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2

 府立病院の待合室で、私は、おばさんを見つけた。私のコートは、凍る程に冷たいけれど、私自体は熱くて、セーターも脱ぎたい位だった。

 病院の中は、妙に生あったかい。

 それが私には落ち着かないあたたかさで、私はコートを脱ごうかどうか迷ったが、脱がずに、おばさんの方に近づいて、私はおばさんに声をかけるのを、待った。

 おばさんは、長椅子に座って、背中を曲げて、ハンカチを目の下に押しつけていた。

 私はそのまま、待った。五分位経って、おばさんが、はぁっと息を吐いて顔を上げたので、私はゆっくりおばさんに声をかけた。

「敬ちゃん」

 おばさんは、私に気づくと、笑って椅子から立った。

 まじまじと私を見て、「大きくなったねぇ。また美人になってー」と、香の家で会うときと同じ、冗談めいた口調で、私の背中をぽんぽんと叩いた。私は少しほっとした。

「香は、今はどうですか」

「三階のね、集中治療室にいるの。今なら会えるし、十分だけだけど。敬ちゃん、香に会ってやってくれない?」

「私、ICUに入っていいんですか」

「いいの、だって敬ちゃんだもの」おばさんは私の背中を押して、「私からのお願い」と、付け加えた。

 


 待合室から、一階の長い廊下を歩いて、突き当たりのエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの中は、かすかに消毒液の臭いがして、手すりは鈍く銀色に光っている。

 おばさんが、「3」のボタンを押し、(閉)も押す。エレベータの扉はシュウーンと閉まって、ガクンと上昇し始めた。箱の移動する鈍い音が、今日はやけに耳障りだ。

「どうして?」

 私は、おばさんに尋ねた。どうして香が昏睡状態に?

「香に会ってから、後でゆっくり話してもいい?」

 おばさんは微笑んで、私に言った。

 私はうなずいて、無理にでも微笑んだ。

 私を見て、おばさんは、困惑してるような表情で、ポツリとつぶやいた。

「私も、まだ納得いかないことがたくさんで」

 


 エレベーターを降りて、おばさんに従って、ICUのドアの前に立った。

「入って」

 おばさんが私を促す。

 私はここに来て、今頃になって、やっと、とてつもない実感がわきあがってきた。香が本当にICUに入っている、という実感が。

 私の鼓動が速くなっているのが分かった。私はゆっくり、ドアノブを回して、部屋の中に入った。

 本当にこの部屋のベッドの上に、彼女が、いた。

 足が動かなくなった。本当に、がっちりと。

 私の足が、地面に根をはった。硬直は手の指先まで浸透して、完全に固まってしまった。コードだらけの彼女が、私を全身、金縛りにして動かしてくれない。

「敬ちゃん」

 おばさんの声で、呪縛が解けた。私は息を飲み込んで、はい、と返事を返した。

「もう少し、近くに行っても?」

 私はおばさんにきいた。

 おばさんは、もちろん、と手で促してくれた。

 私は、ゆっくり、彼女に近づいて、右側から、彼女の顔をのぞき込んだ。呼吸器とコードにつながれた、彼女の顔を。

 香。

 花びらが舞っているような、薄いピンクの頬に、粉雪がつもっているような、細かな白い肌。

 香の顔は、静寂に包まれて、ぴくりとも動いていなかった。

 口元から、しゅーしゅーという音だけがきこえる。人工呼吸気は、こんな音を()らすのか。

 私は、この香を見て、それでも、これが事実だとは認められなかった。香が、「ふふっ!」と吹き出し笑いをして、起き出してくれないかと、少し待ってみた。

 でも香は起きあがりはしない。

 待て、待ってよ。こんなのって。

 私の心が揺らめいてきた。

 香が「嘘でした」と言って、私の心臓をバクバクさせてくれるのを待ちたかった。でも、香をとり巻く無数のコードと、『ぴっ…ぴっ…』と鳴る単調な機械音が、『そんなこと、あるわけないだろう』と、私を責めたてる。

「何で」

 思わずつぶやいてしまって、それから私の目の前がぼんやりと、そしてそのまま涙で、香が、見えなくなってきた。

 香!

 私が隣でへたり込んでも、香は表情ひとつ変えず、瞼は閉じたままだった。




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