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第二部 1

 矢和田。心の中で、そうつぶやく回数は、一日何十回だろうか。多すぎて分からない。矢和田が、私から離れてから、もう一週間経った。長い長い一週間。私の心は、あの日から、ぽろぽろと壊れ始めた。

 朝起きると、憂鬱な気分で、頭が朦朧としている。眠たいわけじゃない。でもすっきりしない。コーヒーをいれるのも、億劫な感じだ。頭は、いつもどこかで、膜一枚がはりついているような、すっきりしない感覚。身体は、ジムで鍛えているのに、今は、カバンひとつ担ぐにも、深呼吸しなくちゃならない。階段を上るとき、二度はふらついて、その場にへたり込みそうになる。

 何でよ。

 私はそんなとき、悔しくて、ぐっと歯を噛みしめて、何とか、周りには不調を気づかれないようにしていた。

 睡眠時間は、三〜四時間くらい。それだけ寝たら、勝手に目が覚めてしまう。多分、しっかり寝ると、頭が冴えて、矢和田のことを、はっきり思い出してしまうからだ。頭が働かないように、私の心がわざと睡眠をとらないように、そうしてるんだと思った。自己防衛本能だ。でも、それを繰り返していくと、今度は身体が辛くなってくる。限界だと感じたら、睡眠時間が少し長くなる。それで身体が少し元気になったら、また睡眠時間は三時間くらいになる。食事は、ほんとに、必要最低限しか食べられなくなった。少しムリしてでも食べようとしたら、ぺっと吐き出してしまう。口に含んでも、飲み込むことができない。

 肝臓が、完全に弱ってるんだなぁ。洗面所で、吐き出したチョコレートを流しながら、そう思った。

 そんな睡眠時間と食生活が、そのまま三週間続いた。この三週間の間でも、私は休まず大学に行って、塾講師のバイトも続けた。学校もバイトも、休むのは嫌だった。恋愛のこじれで、自分の日常生活が全部壊れるのは、我慢ならなかった。

 私は、恋愛は生活の一部だと思ってる。生活の一部が壊れたからって、他まで壊すなんて、そんな、なさけないことはできなかった。

 香に会いたかった。香にも、三週間会ってない。私は、香のいる病院に、行くことができなくなった。

 あの後―矢和田が私の部屋を出て行った、あの後すぐに―おばさんから電話があった。私が、見多氏を殴ったことで、見多氏側の親類が、相当おばさん達に、文句を言ってきたらしい。香の友人は、何て乱暴で常識知らずだ、と(このことは、石詰先生から教えてもらった)。おばさんは、私を全然責めなかった。ただ、しばらくは、病院に来ないようにと、言った。

「ごめんね、香に何かあったときは、すぐに連絡するから」私は了解するしかなかった。それからは、香の状況は晃君とのメールで、ちょくちょく教えてもらうだけになった。

『姉ちゃん、安定したみたいで、普通の病室に移ったよ』という、晃君のメールで、少しはほっとできたけれど、全然、満足はできなかった。香は、いまだ、起きる気配は見せていないらしい。あの状態で、心臓が止まれば、そこですべてアウト。香は、そんな不安定な場所にいる。全然健康じゃない。

 香に何かあったとき、つまり最後のときしか、香に会いに行けないなんて、絶対に嫌だ。嫌でしょうがなかった。でも、こんな状況を作ったのは、私だ。私が感情に任せて見多氏を殴ったから、こんな状況を引き起こしてしまったんだ。殴ったことに後悔は無いけれど、今の状況は、耐えがたく辛い。

 私は、おばさん達への申し訳なさだけでも、体調を崩しそうだった。おばさん達の、今の立場も考える。香の友人だった私が、婚約者の見多氏を殴ったことで、おばさん達は、どれだけ、見多氏側から批判を受けたのだろう。おばさんが、私が病院に来ることを断るのは当たり前だ。私は、それを思うたび、すごくおばさんに謝りたくて、しょうがなかった。

 でも、今は謝ることもできない。謝ることが、今回は有効な謝罪方法じゃない。私が今できること、した方がいいと思うことは、余計なことはしないで、じっとしているだけだった。

 分かっていた。分かっているけれど……動けないというのは、果てしなくもどかしい。

 矢和田にも、香にも、私はもう、何も行動することができない。だから私は、動けないかわりに、他の私生活に精力を注いだ。以前よりも、勉強時間を増やして、バイトも臨時で入り、夜まで生徒と問題集にとり組んだ。ある意味、充実している毎日だった。でも、それが欲求の代替である以上、本当に満たされることはなかったし、いくら嫌だと思っていても、心身は、確実に不調になっていった。

 

 大学の図書館で、辞書を探していたら、突発的に目の前がぼやけてきた。

 あ、まずい。私は、もうすぐ、自分が泣きだすのが分かった。引き抜きかけていた辞書を、そのまま押し戻して、向こうのブースに置いてあった、私の荷物をかき集めて、何事もないように、周りに悟られないように、できるだけ、ゆっくり、落ち着いたそぶりで、図書館のトイレに入った。

 便器の流水音で、私は、嗚咽を、周りにきこえないようにしながら、トイレの小さなスクウェアの中で、へたり込んで号泣した。のどの奥から、心臓の鼓動を吐き出すように、「えっ、ううっ」と、泣き続けた。肩は激しく揺れて、痛いくらいに、上半身は力が入りすぎている。でも、足には力が全く入らなくて、立ち上がる気力さえ生まれない。

 矢和田も、香も、私の生活の一部になっていて、一部は全体に及んでくる。今日、それを自覚してしまった。

  



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