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でも、結局は同じ内容を、二日後におばさんからきくことができた。
香の面会の後、おばさんと一緒に、病院の食堂でご飯を食べた。さばの煮物をつまみながら、おばさんと話しをしていて、その話題が出てきた。おばさんは、怒り任せに言うんじゃなくって、『もう、過ぎたこと』のように、ある意味、報告として、私に教えてくれた。
話は、香が階段から落ちた、あの日の銀行でのこと。見多氏が言っていた、最初の状況には、嘘があったらしい。
「見多さん、自分は下にいて、香が上で仕事してた、って言っていたでしょう。本当は、最初、二人で二階にいて、そこで口論になっていたらしいの」食器ののったお盆を横に置いて、プラスチックのカップで、お茶をゆっくり飲みながら、おばさんは話を続けた。私は、ご飯が食べきれなくて、食器に食べ物を残したまま、おばさんの話をきき入った。病院のご飯は、残念だけど、食欲を削がれる。
おばさんがきいた、見多氏からの告白の内容をまとめればこうなる。あの夜、見多氏は、最初の話では、一階で、その日の決算が合っているかチェックをしていた。そのとき、階段の方から、大きな音がして、駆けつけたときは、もう香は下まで落ちていて、意識が無かった。これが、見多氏が私達に報告した話だ。
でも、違った。見多氏と香は、その夜、銀行の二階の部屋で、最初、話し合いをしていた。結婚について、意見のくい違いがあったらしい。
日どりや、呼ぶ人、結婚式の規模、予算。見多氏の希望と、香の希望が正反対で、少し口論になったそうだ。お互いに意見を譲らなくて、口論が激しくなりそうなのを予感して、見多氏の方が頭を冷やすため、一階に降りて行ったらしい。見多氏が降りてすぐ、香も部屋から出て、階段の方に向かったらしい。見多氏と仲直りをしようと、話しをしようと、急いで階段を降りようとした。そして、暗がりで気付かなかった、床のぬめりに足をとられて、そのまま、階段から落ちた。後は、見多氏の言った通り。彼はすぐに病院の救急センターに連絡をして、香をそこに運んだ。
そして、今、こうなっている。
「これは、もう、何も言えないわ」おばさんはそう言いながら、涙ぐんでいた。おばさんの声は、話している間ずっと、少し震えてて、かすれ気味だった。
「どちらが悪いとも言えないわよねぇ」ぐっと口の端を持ち上げて、おばさんはいつもの笑顔を見せた。石詰先生は、見多氏がおばさんに、泣いて謝っていたのを見た、と言っていた。おばさん曰く、見多氏が最初から事実を言わなかったのは、当人同士の口論の結果、こうなってしまったと思われて、香と縁を切られるかもしれない、そう思うと、怖くて言い出せなかったそうだ。事実をきいて、おばさんは見多氏を許して、見多氏のことは、まだ婚約者として見ている。
「香のことが、それだけ大事だったから、ああやっちゃったんでしょうねぇ」おばさんは、「複雑だわ」と言葉をもらした。確かにそうだろう。私も同じだ。香を失いたくないために、彼は事実を隠した。香が大事なのは、本当だったとしても、そのためには嘘もつける見多氏。そこには見多氏のずるさが現れてる。おばさんの複雑な心境は、そういうことだろう。
でも、私は、それとは別に、見多氏に対して、不安な感じを持った。不信と言った方が、ちかいだろうか。
香と縁を切られたくなくて、それが怖くて、事実を隠していた見多氏。それだけ香を失いたくなかったのに、香が昏睡状態になったら、軽々と彼は、香に向かって、「やってられない」と、言い放った。人の気持ちが移り気なのは知ってるけれど、数日で、ああも変わってしまうのかな。見多氏の心境の変化には、ただただ驚くばかりだ。
ぬるくなったお茶を少し飲んで、私は少し目を細めて、考えをまとめようとした。
変わってしまうものなのかもな。
もう、そう思うしかないと、私は判断した。やるせなさと、悲しさと、責めたい気持ちは胸にしまって、この話は、もう忘れようと思った。おばさんも、見多氏を許しているんだ。
食堂を出て、おばさんとはロビーで別れた。
「敬ちゃんまたね。身体には気をつけて」おばさんは、微笑みながらそう言って、また香の病室の方に向かった。私は、おばさんが廊下の角を曲がって見えなくなるまで、その場でおばさんを見届けた。
私はロビーの、病院にしては立派なソファに腰かけて、どこを見るともなく、ただぼんやりと、しばらくここに留まった。病院はもう、診察も面会も終わっているから、病院全体が薄暗くなっていて、私が今いるロビーも、転々と小さなライトがほの暗く点いているだけだ。薄く光るライトに床が照らされて、床に触れている私の靴と、その先にある足首が、そのまま、さかさまに床に映る。揺れない水面に乗ったなら、こんな風に映るのかな。暗い床に、足が四本。するりとそこに映っている。
気付けば、ロビーには私しかいなかった。あたりは静かで、耳鳴りが起りそうなくらい。ここの温度は適温で、薄暗い中で、これといって目を凝らして見るものもない。このような状況は、五感への刺激を極端に乏しくしてくれる。そうなると、私の感覚は、外側からの刺激より、内側の刺激に敏感になる。私の、ぼんやりしていた頭が、徐々に働きだした。
忘れようとしても、忘れられない。見多氏の、あの、嘘。石詰先生とおばさんから、彼の話をきいて、私は見多氏のことが一層解らなくなった。見多氏は、どこか矛盾している気がする。どうしてだろう、見多氏が気持ち悪い。何なんだろう、私は座っていて、足元が『危うい』感じを持った。病院の、鈍く光るフロアに、うっすらと映る私の足。私の、その両足が、そのまま床に吸い込まれて、吸い込まれながらどろどろと、溶けだすような、そんな感覚が足先から頭まで、ぞうっ、とうごめいて、そして一瞬にして逃げて行った。私は、背筋にその、ぞぞうとした、気持ち悪い余韻を残したまま、宙全体を睨んだ。