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私は体を止めた。今の台詞、見多氏自身、気づいて無いかもしれない。でも私はきいた。とっさの、人の本音をきき逃さなかった。ドアの向こうには行かずに、私は見多氏の方に向き直した。ここから三メートルほど、離れて椅子に座ったままの見多氏に、私はきいた。
「今、何てことを言ったんですか」
見多氏が、きょとんとした表情で、何? といった表情で、「え」と、言った。
「何が『やってられない』んですか」もう一度、言った。
少し、間が空いた。見多氏自身、やっぱり、無意識で言ったみたいだ。私の質問の意味が、やっと分かったのか。それとも、自分の言ったことを今更に自覚したのか。見多氏が、それこそ、はあ、やってられないな、というような苦笑を私に見せた。その見多氏を見て、私の頭が、すうっと冷める感覚になった。そしてどこかで、血が、こぽりと沸騰するのを、感じた。座ったまま、見多氏は、両の手のひらで、わけの分からないしぐさを始めた。言葉を捜しているようで、あごに手をあてたり離したり。口を微かにゆがませている。
「―だって、そうだろう」見多氏が、言い放った。見多氏は苦笑して、眉間にしわを寄せている。そんなに責めるなよ、といっているような、どこか懇願しているような表情。見多氏を見て、私の感情の湖に、確かに波が立ち始めた。
「今の香は、何も話さない。僕の話もきこえてないかも。感覚も何もかも無い状態かも。もう起きる保証も……今はゼロだし。つまり、『植物状態』なんだよ」一語一語丁寧に、脈絡無く、見多氏は私に話す。そして、ふい、と、私から目をそらして、悲しさと、わずらわしさを混ぜたような表情で、明らかに別の場所にいる香に向かって、彼は言った。
「これじゃ意味が無い」
「意味が無いって何だ」自分でも驚くほど、声は、大きく、高ぶっていた。
私を見て、見多氏は動じず、冷笑を返してきた。何だこいつは。私は、気持ちを抑えた。でも、体の震えは止められない。
「香は、生きてるのに」私は、見多氏に言った。
見多氏が、さらりと言いきった。
「生きてる。そう、『生きてるだけ』じゃないか」
数秒の出来事だった。
言葉の代わりに、私の拳が、見多氏をふきとばした。一秒もしない間に、私は見多氏の前に、三歩で移動して、彼の胸倉をつかんだ。そして見多氏の左顔面に、無言で渾身のフックをくらわした。私の感情と行動が、スムーズに働いて、見多氏に向かったんだ。私の怒りが、まず、私の脚を動かして、私の左腕を動かして、彼をつかみ、右の拳で見多氏の顔面を殴れと指示した。指示通り、拳は見多氏を完璧にヒットして、見多氏を床に突っ伏させたわけだ。
ほんとに、見多氏は勢いよく床に突っ伏した。倒れ込むとき、側に置いてあった、安定性の悪い、アルミの本棚に手をかけたせいで、それは大きな音を立てて、見多氏の側に横倒れになった。本棚には、ガラスの花瓶も立てられていて、それも、がちゃりと音を立て、大きめの破片になって床に散らばった。あまり時間がたたないうちに、看護婦が一人、ドアを開けた。
「どうしたんです」と私達二人を交互に見た。私は何も言わず、ぼんやりと看護婦を見た。見多氏は、頬を押さえて、何が起こったのか、まだ分からないような表情をしている。目をぱちぱちさせて、首を少し傾けて、そのまま床から起きあがらない。起きあがれないか。
その間に、石詰先生とおばさんとおじさんと、それに、矢和田が控室に入ってきた。矢和田。留守電の私の伝言をきいて、来てくれたんだ。いつもなら、私はここで、たくさんのことを考える。絶対に考える。香の婚約者を殴り飛ばすということは、絶対にまずい行為で、それをみんなに見られたんだから、絶対に「どうしよう」と焦る。
でも、今日は、この状況で皆を見ても、まだ、少し頭がぼんやりしたままで、それよりも、見多氏の方に思考が一杯で、私は視線をまた彼に戻した。右の拳が、ちりちりと痛くなってきた。反作用の力だ。殴る行為は、殴られた相手も、殴るこっちも、痛い。
「出て行け」私は見多氏にゆっくり言った。
「香の前に、もう現れるな。ここから出て行け」今度は叫んだ。このまま、蹴りもいれてやりたい。 矢和田が、すばやく私に近づいて、私の両腕を後ろからつかんで、私を全身で押さえた。諭すように、なだめるように、耳元で、「敬」と、私の名前を呼んだ。呼ばれて、私は、ぼろりと涙をこぼした。泣けてしまった。
見多氏が、やっと状況に対応できるようになったようで、私に向かって、やっと苦々しく、言葉を吐いた。
「出て行ってくれ。僕じゃない。あんたが出て行くんだ」私は矢和田に押さえられたままだ。
「僕は彼女の婚約者だぞ」見多氏が叫んだ。だから何だ。矢和田が私を捕まえていなかったら、みんなの前であっても、もう一度、私は見多氏を殴っていただろう。私は、声を震わせて、言葉で見多氏を責めた。
「婚約者なら、どうして、あんなこと言うんだ」私はそのまま続けて叫んだ。
「どんな風になっても、香が好きなら別に生きていてくれるだけで、それだけでいいでしょう」私は、う〜、と体を曲げて、顔を下に落とした。後ろから、私を包んでいる矢和田も、体を少し曲げて、私をそのまま離さない。何であんなこと婚約者が言うんだ。やってられないなんて、どうしてそんなことが言えるんだ。もう、それで頭が煮詰まりそうだった。