住み始めた。お母さんは、今もそのまま、一人で、以前三人で住んでいた、あの家に住む。今も、月末は、お母さんと一緒に外食に出かける。二週間に一度は顔を合わせる。
距離のとり方を変えて、私はずいぶん、ラクになった。お母さんもそうだと嬉しい。ま隣に居ると、しんどいと思うようになってしまった。だから、離れた。ずっと好きでいたかったから。
でも、お父さんは、時間も距離も関係なく、私の心に、しばしば現れてくる。切なさで、心が裂けてしまいそうなくらい、綺麗で素敵な思い出で、私の前に現れる。お父さんとの上手な距離のとり方は、これからも苦労するだろう。なにせ、お父さんとは、私の心ひとつの問題だから。これがなかなか厄介なんだよねぇ。
こんな私を、矢和田はよく好きになったなぁ。付き合いが長くなればなるほど、私はよくそう思う。香も十五年間、一度も離れず、隣にいてくれた。それだけで、ほんと、奇跡と言えないかな。
次話から第四部にはいります