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大学の、矢和田の研究室で、コーヒーを飲みながら私は自分の過去を話す。
ドアには『不在』のパネルがかけてあるから、他の学生は入ってこない。一応、矢和田と付き合っていることは、大学では内緒にしてある。
「中学校卒業間近は、お父さんとお母さんの仲の悪さが、過度に露見してた時期だったの。家の中、荒れるわ荒れるわで。私にあたったりもしたし。もう、家に帰りたくない、って思い詰めるときもあったなぁ」
「―そっか」矢和田は、少し微笑を浮かべて、私の話をゆっくりきいてくれる。
今だから、こうして矢和田に話すことができる、私の過去。それだけ、私の中で消化されて、「思い出」になったということだ。でも、矢和田だから、こうやって話すことができるんだと思う。矢和田以外の人に、この話をする気は、今のところ起きない。矢和田にも、以前は話す気はなかった。妙に同情されるのも、秘密を握られるのも、嫌だったから。
話しながら、私は思った。結局、私は周りをどこかで怖がって、信用していないんだ、きっと。他人に対して、私はいつも、どこかで有刺鉄線を張る。だから、これは進歩だ。矢和田には隠さず、きいてもらおう。そう思えるようになったのは、私にとっての進歩だ。
陸上部も引退して、三年生の秋から本格的に、高校の受験勉強を始めた。放課後、強制下校の時間ぎりぎりまで、私は学校で勉強をした。学校を出るのは、大体、夕方六時頃。そこから自転車で三十分かけて家まで帰る。秋から冬に近づくと、日が沈むのも早くなって、帰り道は、暗い歩道を走るようになった。いつだったか、帰る途中、信号待ちでおもむろに、私は空を見上げた。その日の空は、雲はなくて、星がぱらぱらと見えた。星の光以上に、月が、冴えるような白い光を反射させていた。その夜の月は、たまたま満月で、地表近くの冷めた空気と、上空の澄んだ大気から顔を見せるその月は、なぜか不思議と儚くて、私の心は、急に切なく哀しくなった。
その月を見て、そのとき私は、「このまま、どこかに行ってしまいたいな」と、思った。ごく、自然に、そう思った。ハンドルの方向を変えて、そのまま、違う道へ。どこかへ行ってしまいたい。そう思う夜だった。結局、そのまま、家に帰ったけれど。
「結局、そのまま、家に帰ったんだけどね」私は、自分が少し泣きそうなのに気付いて、コーヒーを長く飲んだ。矢和田は、何も言わないで、私を見た。その、気詰まりのない、穏やかな沈黙に気持ちは満たされて、私は、矢和田に感謝した。ありがとう、今日、話せてよかった。
大学で、矢和田と別れてから、私は寄り道をしないでマンションに帰った。部屋に着いて、時計を見たら、午後七時過ぎで、八時から始まる塾に間に合うように、スーツに着替えて、髪をくくった。
冷蔵庫を開けて、食べ物を見た。見ても、あまり食べたいとは、やっぱり思えなかった。とにかく、生徒には元気で話せるように、適当に、炭水化物をつまんで、頭が働くように準備した。
香が眠ってから、私は、ご飯があまり美味しいとは思えなくなった。矢和田と食べるときは、美味しいと思えるけれど、以前とは全然違う。「食べたい」という、食欲自体が減った。何となくだけれど、香が食べてないのに、私が食べるのが、どこか辛くて、申し訳ない気がしている。とにかく、悲しいんだ。精神的に参ってくると、私はまず、物が食べられなくなる。拒食症にはならないようにしないと。そう言いきかせているから、食べているだけだ。お母さんが前、言ったように、まずは私が元気でいないと、何も始まらない。
「よし、行こう」私は、気持ちを持ち上げて、部屋の扉を外側から閉めた。