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 面会時間は過ぎて、病院を出て携帯を見たら、矢和田からメールが来ていた。

《どっか近くで、食事しないか?》

 病院から最寄り駅までの帰り道にある、小さなイタリアンのお店で、矢和田と待ち合わせをした。ここのイタリアンは、よく矢和田と食べに行く。商店街に、小さな看板が立っていて、お店は地下に潜んでる。石のモダンな階段を降りて、お店に入っていくとき、ここが京都だということを忘れるくらい、そこはイタリアの空気をかもし出し始める。ひとつ、踊り場を曲がって、階段を降りきる。ガラスのドアを押すと、ホール全体は、暗くて、テーブルのひとつひとつに、ロウソクが、仄かな炎を揺らめかせながら立っている。

 奥の方の、二人用のテーブルに、矢和田は待っていた。矢和田は手を少し上げて、自分の居場所を示した。私は、気持ちとは逆に、ゆっくり歩を進めて、矢和田の向かいの椅子に腰を降ろした。

「今日は何にする?」私が落ち着いてから、矢和田がきいてくれる。

「今日のドルチェによるね」私は嬉しくて、顔がほころぶ。矢和田との食事は大好きだ。

 今日は、矢和田は、バジルと六種のチーズのピザを。私はボンゴレロッソのドルチェセットを頼んだ。お互いに、注文した料理を分け合って食べながら、何気ないお喋りを綴った。

「今日な、研究生が、すごいミスしてな〜」矢和田が話す。矢和田の言う、「すごい」は、全然すごそうにきこえない。思いやりがあふれた愚痴をこぼす矢和田を見ていると、私の顔は、自然とほころぶ。

 矢和田と、日常の些細な出来事を語り合うのが、すごく好きだ。私が笑って、矢和田も笑う。私の塾の話、最近読んだ本の話、一緒に観に行きたいと思っている映画の話、何でも話す。

 そうやっているうちに、ピザの大皿は、底の繊細な模様をあらわにして、パスタ皿の底は、曇りのない、綺麗な白を見せ始める。ワインも程よく、私の体に沁み込んで、矢和田もいつもより、顔がほころんでいるみたいだった。ほろ酔いで、私達は店を出て、帰りの駅に向かった。

 お店は駅のすぐそばだから、少し話しているうちに、もう着いた。販売機で切符を買って、一緒にホームで電車を待つ。まもなく電車が、トトン・トトンと線路を滑ってきた。私達はそれに乗る。座席には座らないで、立ってそのまま、話しを続けた。周りに、やかましくない程度の声量で。乗った駅から、三つ目が、私のマンションの最寄り駅。五つ目が、矢和田の最寄り駅だ。

 私のマンションの最寄り駅に、電車が到着した。ドアが開いて、私はホームへ降りる。

 矢和田は、降りない。

「じゃあ、また。気をつけてな」矢和田が優しく話す。

「うん、矢和田も。今日は楽しかった。ありがとう」私と矢和田は、こうやって、ほんとに気持ちよく、今日の二人の終わりを告げる。

 ドアがゆっくり閉まる。私は、矢和田の姿が見えなくなるまで、電車を見送る。

 

 見送ってから、私は、どこか、空虚な感じに包まれる。いつもそう。矢和田と楽しい時間を過ごせば、過ごした分だけ。あの日から、矢和田と和解できた日から、矢和田は、私には触れてこなくなった。

 矢和田は、私の側に帰って来てくれたけど、多分、どこかで、まだ私を納得していない。それとも、矢和田なりの、何らかの、けじめでもあるのか。そこはもう、矢和田にきかないと、分からない。

 でも、今は、きかないでいようと私は決めている。矢和田から口を開くまで、私はそのままにしておこうと決めた。側にいて、一緒に話をしてくれるだけで、私は充分矢和田に感謝している。そして、幸福な気持ちになっている。側に居続けてくれているだけで、私は、それだけで今は満足だ。

 でも……どこかで、覚悟の気持ちは、もう、あった。

 今度、矢和田が私から離れるとき、そのときは、二度と矢和田は帰ってはこないと思う。

 そうなったら、もし、そうなっても、私は矢和田を恨むことなんて、ないだろうし、そして、追いも、しないだろう。矢和田がいなくなったらときは、その状況を、ありのまま、受け止めようという覚悟。誰のせいにもしない。矢和田のせいにも、環境のせいにも、私だけのせいにも、しない。そのまま受け止めて、先を見よう。

 後悔のないように。

 お母さんの一言が、胸に響いて、夜の大気に余韻を残す。



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