10
病院の最寄り駅に電車が着くと、私は誰よりも最初に出て、そこから病院まで走った。朝、晃君から電話がかかった。香の状態が悪化した、と。
「とにかく、来て」晃君は、声を震わせて言っていた。香の病状が悪化って、あれ以上の悪化の先には、「死」しか、私には思いつかない。
病院に着いて、すぐに、まず家族控室に向かった。控え室の前でおじさんを見つけて、すぐに声をかけた。私は、相当焦っていた。おじさんは私を見て、「敬ちゃん、大丈夫だよ」と、教えてくれた。 香はとりあえず、また安定したそうだ。
「今、先生からきいたから。大丈夫だって」おじさんは言いながら、私を見て、「走ってきたのか、敬ちゃん」と、言って少し微笑んだ。私は乱れた息を整えながら、「よかった」と、きこえないくらいの小さな声でつぶやいた。ほんとに、持ち直してよかった。
「おばさんと、晃君は控室に?」私は控え室のドアを見て、おじさんに尋ねた。
「いや、今、先生と別室で話をしてるよ。晃は、親戚のおばさんと一緒に飯食いに行かせたよ」おじさんは付け加えた。「見多君がいるよ」
おじさんも、話をきくために、おばさんのいる別室に向かった。香には、今日はもう会えないらしい。「今日は、かけつけて来てくれて、ほんとに感謝してるよ」おじさんは、そう言った。
私は、家族控室のドアを開いて、見多氏を見つけた。小さな家族控室に、見多氏一人が、ちょこんと椅子に座っていた。顔を下に向けていたけど、人が入ってきたのに気づいて、ふっと顔を上げた。そして私だということが分かると、「やあ。朝来さん」と言った。
見多氏と、売店近くの自販機のところでコーヒーを買って、そこで少し話をした。当たり障りの無い会話。私の大学生活や、見多氏の銀行での仕事や。話の内容どうこうより、これだけ長く見多氏と話していることに、私は驚きさえおぼえた。それだけ、見多氏と私は、遠く離れた存在だったから。香を通してしか、見多氏を認識していなかった、とも、言えるくらい。コーヒーを飲み干して、見多氏は、ふうっと息を吐いた。疲れているみたいだ。顔が少し青い。
「今日は、ほんとに大変でしたね」私が言うと、見多氏は、え? といった顔をした。
「ああ…うん、ほんとに」そう言って、見多氏は控室の方に顔を向けた。
「まだ、控室で待ちますか?」
「ああ、今日は銀行を休んできたしね。朝来さんも?」見多氏は紙コップをつぶして、くずかごに捨てた。
「ええ、おばさんに会ってから、帰ろうと思うので」私も紙コップを捨てて、見多氏と控室に戻った。
控室で、見多氏から、今日、香に何が起こったのか話してもらった。
「香のお母さんと僕とで、集中治療室の香を見てたら、彼女の体が急に揺れだしたんだ」見多氏は両手で顔をおおって、はぁっと息を吐いた。
「すぐに主治医が来て、そのまま措置を看護婦と。身震いがしたよ」見多氏は言った。
発作が起きたのか。私の背筋は寒くなった。私は、甘く考えすぎていた。脳外科医の先生から、「目覚めないかもしれない」とまで言われていた香が、いくら今は、安定しているからって。
私は昨日の話で、「これからも安定のはずだ」と思ってた。時間はかかるかもしれないけれど、香はきっと、元気に目を覚ますだろうという、根拠の無い予感しか持ち合わせてなかった。甘過ぎた。私は楽天的過ぎた。香は、『生』より、確実に『死』に近い場所にいるんだ。
「ちょっと、お手洗いに」私は、涙がこぼれる前に、ここを離れようと思って、控室を出ようとした。 控室を出ようとしたそのとき、私の背中の方から、見多氏の台詞が、ぽつりときこえた。
「やってられないな」見多氏が、そう言葉をもらした。