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 車の中で、私と矢和田は無言だった。私が会話を拒否していたから。無言のまま、私のマンションの前に着いた。助手席のドアを開けて、車から降りずに上半身だけ少しのり出して、私は自分のマンションを、何となく見上げた。私のマンションは、ブルーが基調で、やっぱり気分が悪いせいだ、この建物がいつもより寒々しく見える。矢和田が、私の右太腿に触れた。

「向こうのコンビニに駐車してくるから、先行ってて」矢和田は少し微笑んで言った。

 私は微笑み返せなくて、無表情で車から降りて、自分の部屋に向かった。余裕が無かった。エレベーターで、私の部屋の階に上がって、鍵を回して、部屋にあがり、矢和田が戻ってくる前に、部屋の乱れているところを簡単に整頓し直した。

 十分後、矢和田がコンビニの袋を持って、ドアを開いて、玄関に入った。私は、玄関すぐの台所で、お茶の用意をしていたから、そこで矢和田から、お菓子入りのコンビニの袋をもらって、お礼を言った。

「紅茶いれるね」少し鈍ったままの頭で、私は、やかんに火をかけた。

かけて、奇妙な感じに気づいた。

 矢和田が靴を脱がない。

 私は、矢和田の行動が分からなくて、きょとんとした。

「敬」矢和田が、うつむいて言った。片手で頭を軽く掻きながら。次の言葉を探しているよう。

「あれは、やりすぎじゃないか」私は、矢和田の言葉を受けて、体がずしん、と重たくなるのを感じた。矢和田が、顔を上げて私の目を見る。それ以上、何も言ってこない。私の意見を待っている。

「―でも、見多氏が、香のことを、もう、要らないみたいに」

私は、できるだけ、感情を落ち着かせながら話した。

「言って、それで、香のこと……やってられないって」

 矢和田が、「分かる、それは分かる」、といったしぐさで、私の気持ちを理解してることを示してくれた。でも、私がやった行為に、納得はしてない。

「敬が香ちゃんを大事に思ってて、ああしてしまったのも、分かる」矢和田は少し、間をつくった。

「でもな、見多さんは、香ちゃんの婚約者だろ」

「だから?」声が裏返った。矢和田、だから何?

「見多さんと香ちゃんの間に、敬は入っちゃ駄目だったんじゃないか」矢和田が、はっきり言った。 私の眉間がぴくりと痙攣した。

「二人の関係だろ」矢和田が、困ったように、言う。

「あんな人に、香が邪険にされたのが我慢できない」私は、右手を握り締めて言った。頭は、もうぼんやりしてない。

「私は、絶対、見多氏なんか、婚約者だと認めない」一瞬で、矢和田の表情が変わった。怒っているようじゃない。不思議そうな顔をしている。動揺している。矢和田の目線が定まらなくなっている。

「待て、敬。俺にも、昔からの友人は、いるさ」矢和田が、困惑を含めた口調で、私に言った。

「俺の友達が、こんな風に、事故に遭った経験はまだ無いから、分からない部分はあるけど……想像でも俺は、敬が香ちゃんにするようなことを、あんなことをする感じは……しない」

 私は気づいた。

昨日の夜の、香の治療費の話。今日の見多氏への行為。矢和田は全部ひっくるめて言っている。

「友達は、確かに大事だ。でも、敬を見てると、何なんだ、一体―」矢和田が言葉を詰まらせた。すごく、困惑している。けれど私も困惑していた。何? 矢和田の言いたいことがつかめない。友達が大事なのが、香が大事なのが、何なの?

「敬、おまえ、俺といるのに。三年間付き合っているのに。なのに、香ちゃんに対しての敬を見てると」矢和田が、もう一度、頭を掻く。大きな動作で。私は、急に、ひゅっと、恐ろしい不安を感じた。なぜだか分からないけど、怖い。矢和田が、私の目を見た。

「レズ―なのか?」認めたくないように、矢和田が言った。

 私の体が、くらりと揺れる感覚がした。心が動揺したからだ。私は震えてきた体を、何とか矢和田に気づかれないようにしながら、言った。

「違う、と、思う」まずい。言って、あいまいな答え方を、してしまったことに、気づいた。矢和田が浅く、そして長く息をはいた。玄関はヒーターから遠いから、矢和田のはく息は、白く、目に見える形になって、私たちの間をおよいだ。

「じゃあ、あれは、どう説明できる?」矢和田が、まだ分からないように言う。「見多さんは、婚約者なんだぞ。俺達だって……口約束でも、そう決めただろう」空気が張り詰める。矢和田の白い息が、一瞬、消えた。

「敬。敬は、一体、誰を一番に考えてるんだ」

 矢和田!私は、突発的に泣きそうになって、焦って、涙を抑え込んだ。今、矢和田は、私が一番、きいて欲しくないことを、きいてきた。ずっときかれたら困ると思っていた質問。

本気で、呼吸が止まりそうになった。少しむせるように、息を吹き返して、私は「どう言えばいい」、と頭を一生懸命働かせた。矢和田に早く、何か言うべきなのに、優しい言葉が見つからない。話せない。矢和田が私を見つめる。私の目頭が熱くなってきた。でも、ここで泣きだすのは、ずるい。私は髪に手をかけて、そのまま、手で髪を握りしめた。

泣くなよ。私は必死で涙をこらえた。

 私は、矢和田の質問の意味も、矢和田が言って欲しい答えも、分かっている。『もちろん、矢和田が一番大事に、決まってる』と言えば、矢和田は安心してくれる。それは分かってる。でも、本音はそうじゃない。だから、この質問は、絶対されたくなかった。でも誤魔化せば、私は、香と矢和田の二人に対して、嘘をつくことになる。両方に対しての裏切りだ。引き換えに、平安は確保できるだろうけど。それでも私は、嘘は嫌。裏切りたくないと思った。破滅するかもしれないと、どこかで予感しながら、私は、言う方を選んだ。

「香が誰よりも大事」あっさりと、私は偽り無く、矢和田に告白した。 

 矢和田の表情が、一気に落ち込んだ。それを見ながら、私は続けた。

「ゆずれない」この一言が、私の気持ちを表現しきった。

 十秒なのか、十分なのか、沈黙の中、私はずっと、矢和田を見つめた。矢和田は目線を足元に落としたり、首を少し横に傾けたり、言葉を捜してるようなしぐさをしたりして、とにかく、悲しんでいる。悲しんでいる。私が悲しませている。

「―帰るよ」そして矢和田は、ふいに言った。その瞬間、私は、我慢しきれなくなって、矢和田の前で、涙を流した。 

「矢和田」そう言うしか、できなかった。

 私に背中を向けて、矢和田はそのままドアノブに手をかけた。こっちをふり向かない。ドアを開けたとき、矢和田が背を向けたまま、ぽつりと私につぶやいた。

「お前が分からない」ドアは、ぱたりと閉まって、矢和田が、遠のいていくのが感じられた。私はそこから、動かなかった。動けなかった。ドアを開けて、矢和田を追うこともしなかった。できなかった。矢和田がドアを閉めたとき、矢和田の心も閉められた。言えばこうなるだろうと、半ば分かっていながら、私は、本心を矢和田に言った。私は、確実に、矢和田より、香が大事だ。

 閉められたドアを、ただじっと見つづけて、何分経ったのか。私は、徐々に感情が抑えられなくなって、突発的に、嗚咽をはいて泣きだした。台所と、奥の部屋につながる段差の所にへたり込んで、壁に頭をこすりつけて、泣きわめいた。嗚咽を吐きながら、私は、やっと自覚した。矢和田が、ここまで私の気持ちをかき乱す、そんな存在だったことを、今、痛烈に全身で感じた。そして、もう、うまく働かない頭で、私は怯えだした。今、私は矢和田をなくした。そして香もなくなったら、私はもう立っていられない。矢和田と香が、両方いなくなる瞬間。それが訪れるときを想像するだけで、怖くて、全身身震いがした。



次から 第二部に入ります

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