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香との面会は、今日で三回目。今日も香の病室は穏やかで、私は、香がそこにいることでの安堵感を今日も強く持つ。今日は、香との中学校生活を過ごした話をしよう。
「この前までは、確か中学校に入学して、一緒に陸上部に入ったとこまで話したよな?」
もう少し先に進むかと思っていたけれど、なかなかゆっくりだ。話しだすと、忘れていた記憶がよみがえってきて、膨大な量になって、私も正直驚いた。記憶なんてあいまいなもんだ。香との思い出は、私が認識していた以上に、濃くて、深かった。
陸上部では、香は短距離。私は砲丸・円盤投げになった。顧問の先生が、部員それぞれの能力に応じて、種目を決定する方針だった。まぁ、私は瞬発力がなかったし、肩の強さを生かした競技に充てられたのには、納得するしかなかった。ただ、砲丸投げは、つまらなかった。
「砲丸投げって、陸上で一番マイナーな競技だと思わない?」私は香に尋ねる。
「あれよ、だって、フィールドの隅のすみで、半径1メートルの丸の中で、円を縁どるみたいに、砲丸をかついだまま、ステップ踏んで、『うりゃっ』って鉄球を飛ばす、だけなんやで。しかも夏場の鉄球は、ほんとに熱いんよ、これが」話しながら、陸上部の風景を思い出す。季節は夏だ。夏が一番きつかった。今、私の手が、妙にちりちりとしているような気にさえなった。
「ほんとに熱いんやで」もう一度、香に念を押した。
私の中学校は、どちらかといえば、田舎なところにあったから、周りは木だらけで、セミがやたらと五月蠅かった。暑い中で、低重音の『う、いいーん』という声をだされると、少なからずイライラしてしまう。砲丸投げの練習場所は、短距離の練習場所と比較的近かった。時々私は、短距離の方を眺めた。短距離は、見ていて、華があった。
「香が、フライングしてるの、見つけたときもあったよ」私は、思い出し笑いをした。
「クラウチング・スタートって言うんかなぁ。あれは」香の走る姿は、京都独特のうだるような夏の蒸し暑さを一掃してしまうほど、綺麗で爽やかなものだった。
記録を測るときの、本気の香の走りは、今も印象的だ。スタートラインに短距離選手が五人並ぶ。香は、ゴールに向かって、右から二番目。ゆっくり、すべるように、スタートラインに顔を近づけ、フォームを固める。誰かが、ピストルを、晴れた空に向けて挙げる。一瞬、間が空いて、ぱーんと空気を貫くような、爽快な、乾いた音がグラウンドに響いた。
音が消える前に、選手達はもう、走り出している。香は、短い髪をさらさらと揺らし、腕と脚を見事なまでに、機械的に動作させ、ゴールに向かって走る。軽く顎先を上げて、遠くを眺めるような表情は、未開の土地へ歩を進める、旅人のもののよう。香が見ているその先の視界を、私も一度でいいから見てみたいと思った。ゴールした後の香の表情は、微笑が浮かんで、周りの空気を浄化しているみたいだった。そんな、澄んだ香に魅せられて、私は素直に、香は「綺麗だ」と確信した。
その頃からかな、学校で香を見かけると、つい、目で追ってしまうようになった。
「私はねぇ、足がとことん遅かったから、香の走るところが、最高に見てて良かったなー」苦笑を含めて、香を誉める。毛布の下の、今は隠れている、香の足を眺めて、私はもう一度誉めた。
「あの走りは、うちの憧れだったんよ」おっと。
言って、誤解がないように、もうひとつ、付け加えた。
「でも、走らなくても、香は爽やかよ」そう、何をしていなくても、香は今も爽やかで、穏やかに、私を癒してくれる。