5
マンションに着いて、暗い階段をゆっくり歩いて、私の部屋の前に着いた。今日は色々あった。でも、いつもより、気持ちいい疲れを感じている。私はゆっくり、カバンから鍵を出して、ドアの穴に挿した。
挿して、気づいた。鍵が開いている。
私は、無言で、ゆっくり、ドアを開けた。この雰囲気。二ヶ月ぶりに感じる矢和田の空気。部屋の奥の、テレビがきゃあきゃあと声を上げている。楽しそうだ。それを、ベッドに腰かけた矢和田が見ている。矢和田が私に気づいた。
「よ」矢和田はそう言って、微笑んで、ゆっくりリモコンでテレビを切った。
「よ」私は、かすれ気味に、そう言うしかできなかった。なさけない返事。
「テレビ、何見てたの?」意味の無い質問しかできない。
「いや、バラエティー番組」矢和田がゆっくり答える。
「そっか……」どうしよう。
「うん」矢和田が私の目を見て答える。ベッドから立って、矢和田は机の椅子に座った。どうしよう、怖い。
「敬」怖い!
「ばあちゃんと話をしたんだ」
はい?
「この前。親父の実家の、福岡のばあちゃんと」要点がつかめなくて、私は目を泳がした。
「おばあさま……」
「俺、ばあちゃんっ子なんだ、知ってた?」
知らなかった。と答えても、意味がつかめない。私は矢和田の言葉の続きを待った。
「俺なりに考えたんだ」矢和田が、少し首をかしげて話す。
「仲いい友達に相談して、親父にもきいて、まだ訳分からないから、ばあちゃんに、話きいてもらいに行ったんだ」矢和田が慕う、福岡のおばあさま。どんな方か、想像もつかない。
「敬とのこととか、俺の気持ちとか。言ったら、ばあちゃん、すごい笑ってな」少し間を空けて、矢和田が言った。
「そんなに誰かを大事にできる人と恋仲なんて、お前は幸せもんだねぇ。って言うんだよ」
おばあさまの姿は想像できない。でも、きっと素敵なおばあさまだ。
「俺も、それが分かったから」矢和田が微笑む。ゆっくり、私の目を覗き込んで、矢和田が言った。
「好きにやってみたら? 最後まで離れないから」矢和田―
声に出して、矢和田を呼ぶつもりだったのに、私は声も出せずに、その場にへたり込んでしまった。へたり込む前に、もう泣きだしていたし。私は両手で顔を覆って、無言で泣いた。矢和田は驚いたようで、焦って私の側に来た。
「おーい、敬?」声が私を呼ぶ。ああ、なさけない。返事もできないし、矢和田の顔も見れないなんて。
「あーあ、なさけないなぁ」矢和田が、からかうように言った。
なにおぅ。私は、ぱっと両手をはずして、矢和田の顔を見た。私のすぐ前に、矢和田の顔が見えた。
「ぐちゃぐちゃだな」矢和田は優しく微笑んで、親指で私の涙を拭いた。
「うるさい」私はそう言って、悔しいけれど、いっそう涙をこぼした。矢和田はなんて、優しいのだろう。もう、矢和田は、絶対私のもとには、帰って来てくれないと思ってた。
でも、矢和田は帰って来てくれた。何も動かなかった、ある種ずるい私の処に帰って来てくれた。
告白しよう。私は思った。気持ちを落ち着けて、少し涙を抑えて、私は矢和田の目を覗き込んだ。今、言わなかったら、多分もう矢和田に言う気は起こせない。
「お父さんのこと」私は矢和田につぶやいた。
「お父さんね、事故で死ぬ前まで、お母さんと離婚でもめてたの」矢和田は、正直驚いているようだった。
「……そうだったの」
「言ってなくって、今言って、ごめん」このことを知ってるのは、香だけ。私は、今まで、誰にもこの話はしなかった。できなかった。自分の中で、解決していない問題だったから。でも、今、矢和田には話したいと思った。
「今、矢和田に言いたいけど、きいてもらっていい?」私は不安で尋ねないわけにはいかなかった。
「俺はききたいけど」矢和田が言った。どこかで、肩の重荷がふっと降りたような感じがした。
「うん」私はできるだけ、丁寧に、感情が突っ走らないように、お父さんのこと、お母さんのこと、つまり私の家族について話した。