第一部 1
季節は、まだまだ寒さの厳しい、京都の2月。それでも1月の、骨にきしむような寒さはだいぶ和らいでいる。私はベッドの中から手だけ伸ばして、朝日のさしこむカーテンをさらさらと開けた。今日もいい天気だ。
ベッドから抜け出し、耳に響く金属音が鳴る前に、自分で目覚ましをONからOFFに切り替える。
ここ数年、目覚ましに、「音」で起こされた事はない。目覚ましが「鳴る」という心持ちだけで早起きができるから面白い。
お手洗いに行ってから、コーヒーをいれるために、やかんに水をためる。朝一番の水道水は、古い濁った水だから、二、三回はやかんに入れては出す作業を繰り返す。
やかんに水を八分目。ガスコンロの火を付ける。
お湯が沸く間に、コーヒーフィルターに薄茶色のペーパーをひく。
ペーパーの底の部分は手で折っておく。こうすると、適度にコーヒーが濾過される、らしい。
お湯が沸騰しだしたら、豆の粉をフィルターに八分目、落とす。
そのまま沸騰したてのお湯を、少し高い位置からゆっくり注ぐ。ゆっくり。
粉が蒸れて、ふわっとふくらむ。このときの香りが一番好き。すごくリラックスする。モカブレンドの甘い香りは特に。そのまま、お湯を何度かに分けて注いで、ゆっくりとコーヒーをいれる。アクがでないよう、粉を底に落としきらないよう、気を付けながら。
朝のこの、コーヒーをいれる三十分弱の時間が、私の一日の中で、一番おっとりした時間帯だ。あまり考え事をしないですむのも、この時間帯。とろとろと進む、朝の時間。
コーヒーがいれ終わった、ちょうどそのとき、それを待っていてくれたかのように、携帯のバイブがテーブルの上で震えだした。
メールかな? 二回目のバイブの後、三回目のバイブが震えたから、着信だと分かった。三歩でテーブルの前に行って、携帯をとった。
番号をまず確かめると、知らないところから。
携帯の番号じゃないな。誰かな。思いながら電源を押して、電話にでた。
「もしもし」
「あ、もしもし、敬ちゃん?」女性の声。誰だろう?
あ、もしかして。と思ったら、向こうが言ってくれた。
「おばちゃんよ、香の。分からなかったでしょ、ごめんね」
やっぱり、香のお母さん。
電話じゃ全然声のトーンが違うね、と笑った。それに、ちょっとおばさんらしくない雰囲気だったから。今も何だか、おばさんの声は、震えてるような。
「なんか、あったんですか?」
香に、何かあったんだ。直感でそう思った。
おばさんが、少し黙った。
「香がね、昨日、病院に入ったの。ちょっと入院になってね。それで、できたら敬ちゃん、病院に来てもらえないかしら、ねぇ」
私の全身に、ぴりっと緊張が走った。おばさんの声が、さっきより、ずっと震えだしてる。私はそのまま、おばさんが話すのをきき続けた。
「あ、ごめんね敬ちゃん、こんな朝早くから。早く伝えないとと思ったら。今何時? もお、何やってるのかしら、私は、ねぇ、ほんとにねぇ」
私の背筋が一気に寒くなった。香に、何かとんでもないことが起こってる気がした。
「おばさん、おばさん大丈夫?」
「え、えぇ。ごめんねぇ、おばちゃん、ちょっと今、不安で」
受話器から、組み合うはずのない単語が、文になって、おばさんの声で私の耳に届いた。
「香、今、昏睡状態、なの」
寒さが一瞬遠のいて、というより、感覚が麻痺したようになって、頭の中が真っ白になった。ほんとに、雪山のホワイトアウトのように。
我に返ったとたん、冷や汗が一気に吹き出してきた。私はただ、ここに立っている。おばさんに、返す言葉が出てこない。
もう一度、火にかけていたやかんが、『コトコト』と、音を立て始めている。
いつもの変わらない朝は、いったいどこにいった?