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朝、十時頃に電話が鳴る。受話器をとったお母さんの顔が、氷より冷たそうな表情になった。私は、お母さんの顔を見て、無言で驚いたけれど、何事が起きて、お母さんがそうなったのかが、まだ分からなかった。お父さんがそんなことになったなんて想像もつかなかった。当たり前だけど。
小刻みに震える手で、お母さんが、片手で受話器を胸に当てて、もう片手で、側にあったテレビのリモコンをとる。かちりとテレビの電源を入れた。私は、テレビ画面とお母さんを交互に見た。
まず、バラエティーが映った。甲高い笑い声を上げて、部屋がそんな電子音で一杯になる。でも内容は覚えてない。見る暇がなかったから。
チャンネルは、ニュース番組の、お父さんの乗った、飛行機事故の報道に切り替わった。こっちの内容もほとんど覚えてない。じっくり見る余裕はなかったから。暴れるお母さんを抑えるのに、私は必死だった。
一時間で、家の食器棚が二つ倒れた。勢いよく倒れるから、埃よけのガラス戸は、粉々に割れて、床に広範囲に広がった。私は手のひらを、お母さんは膝を切った。カーテンは破れて、花瓶は倒れて、テレビは淡々とニュースをつづける。一瞬のうちに、私の家は、空き巣に入られるよりも、残酷に、えげつなく、荒れた。
でも、私と、とりわけお母さんの心は、そんなものじゃなかった。割れたガラスの破片よりも、粉々に、ぱらぱらになった。それでいて、拾い上げようと触れてくるものには、すぱっと切りかかり、血をこぼさせる。人の心は、いつでも修羅になれるんだった。
私達を初めて見つけたのは、お父さんの親友の石詰先生。電話回線が切れていたので、わざわざ家に訪ねて来てくれた。訪ねて来たのが、石詰先生でよかった。先生はすぐに、私達二人に適切な処置をして、お母さんは病院に入院した。石詰先生が家に来たとき、お父さんのニュースを見てから、もう丸一日が経っていた。お母さんをつかみながら、壁かけ時計の二本の針をずっと目で追っていたから、時間は正確だったと思う。秒針が、規則正しく円を描く。止まることのない針を眺めながら、私は、働いているのか、いないのか、それすら分からないあやしい頭で、どうしてこんなことになったのかと考えた。丸一日、ずっとそれだけを考えていた。
この結末に至った理由を山ほど考えた。考えている最中、お父さんの顔は私の頭から消えることは、なかった。
あの日の私思い出すたび、今でも涙があふれてくる。
でも、私も少しは大人になれた。「どうしてああなった?」今は、「とにかく、ああなった。それだけ」と思えるようになった。とってつけようと思えば、原因は幾らでも出すことができた。でも、そんなことをしても、後ろ向きなだけで、結局、何も前に進んでないことに気付いた。
だから、「理由探し」はやめた。最初は怒りをぶつける矛先が無くなって、イライラしたけれど、でも、それも越えたら、私は前向きに、ずいぶん元気になれた。
ま、それでも「ああなって、今の私がいる」。そう受け止められるようになるまでには、ずいぶん時間はかかった。かかったよ、ね。